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第一章

 【四】

 紅葉はその場に寝転んだ。子どもたちに強引に連れて行かれる夜人の悲鳴は都合よく無視をした。隣では麻奈も同じように寝転ぶ気配がして、紅葉は小さく笑みを零す。
 配給された昼食を摂り、夕暮れまでの穏やかな時間を過ごす。
 ――なにをしているんだろう、と自嘲的な笑みが浮かんだ。
 空は相変わらず白い布を被せられているようだ。いつもはもっと重く垂れ込めているが、遠くで雨が降ったか何かしたのだろう。今日だけは特別に白く輝いている。その白さが干したての布団を思い出させて胸が痛んだ。
 あまりの明るさに少し眩暈がし、紅葉は固く瞳を閉じる。
 夜人は戻ってこない。どこに連れて行かれたのかは気になったが、そんな態度を見せれば夜人は調子に乗るだけだ。彼のことは努めて無視をする。
 残された子どもたちは紅葉から離れた場所で思い思いに遊び始めていた。紅葉がここですることは、子どもたちが組織の建物に近づかないようにすることだけだった。
 生温かい風を全身で感じていた麻奈が紅葉を振り返る。
「ねぇ紅葉。何で夜人の恋人になってあげないの?」
「だってあいつ、馬鹿だもーん」
 幾度となく繰り返されてきた会話。
 紅葉は日課となってしまったそれを、今日もまた同じ言葉で繰り返す。
 麻奈は今年、八歳になった。その年齢が本当なのか、紅葉に知る術はないが、麻奈が幼いことに変わりはない。外見と噛み合わない会話に、紅葉はいつも苦笑を洩らすのだ。
 自分の気持ちを隠した言葉。けれど間違いではない答え。
 しかし麻奈は気に入らなかったようだ。仰向けからうつ伏せに体勢を変えて、芝生に肘をつくと紅葉を見た。
「そんな嘘じゃ誤魔化されないよ。私もう八歳なんだから」
 怖い顔をされて怒られても迫力はない。むしろ可愛らしいと呼べる彼女の様子に笑みを浮かべてしまうと、麻奈はふくれっつらとなって紅葉の肩を叩いた。
 ――他にどんな言い訳が思いつく。この少女に。
 紅葉は瞳を細めるようにし、ただ空を眺めた。
 ここは巨大な犯罪組織。暗殺から誘拐まで、ありとあらゆる犯罪に手を染めている組織。まるでこの世界の荒廃を自ら早めているようだ。そんなことに何の意味があるのか分からないが、暗澹とした虚ろな世界。世界政府機関とも関わりがあるようだ。組織の上層は政界にまでその勢力を伸ばしている。政府など、あってないようなものだ。世界のすべてはこの組織に委ねられていると言っても過言ではない。
 世界の人口は、いまやこの組織に半減させられてしまったのだから。
 多かれ少なかれ誰もが持つ、他人を追いやり頂点に立ちたいという気持ち。世界の実権を握ることができる政界では、その傾向が顕著なのだろう。しかし政界はそのせいで身を滅ぼした。
 いま生きている政府の要人で、この組織に関わりを持たない者など、すでに存在していない。この組織が存在しているお陰で彼らの今の地位がある。そしてこれからも。組織は必然として彼らに黙認されていた。
 紅葉もこの建物に住まいを移されてから、正装した者たちを何度も目撃している。彼らは普段、専用の客門を使用しているのだが、稀にそういう者がいるのだ。紅葉たちを眺める視線は好奇心に満ちていた。そんな彼らを見るたび、紅葉の中で不愉快な気持ちが膨れ上がる。
 誰が好きでこんなところにいると思うの。
 好奇心の眼差しが訪問するたび、紅葉はそう叫んで泥をぶつけてやりたくなった。実際には彼らの周囲を組織の者が固めていて、紅葉たちは近づくことすらできないのだが。
 夜人はこの組織の次期統率者として名前が挙げられている。
 組織に入りたくない紅葉には、彼の恋人になどなれるわけがない。
 紅葉はチラリと横目で麻奈を窺った。
 彼女はそんな事実など知らず、ただ夜人と紅葉が上手くいけばいいのにと、それだけを願っている。純粋で恐れを知らない子どもの願いだ。
 麻奈はこの組織の内情を知らない。知らないからこそ自由に出入りが可能となっている。この組織は表の顔として、親がいない子どもたちの、人道的な養護施設となっていたから。
 紅葉にしてみれば吐き気がするくらいの嘘で塗り固められている。そして麻奈は、その施設で育つ子どもだった。内情を知ってしまえば、普通に里親を待つ彼女も組織に引きずり込んでしまうことになる。
「……嘘じゃないよ。私、馬鹿は嫌いなんだもん」
 紅葉には、そうして誤魔化すしかできない。たとえ親友だとしても、欺き続けるしかない。
 空を眺めながら呟くように吐き出す紅葉に、そんな様子をずっと見ていた麻奈は頬を膨らませて芝生に寝転んだ。
 勘の良い子どもだ。それとも、子どもとは皆、勘が良いものだろうか。
 紅葉はどうでもいいことを考えた。
 麻奈の怒りを買っても仕方ない。麻奈の幸せを思えば、知らない方が絶対に良い。良い里親が見つかることを祈るばかりだ。もし里親が見つからなければ、組織は何も知らない子どもたちに洗脳という名の学校へ通わせ、犯罪者としての価値観を植えつけ、組織の一員として育て上げる。その途中で音を上げるようなことがあれば容赦なく切り捨てられる。
 すでに、その教育は始まっていた。
 麻奈は世間の子どもたちが通うように、学校へと通っていた。組織が用意した偽りの学校だ。
