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第一章

 【六】

 どうやって部屋から出ようか。どうやって蓮夜の目を欺こうか。どうやって牧師に捕らわれないよう外へ逃げ出そうか。考えることは山ほどある。
 けれど今は集中力が欠けているのか頭の中にしみこまない。可能性を上げるたび、否定する自分がいる。諦めのような、そんな考えを持つようになったのはいつからだっただろうか。
 ここには夜人がいる。
 組織に入ることはなくても、逃げずにいれば夜人のそばにいられる。
 紅葉は唇を噛み締めて険しい顔をした。
 浅ましい考えだと自分を責める。夜人の負担になることは分かりきっている。ここで死ぬことも、どこか頭の片隅で考えているのかもしれない。
 紅葉は一度根付いた考えを振り払うようにかぶりを振った。あえて別のことを考えようと意識する。
 別の材料はすぐに見つかった。
 昼間に出会った『伽羅』という不思議な女性。これまで遭遇した組織の者とは明らかに違っていた。血の匂いも、硝煙の匂いもなかった。夜人でさえ稀に血の臭気を漂わせていて、顔をしかめたものだ。また、組織に所属する者はたいてい共通する雰囲気を持っているが、伽羅にはその気配もなかった。
 伽羅は本当に組織の人間なのだろうか。
 先ほどまで頭の片隅にあった怯えは上手く消えてくれたようだ。紅葉は本気で伽羅のことを考え始める。首を傾げた。
 固い寝台にうつ伏せになる。両手に顎を乗せ、目の前の壁を凝視する。
「でも、組織の人間じゃなかったら建物には入れないはずだし……」
 ただ黙っていると思考が再び嫌な方向へ向かいそうで、紅葉はあえて声に出す。他に話し相手がいないと、こういうときに困ってしまう。麻奈が隣にいればいいのに、と栓ないことまで考えてしまう。
「誰なんだろう……?」
 結局、ただ呟くだけになってしまうのは情報が少なすぎるためだ。
 紅葉は考えを放り出すように両手を挙げた。顔を寝台に埋める。大きく息を吐き出してから横を向いた。
 部屋にあるのは小さな机と寝台だけだ。着替えは常に蓮夜が用意し、眠る前に渡される。机の引き出しには少量の紙とペンだけが入れられているという、いたって簡素な部屋だった。また、備品は常に誰かが管理しているらしく、以前、折り紙をしただけで何に使ったのか執拗に問いつめられた。それ以来、辟易して折り紙もしなくなった。ここに紅葉の私物は一切ない。
 これからどうしよう、とため息を零す。まだ眠たくはないが、眠ってしまおうか。
 そう思ったときだ。
「なぁ紅葉」
 思いがけない声が響いた。
 慌てて振り返ると、紅葉の足元には夜人が座っていた。いつからそこにいたのだろうか。紅葉は驚いて口を空回りさせ、夜人を凝視する。壁はいつの間にか壊されている。朝の修繕は、やはり無意味だったらしい。
 少しの沈黙が過ぎた後、紅葉は脱力した。頭痛を覚えて額を押さえる。
(どんな神経してるんだコイツは)
 あとで本当に怒られるのは自分だというのに。と紅葉はかぶりを振った。
「あのね」
 息を吸い込み、いつもと同じ文句を並べようとした。しかし紅葉は急にその気をなくす。夜人に向けられた鋭い視線は驚きに瞠られる。
 掠めるように、夜人が笑っていたためだ。不覚にも紅葉は見惚れてしまう。
 夜人は整った顔立ちをしている。他人を見る機会に恵まれていないため比べる数は少ないが、その少ない中でも美形のクラスに入ると思う。性格によるものなのか童顔でもある。
 言葉を失くした紅葉の頬に夜人の手が触れた。
 このまま殴ってしまっていいのか迷ったのがいけないらしい。紅葉の抵抗がないことに気を良くしたのか、夜人は上機嫌に笑った。いつもの笑顔だ。断られることなど微塵も考えていない俺様主義。
 紅葉は我に返った。
「この、馬鹿夜人……!」
 押し倒されかけたことに気付いて膝を振り上げる。思い切り力を込めると鈍い音がした。夜人の鳩尾に入る。
 ――数瞬遅れて被害者が盛大に咳き込んだ。
 突っ伏す夜人に情けすらかけない。寝台から容赦なく蹴落とし、紅葉は高鳴る心臓を宥めるように胸を押さえた。
「油断も隙もないんだから……!」
 心臓の音がうるさい。
 頼むから黙れ、と唇を噛み締めながら紅葉は夜人を睨んだ。
 日毎に強引になる夜人の行動に、顔を真っ赤にさせる。
 私の抵抗はいつまで続くのだろう、と瞳を閉ざした。

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