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第一章

 【五】

 消えた伽羅を捜していると、焦れたように麻奈が呼びかけた。
「ねぇ紅葉ってば」
 二度目の声に振り返る。麻奈は不機嫌そうに頬を膨らませていた。先ほどの夜人の件に関しても納得していない彼女は、相当ご機嫌が斜めになっているようだ。
 麻奈は伽羅が消えた方向を気にする紅葉に身を乗り出した。
「夜人を捜しに行こうよ」
 紅葉を伽羅から引き剥がしたい。と、そんな思惑があるのかもしれない。これまで子どもたちしかいなかったこの場所に、紅葉の興味を引く大人の存在が現われることは、麻奈にとっては脅威なのだ。
 隠し切れない独占欲を感じた紅葉はくすぐったいような気分で麻奈を見つめる。しかし、生憎とその言葉は絶対に賛同できないものだった。
「冗談でしょう。なんでわざわざ捜しに行かなきゃいけないのよ」
 たとえこの先、伽羅と何が起ころうと、麻奈が親友であることには変わりない。そんな不安など一掃したいとは思ったものの、声音は低い。麻奈は眉を寄せて腰に手を当てた。
「だって、紅葉。夜人とぜんぜん進展がないんだもの。何年も一緒にいるっていうのに、じれったいの」
「よけいなお世話! 私と夜人はそんなんじゃないって言ってるでしょう」
 少しだけ顔を赤らめて否定したが、麻奈には説得力がなかったようだ。むしろ顔を赤らめたことで無言の表示をしてしまったらしく、その表情をしっかり捉えた麻奈は「ほら」と得意気に笑う。先ほどまで麻奈を気遣う心情であった紅葉は、逆転した立場に舌を巻いた。とても八歳とは思えない積極性だ。早く里親に貰われてしまえ、と冗談半分で毒を吐く。
「そんなことより! さっきの伽羅って人、消えなかった?」
 明らかな動揺ぶりを披露しながら伽羅のことを蒸し返す。しかし麻奈は流されない。
「逃げるなんてますます怪しい。早く夜人のところに行こうよ」
 一瞬、麻奈と友達という事実を引っくり返したくなった。私の想いは一方的だったのかしらと演技交じりに嘆きたくなる。
 麻奈に腕を引かれたが、紅葉は何とか足を踏ん張った。
 このまま夜人のところへ連れて行かれたら堪らない。夜人は本当に単純だ。おだてればどこまでも調子に乗る。そして麻奈は、そんな夜人を調子付かせる一流の腕を持っている。紅葉にとっては非常に有難くない特技である。
 ただでさえ体格差もつき、力で押し切られたら逃げられない現状だというのに、このうえ麻奈に調子付けられてしまえば、紅葉の負けは確定している。
 紅葉は自分に「負けるな」と哀しく鼓舞しながら言い募った。
「伽羅が消えたんだってば。見てたでしょう、麻奈!」
 悲鳴のように叫ぶ。これしか話題がないのが悔しいが、仕方ない。
「私、あの謎を解くまでここから動かないぃっ」
 麻奈の呆れた視線が突き刺さった。彼女の中で、紅葉の威厳ポイントが急速にマイナスに転じていくのを感じる。
「……あの人なら向こうの建物に行ったよ」
 麻奈はわずかにこめかみを押さえるような仕草をしたあと、細い腕を上げて示した。その指先を辿れば確かに建物が見える。ただしそちらの入口は樹木に遮られ、紅葉の位置からは見えないようになっていた。確かに、あの場所に入られてしまったら、紅葉が伽羅の行方を知ることはできない。だから消えたように思えたのかと納得しかけ、紅葉はハッとして顎を引いた。
 この問題を解決してしまったら夜人のところに連れて行かれてしまう。何とかして長引かせないと、と焦りが生まれる。なんとも哀しい理由である。
 紅葉は焦りながら、そっと麻奈を窺った。
「追いかけよう、麻奈」
「はぁっ?」
「だって気になるじゃない、あの人の言葉」
 これは本心からだった。しかし麻奈にすれば、やはり取ってつけたような理由にしか思えなかったらしい。あからさまなため息をつかれ、紅葉は少しムッとした。
