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第一章

 【七】

 紅葉は肩を怒らせる。負けそうだった心を奮わせると瞳を開いた。
 先ほどの鳩尾攻撃はよほど効いたらしい。夜人はまだ床にうずくまっている。しかし紅葉は容赦なく、その背中を裸足で蹴った。
「さっさと帰れ! だいたいねぇ、いつもいつも私のところに来てて、そんなに暇なわけ? それで次のトップが務まるとでも思ってるの?」
 正直に言えばそんなもの務めて欲しくない。けれど、それは決して言葉にできない。
 紅葉は巻き込まれて組織に来ただけだが、夜人は最初から役目を担って連れて来られた。現在の組長に子どもがいないため、組織の養護施設で育った夜人が指名されたのだ。
 養護施設で育った夜人が『親』に憧れていることは知っていた。初めて会ったとき、嬉しげに話していたことを覚えている。そのときは状況など分からず、夜人の話を頷きながら「良かったね」と声をかけていた。けれど、現在の立場に気付いた今ではもう言えない。口を開けば否定の言葉だけが飛び出すだろう。
 たとえ夜人の義父が巨大な犯罪組織を束ねるような人物だとしても、夜人から奪う発言だけは、してはいけないと感じていた。
 そんな紅葉の思いを察しているのか他の思惑があるのか、夜人からも紅葉を組織に誘う発言はしない。紅葉が家に帰りたがっていることを知っているから。
 紅葉は警戒心を解かないまま、攻撃態勢で夜人の動向を見守った。
 起き上がった夜人は盛大なため息をついて紅葉を見た。物言いたげな視線だが、紅葉は無視をする。そっぽを向いて足を振り上げる。夜人の肩を蹴ろうとした。
「もう、もう、もう!」
 遠慮などしない。逃れた夜人を睨みつけながら言葉を探していると、部屋の扉が開く音がした。
 蓮夜だろうかと青褪めた紅葉だが、振り返っても扉は開いていなかった。
 では何の音だったのだろうかと首を傾げていると、もう一度扉が動く音がした。今度は閉じられた音だ。二回目であれば間違えない。どうやら夜人の部屋の扉だったようだ。
 紅葉は納得し、その意味を理解して「げ」と唸った。
 誰が夜人の部屋を訪れたのか知らないが、夜人は今、紅葉の部屋にいる。訪問者は当然、本人がいない部屋を見渡すだろう。そして気付くだろう、部屋の壁にあけられた穴に。不自然なほど人為的な抜け穴だ。
 入ってきた人物はどう思うのか。
 紅葉は蒼白になった。入ってきたのが蓮夜ではないことは分かっている。彼が夜人の部屋を訪れることは滅多にない。もし巡回で訪れるとすれば、紅葉の部屋を一度覗いてから夜人の部屋に行く。夜人に用事なら、なおさら紅葉の部屋を訪れる。そちらの方が早いと、事情を知っているからだ。
 いったい誰が入ってきたのだろうか。
 疑問ではあったが、可能性は浮かんでいた。組織で上位を有す夜人の部屋に、勝手に入ってこれる人物は決まっている。組織の現組長だ。蓮夜でさえ、夜人の部屋を訪れるときには声を掛けるという。
「ちょ、ちょっと夜人。早く戻ってよ!」
 床に座り込んだまままったく動かない夜人に焦れ、紅葉は駆け寄った。隣の部屋を指差し促したが、夜人は憎らしいほど動こうとしない。ああもう、と唸って無理に立たせようとしたが、すでに遅かった。足音が紅葉の部屋に近づいてきていた。
(もう駄目だ!)
