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第二章

 【一】

 幼い紅葉が泣いていた。
 たった一人きり。縋れる者もなく、汚い裏路地をさまよっていた。
 ああ、これはいつも見る夢だ、と客観的に思う自分がいる。早く目覚めたいと思いながら、この場面をしっかり見ておかなければいけないという、矛盾した意識が混在する。
 どうして見なければいけないのだろう? 私にとっては辛い思い出のはずなのに。
 紅葉はぼんやりした意識のなかで眼下をさまよう自身を見つめていた。

 小さな小さな紅葉。
 彼女は泣きながら母を求め、炎に呑まれた町の中をさまよっていた。

 しゃくり上げながらも本格的に泣き出すことはない。全力で嗚咽を堪え、唇を噛み締めながら辺りを見回していた。大声を上げて、出来る限りの涙を流して、母が迎えに来るのを待つものいい。けれどそんなことをしたら、せっかくの母の姿が見えなくなってしまう。それに、迎えに来てくれた母に、自分のそんな情けない姿を見せたくない。それよりも、偉いのね、頑張ったのねと褒めて貰う方がいい。
 ――だってもう六歳だもの。それに、綺麗な窓に見惚れてはぐれてしまった自分が悪いんだもの。
 紅葉は込み上げてきた嗚咽を飲み込み、瞬きを強く繰り返して涙を堪えた。
 母と手を繋いでいたらこんなことにはならなかったのに。
 紅葉のなかに不満が湧きあがる。燻るのはいつも感じている、消化不良な気持ち。
 母の両手を塞いでいたのは、小さな弟の手と、大きな荷物だ。弟が生まれるまで、その手は自分にだけ与えられていた。
 嫉妬をすべて消せるほど、紅葉はまだ大人ではない。
 紅葉は俯いて涙を堪えようとし、何かに気付いたように顔を上げた。
 ――引越しだ。
 一筋の光明を見出して表情を明るくした。
 表通りに出れば車が待っている。そちらに行けば、母と弟に会える。そこまで辿り着けなくても、近づけば母が捜しに来てくれるかもしれない。
 紅葉は溜まった涙を拭うと瞬きを繰り返す。泣いていたとは知られたくない。会ったとき「強いのね」と褒められることだけを夢見た。
 小さな足で走り出す。
 誰もいない町。
 隣のお爺さんも、近所の友人も、いつの間にか誰もいなくなってしまった。
 何の変わり映えもしない毎日を、ただ母と弟だけで過ごし、笑いあった。そんななかで培った、わずかばかりの読み書きが何の役に立つだろう。
 紅葉は今、標識を見上げながら眉を寄せていた。
「じゅうさん、り……、じゅうに、り……」
 ひとまず読み上げてみたが、意味は通じない。
 看板には『十三番通り』と『十二番通り』と書いてあった。もし紅葉が文字を読めたとしても、行きたい場所が分かったかどうかは疑問である。まだ学校にも通っていない紅葉は、外に出ることも滅多になかった。外は危険なのだと、母親が口を酸っぱくして言い聞かせていた。
 ごくまれに、どこかの婦人と一緒に同年代の子どもが遊びに来たり、かなり年齢が離れた老人が訪ねてくる以外は、何の変化もない平坦な暮らし。
 だから紅葉は、自分がどこにいるのかも分からない。どれだけ走れば表通りに出られるのかも分からない。
 標識を読み上げてみた紅葉は、やはり心細くなって涙が込み上げてきた。
「お、かあさん、お母さん、お母さん!」
 少し嗚咽を洩らしてしまえばもう止められなかった。崩壊した堰から感情が溢れてくる。
 どうして置いていったの。どうして迎えに来てくれないの。どうして弟ばかり可愛がるの。どうして私だけ独りでいなきゃいけないの。
 紅葉は幼い顔立ちを歪めて泣き叫んだ。先ほどまでの背伸びは消えている。立ち尽くし、大声で泣き叫び、ただ母が迎えに来てくれることを祈った。
 ――逃げないと。
 唐突に浮かんだ言葉に、紅葉は驚いて瞬きした。
 しかし驚くことはなにもない。これは単なる夢だ。過去に起こったことを、夢で再現しているに過ぎない。
 『今』の紅葉は未来を知っている。これから何が起こるのか、正確に把握している。
 ――逃げて。
 紅葉は夢の中で、小さな紅葉に呼びかけた。
(早く逃げて。泣いていないで。早く!)
 強く呼びかける。
 その呼びかけが届いたのか、それとも、泣いても変わらないと気付いたのか、紅葉は鼻を啜って歩き出した。けれど、紅葉が歩き出した先は『安全ではない』道だ。
(違う! そっちじゃない!)
 焦れるように紅葉が叫んだときだ。
 空気を切裂き、腹に響く音が直ぐ近くから聞こえてきた。過去を知る紅葉ですら首を竦ませるような音だった。小さな紅葉は立ち竦み、今の音は何かと怯える。そんな姿に苛立ちを募らせる。
(早く逃げて!)
 どうしてこんなに行動が鈍いのだろうか。できることならこの夢に入り込み、自分の手を引いてやりたいと思うほどだ。いや、夢なのだから出来ないことはないのかもしれない。けれど紅葉は同時に、この夢を変えても現実は変わらないことも知っていた。
「なに……?」
 弱々しく周囲を窺う紅葉の頬に、涙はもうなかった。
 夢の観察者である紅葉の憤りが限界を超える。
(馬鹿紅葉! 逃げろって言ってるんだってば!)
 子どもの足は動かなかった。膝が笑い、座り込みそうなほど怯え始める。
 そんなときにもう一度、先ほどの音が響いた。
 今の紅葉にならば分かる。響いた音は銃声だ。
 しかし、何も理解できない過去の紅葉はわけの分からない恐怖に震えて混乱し、大声で母を呼びながら走り出した。
(駄目だ……そっちは、もう)
 絶望が胸を占める。これから何が起きるか知っている。組織の者たちに出逢い、紅葉は蓮夜に捕らわれる。
 何度も見た悪夢。
 繰り返される過去。
 紅葉は諦めようとした。もう駄目だ、と。
「紅葉!」
 諦めを切裂く声に驚いた。夢の中では、小さな紅葉も同じように驚き、足を止めていた。
(私の声が届いた……?)
 そう思ったが、違うとも感じていた。一度は完全に諦めたのだ。大声を出して紅葉を止めようという気は、もうなかった。
(誰が止めてくれたの?)
 記憶にはない存在に首を傾げる。幼い紅葉が振り返るのに合わせて紅葉も振り返る。そこにいたのは女性だった。紅葉よりも長い髪を無造作に背中に流し、紅葉と同色の瞳を向け、険しい表情で歩み寄って来る。
 どこかで見覚えがあるなと思って苦笑した。
 これは私の過去だ。見覚えがあって当然だ。
「そちらに行っては駄目よ」
 剣呑な雰囲気を漂わせたまま近づいてきた彼女は、強く言い切った。彼女の威圧感に怯えた紅葉は一歩だけ後退する。
(この人についていくのよ、紅葉)
 紅葉は怯えに気付いていたが、言い含めるように語り掛けた。そんな声が夢の中に届くことはないが、何もしないよりましだ。この人物についていけば、少なくとも蓮夜に捕まることはないだろう。きっと助かる。夢の中だけの虚しい逃避ではあっても、一度くらい夢見てもいいのではないか。
 紅葉は瞳を歪めながらそう思う。このまま組織に攫われることもなく、夜人に会うこともなく。
 夜人、との言葉に紅葉の勢いが弱くなった。表情が沈む。どうしても夜人を振り切ることができない。
 だからだろうか。夢の中の紅葉がまた一歩、後退した。
 女性から鬼気迫るものを感じたからかもしれない。
「お姉ちゃん、誰……?」
 震える声で訊ねると、女性は少しだけ微笑んだ。紅葉の警戒心を弱める笑みだ。女性は紅葉の隣に並び立つ。
「私の名前は、白亜《はくあ》。さぁ、私と一緒にお母さんのところに行きましょう」
 お母さんのところに行きましょう、との言葉には紅葉の表情に喜びが灯った。
 知らない人に易々とついていく過去の自分に少々呆れながらも、紅葉は何とはない違和感を感じていた。記憶にまったくない女性の存在は、今の紅葉にも警戒心を抱かせる。
 そんなことなど知るはずもない過去の紅葉は嬉々として白亜に手を伸ばす。
 そして――紅葉は目が覚めた。