「あのねぇ紅葉。あの建物って、紅葉がいつも『絶対に入っちゃ駄目』って言ってる建物じゃない。このまえ冒険しに行こうって誘った男の子たちに、凄い剣幕で怒ったの、忘れちゃったの? それに、紅葉に誘われたって、牧師さんにも『駄目』って言われてるんだから、絶対に駄目だよ」
 的確な麻奈の言葉に、紅葉は二の句が継げなかった。
 正気に戻ってみれば、それは確かにいつも紅葉が口を酸っぱくして『駄目』と連呼している建物だと気付く。紅葉の寝所がある建物とは別の、組織の訓練場だ。
 訓練場内部には様々な武器が揃えられ、各々に適した訓練ができるような部屋が幾つも存在している。そのような場所に子どもたちを連れては行けない。いくら夜人から逃れるためだとしても、さすがに軽率だったと紅葉は顔をしかめる。そして改めて、この幼い友人を尊敬するのだ。
「……ごめん。そうだったね」
 うなだれると、麻奈はため息をついて「しょうがないなぁ」と呟いた。
「いいよ、もう。もうちょっと見守ることにするよ。夜人には可哀想だけど」
「可哀想なのは私」
 ボソリと呟くことだけが、今の紅葉に許された精一杯の反抗だった。
 麻奈は苦笑する。それまでと一転して明るい声音を作り出した。
「でもさ、みんな夜人と一緒に行っちゃってつまんないから、だから、捜しに行こう。それならいいでしょ?」
 覗きこまれるように誘われて、紅葉はようやく頷いた。
「じゃあ行こう。こっちだよ」
 麻奈は破顔して紅葉の腕を引いた。
 これまで麻奈が約束を破ったことはない。不意打ちで夜人に売り飛ばすことはしないだろう。もし襲われそうになっても、絶対に守ってくれるはずだ。
(……麻奈に助け期待してどうするよ、私)
 苦笑しながら麻奈に従う。麻奈は紅葉の腕を引きながら迷うことなく歩いて行く。
「夜人がいる場所知ってるの?」
 辺りを見回しても夜人はいない。少し遠くで、離れて遊ぶ子どもたちの姿が見えるだけだ。その更に向こう側には組織が作った塀があり、この庭を囲むようにそびえていた。塀を越えることはできない。
 麻奈は確信を持って頷いた。
「教会!」
 溌剌とした笑顔と声だが、その言葉が孕む不穏さに、紅葉はギクリとして足を止めた。麻奈は訝しげに振り返るが、紅葉は動けなかった。全身から汗が吹き出してくるようだ。
 ――教会は嫌だ。
 鼓動が早まりを感じながらありし日の残像が浮かぶ。
 教会には牧師がいる。善良な仮面を被った人殺し。
 彼の穏やかな表情を思い出すだけで恐ろしさに震えそうになる。紅葉は肩を微かに揺らした。
 家に帰りたくて、何度も何度も脱走を図った。けれど、この組織から外へ出るためには必ず教会を通らなければならない。そこからしか、外へ通じる道はないからだ。牧師は紅葉が脱走するたびに道を塞ぐ、大きな壁だった。
 組織のために監視を受け持ち。子どもたちのために、人道的な牧師としての顔も持つ。
 笑顔で人を落とし続ける殺人鬼だ、彼は。
「紅葉。どうしたのってば」
 我に返ると麻奈が必死に呼んでいた。泣きだしそうな表情が、紅葉が恐怖に囚われていた時間の長さを物語っている。顔色も相当悪いのだろう。
「ごめん。大丈夫だよ、麻奈」
「でも……っ。あ、牧師さん呼んでくるから! 直ぐだよ紅葉。待ってて」
 紅葉の顔が更に蒼白になったことには気付かず、麻奈は走り出した。彼女なりに気を使ったのだろう。牧師は医学的な一切も引き受けてきたのだから。
 遠くなる麻奈の姿を見送った紅葉は踵を返した。たとえ彼女が心配して連れて来たとしても会うつもりはなかった。
(私の敵――なんだから)
 そう思いながら唇を噛み締める。いかにも心配そうな瞳で見つめられても仮面の下が透けて見える。あの眼差しで見つめられれば背筋が凍える。
「紅葉」
 教会から足早に遠ざかろうとしていると、固い声に呼ばれた。振り返ると蓮夜の姿がある。もう迎えに来るような時間なのだろうか。空を見上げれば、やや赤味が差しているようにも見える。
 いつもは鬱陶しいばかりの監視と迎えだが、今ばかりは助かったと思う。