 夜人の腕を引いていたが、今度はその腕に縋るように体を小さくさせて瞳を閉じる。固く瞑る。
「面妖な壁じゃの」
 聞き覚えのある、あたたかな女性の声だった。
 疑問に思う間もなく、抱きついていた夜人の腕が離れた。素早く立ち上がる気配がする。紅葉が見上げると、夜人はこれまで見たこともない険しい表情をしていた。
 そのことに戸惑いながら紅葉は振り返る。そして驚きに目を瞠った。夜人の部屋から紅葉の部屋を覗き込んでいたのは、伽羅と名乗った女性だった。その顔には面白そうな表情を浮かべている。
「誰だ」
 夜人が固い声で問いかける。立ち上がる紅葉を微かに一瞥し、夜人は半歩前に出た。腕を上げて紅葉が前に出ないよう牽制する。
「伽羅……?」
 夜人の変化に驚愕しながらも紅葉は呼びかけた。夜人が訝るように紅葉を見る。
 そんな二人のやり取りを、伽羅は楽しそうに見守っていた。
 殺気を放つ夜人の視線を受け流し、伽羅は長いスカートを持ち上げて素足を晒す。無駄な肉が一切つかない、細い足首に目を奪われる。色素が薄い。何か固いものにぶつけたら簡単に破けるのではないかと思うほど澄んだ肌をしている。裾へ移るにつれて薄くなる生地は、伽羅の儚さを払拭する役目もあったらしい。
 伽羅は散らばった煉瓦を踏み越えて入ってくる。
 三人もいると窮屈さを感じる狭い部屋だ。
「何者だ。誰の許しを得ている」
 それ以上近寄るな、と暗に漂わせて夜人が伽羅を睨みつけた。紅葉を庇いながら後退する。紅葉も合わせて下がった。
 伽羅が微笑む。
「そのように警戒するものではない。せっかく可愛らしい顔をしておるのにの」
 離れた距離を気にせず、伽羅は無造作に夜人に近づいた。腕を伸ばしたが強烈に払われる。叩かれた手を眺めた伽羅は笑みを深くした。底知れぬものを秘めた笑顔だ。
「女に手をあげる男は嫌われるぞえ」
 伽羅は軽く顎をしゃくった。
 その刹那、夜人が軽くうめき、弾かれたように後方へ飛ばされた。
「夜人っ?」
 壁に叩き付けられる寸前で夜人は止まる。何事もなかったかのように床に足を着く。
 夜人は信じられないような表情で伽羅を見ていた。
 紅葉は何が起きたのか分からずに二人を見比べる。
「……何をしやがった」
「なに。教育指導じゃよ」
 楽しそうに伽羅は笑う。子どもならばそれだけで警戒心を解かれ、懐きたくなるような笑顔だ。しかし夜人の視線は剣呑さを増した。伽羅を襲っても不思議ではないほどの殺気をまとう。夜人は武器を帯びていないが、組織に属する者は、たとえ武器がなくても身一つで仕事ができるよう鍛えこまれている。蓮夜も、牧師も同じだ。夜人が何もできない訳がない。そしてその場合、伽羅は容易く縊り殺されてしまいそうに思えた。
「伽羅。貴方、どうしてここにいるの?」
 夜人が動く寸前に紅葉が問いかけた。夜人を牽制する意図も込めた声だ。夜人が思いとどまり、足に力を入れるのが分かった。
 止めたのは伽羅の死だったのか、夜人の罪だったのか。紅葉は分からなくなる。
 伽羅はゆっくりと首を傾げて紅葉に手を差し出した。夜人が間に入ろうとする。
「おぬしは少々、心が狭いのではないか?」
 伽羅の一瞥によって夜人は再び飛ばされる。
 驚愕する夜人を見て、また彼の意思とは関係なく飛ばされたのかと悟る。彼女は何者なのだろうか。紅葉は視線を伽羅に戻した。夜人が知らないのならば、組織とは無関係だという確信が強まるが、それでは建物に侵入できた理由が分からない。
 伽羅が再び紅葉に手を差し伸べる。
「紅葉!」
 どうやら動けないらしい夜人が警告のように叫んだ。
 その鋭い声に身を竦ませた紅葉だが、紅葉は動かなかった。伽羅が自分を傷つけないことはないと不思議なほどすんなりと確信している。根拠などない、漠然とした感覚だ。
 伽羅が満足気に微笑んだ。
 紅葉の眼前に差し出された手の中に、何かが凝り始める。
「妾はこれを探しておる。見かけなかったかぇ?」
 それは幻のように虚ろで、蜃気楼のように不確かな何か。