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「大丈夫か?」
 目覚めた瞬間聞こえた男の声に、紅葉は強烈な違和感を覚えた。
 今までずっと自分の声を聞いていたためか、目覚めた紅葉は自分がどこにいるのか分からなかった。あまりにも深く夢に入り込んでいたらしい。体を強張らせて思い出す。
(そうか。あのあと結局、私は組織に捕らわれたんだっけ)
 白亜の腕を振り解いて、逃げて、逃げて、挙句、やはり銃撃戦に巻き込まれて、蓮夜に捕まった。
 本来なら殺されるはずだった。蓮夜の仲間が「うるさいガキだ」と舌打ちしながら紅葉に銃を向けたのが良い証拠だ。紅葉もまた生き長らえるとは思っていなかった。それを助けたのは蓮夜だ。好意などではない。ただ面白半分に「足掻いてみせろ」と、泣き叫ぶ紅葉を気絶させた。
 紅葉は事の顛末を思い出し、自分が汗をかいていることに気付いた。
 あの夢を見たあとはいつもこうだ。後で蓮夜に浴槽を使わせてもらわないと、と思いながら紅葉は唇を引き結んだ。ようやく、声をかけてきた男の存在を思い出した。
 そう、思い出さなくても、目の前にいるこの男は。
 見れば壁が壊されていた。
 寝顔を見られていたのかという羞恥心と、悪夢を見た腹いせも手伝って、見事な攻撃が夜人の胸に炸裂した。

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