 安堵が込み上げてきて胸を撫で下ろした。そんな仕草に気付いたのか蓮夜が怪訝な視線を向ける。しかし深く追及はされなかった。ついて来いと示すように踵を返す。紅葉は慌てて追いかけた。
 建物の入口まで来ると、蓮夜は壁に背中をつけて紅葉に向き直った。向けられるのは冷たい眼差しだ。その瞳が何を促すものか悟った紅葉は背筋を伸ばす。先ほどまで『牧師』という言葉に怯えていた自分を恥じて、真っ直ぐに見返した。心持ちを新たにして蓮夜と対峙する。
「何もなかったわよ。今日もいつも通り」
 紅葉は淡々と報告した。
 子どもたちの監視が紅葉の役目だ。何も知らない彼らが組織の本業を悟らぬように注意を促す。知られて困るということではなく、彼らが本能的に怯えを覚えてしまうと困るのだ。のちのち、彼らが組織に入ることを考えて、余計な疑念や観念を覚えないようにさせる。
 今日もいつもと変わらぬ平凡な日。子どもたちをあやして遊ばせた。
 ふいに伽羅の姿が脳裏に甦ったが、紅葉は伝えなかった。組織の建物に入ったというなら組織の関係者なのだろうし、そうなら蓮夜が知らぬはずもない。報告は無駄となる。
 報告しないのは、もしかしたらささやかな反抗の意思表示だったのかもしれないが、紅葉は気付かず通り過ぎた。
「……そうか」
 その声に、なぜかドキリと心臓を跳ね上げて顎を引いた。
(もしかして試されてる……? 伽羅のことを報告するかどうか?)
 紅葉の額に汗が滲んだ。平静を装って悟られぬよう努めてはいたが、心臓が激しく脈打っていた。ここで信用を失うわけにはいかない。また拘束されるのはごめんだ。逃げる望みは露と消える。
(どうしよう?)
 黙ったまま蓮夜を見ていると、彼は静かに壁から離れた。紅葉に近づく。
 緊張した紅葉だが、杞憂だったようだ。彼はただ紅葉のそばを通り過ぎ、建物の中へ入っていった。
「ならいい」
 すれ違いざまに言葉を洩らす。その言葉にも紅葉はうろたえる。
 ならいい、とはどういう意味なのか。
 蓮夜の背中を凝視していると彼は不意に振り返り、顎をしゃくって紅葉を促した。先に歩け、という意味だ。
 紅葉が前を歩き、蓮夜が後ろを歩く。それがいつもの順序。
 変わらぬ状況に、何も問題はなかったのだろうかと不安に思う。蓮夜の顔を窺うように見るが、あまり態度に表すのは危険だ。さり気なく視線を滑らせるしかできない。
 蓮夜はいつもと変わらぬ無表情。一瞬の一瞥でそれ以上を読み取るのは不可能だ。紅葉は黙って諦めた。何かあったらそのときだと腹をくくることにした。
 そのまま歩き出そうとしたとき、誰かに呼ばれた気がして振り返った。
 蓮夜の痩身越しに見えたのは麻奈の姿。不安そうな表情で紅葉の姿を捜している。必死に呼びかけている。その後ろには、牧師の姿があった。青錆びた色のコートをなびかせ、麻奈に手を引かれている。
 牧師の姿を目にしたとたん、紅葉は体中の血が逆行するのではないかと思った。
 強張る紅葉に気付いたのか、蓮夜が視線を紅葉に向ける。体に一本、太い棒を頭から打ち込まれたように紅葉は背筋を伸ばして顔を上げた。その瞳が牧師を捉え、次いで麻奈に移る。
「また明日ね! 麻奈!」
「紅葉!」
 意識して牧師を視界から外し、まだ距離のある麻奈に微笑んだ。
 ようやく紅葉を見つけた麻奈は安堵したように微笑んだが、紅葉がそのまま建物に戻ろうとするのを見て驚いたようだ。
「紅葉っ?」
 麻奈の背後に牧師が立った。
 ただそれだけで紅葉は心臓を握り潰されるかと思った。助けなければ――と足は牧師に向かって一歩を踏み出したが、それ以上は動かない。
 蓮夜には紅葉の心情が手に取るように分かっているのだろう。視線を牧師に合わせ、牧師もまた、蓮夜を見つめてその場から動かない。ともすれば駆け寄っていきそうになる麻奈の手をつかんでいる。
 紅葉は小さな親友の前から、逃げるようにして建物の奥に入った。

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