 瞳を凝らして見つめると、紅葉はそれが小さな丸い珠であることに気が付いた。炎のなかにあるかのように色を移ろわせ、形は朧に溶け消え再び現われる。その大きさすら曖昧だ。
 半透明にきらめくその珠の、さらに内側に何かが入っていることに気付いた。
 小さな小さな石の欠片だ。
 サラサラとした音まで聞こえてくるような気がした。流れ落ちて砂は、瞬間ごとに色を変えてきらめく。丸い珠に封じられた無数の砂金は留まることなく珠の内側を巡っていた。
「綺麗……」
 紅葉は凝視した。世界が切り離され、伽羅のことも、夜人のことも、忘れていた。宝玉と向かい合い、ただポツリと零す。
 そんな紅葉の様子を見守った伽羅は少しだけ笑った。
「これは世界の秘宝ゆえに。何としても見つけ出さねばならん」
 瞳を細めて幻を見つめる伽羅の瞳は、愛しいものを眺めるように柔らかい。
「今お前が持ってるそれとは別物なのかよ」
 夜人が指差した。伽羅の不思議な力から解放されたらしい。不本意、と露骨に表情に表しながら伽羅を睨みつける。攻撃に転じないのは害意がないと悟ったためか、それとも紅葉が伽羅に懐く様子を見せたからか。
 伽羅は瞬時に表情を塗り変えて夜人を見返した。まるで笑顔の仮面をつけたようだ。
 睨みなど一蹴するような視線に、夜人は舌打ちして視線を逸らす。
「これは在りし日の幻影じゃ。本物は妾から奪われてしもうた」
 夜人を見つめて告げる伽羅はどこか辛そうだった。
 紅葉もつられて表情を歪める。伽羅の手に揺れる幻を記憶に刻む。見つけたら伽羅に渡そう、と強く決意する。
「そなたを見つけたとき、どうも縁のある者のような気がしての。知らぬのなら、時ではないのであろう」
 静かな言葉には悲しみが込められていた。不可解な言葉に眉根を寄せながらも、何とかして慰めたいと思ったとき、部屋の扉が開かれた。
 紅葉と夜人は勢い良く振り返る。
 視線の先には食事を運んできた蓮夜の姿があった。いつの間にか時間が経っていたらしい。
 彼は扉を開いたまま動きを止める。微かに頬を歪めると無表情を装い、部屋に入ってくる。扉を閉めて棚にトレイを置く。何事もなかったように普段通りに動き始める。何の言葉もないことが却って恐ろしい。
 伽羅のことを何と言い訳したら良いものか。
「れ、んや。これは、その」
 出てきた言葉は意味を成さないものばかりだ。
 必死で言い繕うとする紅葉を一瞥した蓮夜は、食事を棚に置き直すとトレイを手にした。紅葉と同じく硬直している夜人に近づく。
 そして、本日二度目の制裁が加えられた。
「何度言っても聞き訳がないな、お前は。真剣に直したのではないのか。それとも本当に部屋を変えるよう、進言するかっ?」
 いつもと変わらない蓮夜の行動に、紅葉も夜人も瞠目した。伽羅のことには一言も触れない。
「え、って……あ?」
 二人が振り返ったその場に伽羅の姿はなかった。蓮夜に姿を見られることもなく、消えたというのだろうか。紅葉は納得がいかない。消化不良な気持ちが胸に巣食う。
「お前、何も見なかったのか……?」
 不審そうに夜人が問いかけると、蓮夜の眉が動いた。
「……俺に見られると不味いような何かを?」
 見事に別の意味に曲解する。
「それはそれは。是非ともお聞かせ願いたいものですね」
「いだだだだだだだ、蓮夜、お前、いてぇって!」
 牧師を真似た口調で蓮夜が笑う。立場的には蓮夜が下だが、これまでの蓮夜を見る限り、彼が夜人を敬うことはないように思えた。今もそうだ。蓮夜は容赦なく夜人の耳をつかんで隣部屋に強制送還する。紅葉は少しだけ哀れに思った。
 そして次に部屋を見渡した。
 伽羅の姿はどこにもない。もちろん、天井にもない。
 不思議な力を振るい、宝石を探しているという彼女は、何者なのだろうか。
 紅葉は自分の知らぬところで何かが動き出そうとしているのを感じてため息をつく。隣部屋から聞こえる夜人の悲鳴には耳を塞ぎ、もう一度ため息をついた。

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