 早く里親に貰われていって欲しいと切に願う。
 このような場所に子どもを捜しに来るなど、ろくな親ではないかもしれないけれど、直接組織に関わるよりずっといいはずだ。たとえ仮でも親がいれば、それだけで世間の目は和らぐ。将来への選択肢も増えるはずなのだから。
 紅葉は自分が冷笑を浮かべたことに気付いた。
 引きずる未練などない方がいいに決まっている。この組織に未練を残さぬよう、自分のために、麻奈が里親に貰われればいいと思っているのかもしれない。
 母親と引き離されてから十年が経った。
 いつかここから出て行くときのことを考えている。いつも、ずっと。
「……時の歪みが激しいのぅ……」
 突然知らぬ声が響き、紅葉は驚いて飛び起きた。直ぐ隣では麻奈が同じように驚いている。
 視線の先には女性がいた。
 殺伐とした組織の雰囲気とは隔絶されたかのように柔和な雰囲気を持っている。しかしその視線は紅葉たちではなく、宙に向けられていた。
 いつの間に現われたのだろうか。芝生を踏む音も、衣擦れの音も、聞こえなかった。
 緑をまとう不思議な女性だ。動けば確実に衣擦れの音がしそうな服装をしている。それとも、気付かぬほど自分の考えに没頭していたのだろうか。
 紅葉は最初の驚きから立ち直ると女性を観察した。
 何歳なんだろう、と首を傾げる。他の人間と触れ合う機会に恵まれなかった紅葉には予想することもできない。妙な言葉遣いから、少し歳をとった人なのだろうかと想像する。しかし“老婦人”と呼ぶには彼女は若すぎた。小柄な体からは生気に満ちた存在感が窺われ、儚げな容貌や言葉遣いは裏切られ、彼女を年齢不詳へと追いやっている。
「誰……?」
 見たことのない者だ。
 紅葉は幼い頃から組織にいただけあり、施設の者とはたいてい顔見知りだ。組織の顔ぶれもだいたいは把握している。だからこそ組織は紅葉を手放そうとしない。殺すこともしないのは、ひとえに夜人の“お気に入り”だからなのだが。
 不審を込めて凝視する紅葉に気付いたのか、女性は宙を漂わせていた視線を下ろすとフワリと笑った。それまで見たことのない笑みの種類だ。すべてを許すかのような、柔らかな微笑み。
 紅葉は心が解けて癒されるような気分になった。同時に警戒心も強く湧きあがる。
「あの?」
 努めて声を強め、訝しく訊ねると女性は肩を竦める。
「妾《わらわ》の知人によう似ておるわ、そなた」
 笑顔と同じで、紡がれた声はとても柔らかなものだった。
 誰のことを言っているのかと紅葉は眉を寄せる。
「紅葉……この人、誰?」
 芝生に座り込んだままの紅葉に隠れるように、麻奈が袖をつかんできた。背後に回って女性を見上げるその様子は歳相応に見えて、紅葉は思わず微笑みを零す。守らなければ、と愛しさが込み上げる。
 紅葉は女性に視線を戻した。
 誰と問われても、答えは持たない。大人なので施設の者とは考え難い。大人になってまで施設にいる大人は、もう組織に与している者しかいない。そうすれば、彼女は組織の者ということになる。夜人ならば知っているだろう。しかし彼は子どもたちに連行されてから行方知れずだ。どこへ行ったのかも分からない。
 困惑していると、女性は腰を曲げて麻奈と視線を絡ませた。そしてやはり柔らかく微笑んだ。紅葉の服をつかんでいた麻奈の力が緩んでいく。
「妾は伽羅じゃ。カ、ラ」
 言うてみいと、囁かれた麻奈は「から」と呼ぶ。そんなやり取りを見守っていると、伽羅は満足気に頷いて腰を伸ばし、紅葉に視線を戻した。
 何か言いたげな伽羅の視線だ。わけが分からず次の言葉を待っていると、伽羅は瞳を伏せて嘆息した。そして紅葉に腕を伸ばす。
 ひやりとした水の匂い。
 伽羅と名乗る女性に両目を塞がれた。彼女が何をしたいのか分からない。紅葉は逆らわず、そのまま内心で首を傾げた。瞳を閉じれば心地よい暗闇が満ちる。彼女の手の平の温度がとても安らぐ。
「過去に縛られておれば、そなたの時が歪むぞえ」
 瞳を開こうとしたが、紅葉の両目は伽羅に塞がれている。振り解いてしまっても良かったのだが、なぜかその気は起きなかった。黙ってその状態を受け入れていると伽羅の手が外される。
 急に戻ってきた光がまぶしくて瞳を細めると、光の向こう側に伽羅の笑顔が透けて見えた。笑みは浮かんでいるけれど、少し強い眦《まなじり》。
「あまり思いつめるでない。大切な者を失くしたくなければの」
 紅葉は問いかける前に、伽羅は踵を返して去ろうとした。そちらには組織の建物がある。やはり組織の関係者なのだろうか、と紅葉はただ見送った。伽羅からは犯罪に関わる気配など全く感じられなかったのに不思議である。伽羅に投げられた言葉が胸中で渦を巻いて落ちていくような気がした。
「紅葉」
 袖を引かれて麻奈に視線を向ける。心細そうな顔をしていた麻奈の頭を撫でると、麻奈は黙ってその状態を受け入れた。子ども扱いしないでと、いつもならば怒られるのだが。麻奈も今の女性に何かを感じたのだろうか。
 紅葉はもう一度伽羅を振り返ろうとして首を傾げた。
 組織の建物へと向かった彼女の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

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