前へ目次次へ

第二章

 【二】

(どうして夜人はいつもいつも! こっちの怒り煽るようなことばっかりするんだから!)
 紅葉は怒りに声も出せない。沸騰する怒りを胸中で爆発させる。
 寝台の上に仁王立ちになり、掛け布団を片手でつかみ、これ以上ないほど険しい形相で夜人を睨みつける。夜人はいまだダメージを克服できずに床にうずくまっている。
 あらゆる武術を修めているだろう夜人からクリティカルを奪えるなんて、自分は最強なんじゃないだろうか。
 うめく夜人を見下ろしながらそんな思いが湧いた。けれど紅葉は、そんな考えを嘲笑する。夜人が手加減していることなど分かっている。先ほどの攻撃も、夜人ならば、避けようと思えば避けられるものだったはずだ。倒れる前、夜人は冷静な瞳で観察していた。
 紅葉は無性に腹が立った。余計な気遣いはするくせに、自分の欲望にはしっかり忠実な夜人だ。
「勝手に入ってくるなって言ってるでしょう。なんでそう聞き訳がないの、夜人は!」
 怒鳴りつけると夜人が顔を上げる。
 寝台の上に立つ紅葉は、彼と視線を合わせながら奥歯を噛み締めた。
 床に座り込んだままの夜人は、何かを訴えるように潤んだ瞳で紅葉を見上げる。母性本能をくすぐる表情だ。紅葉は不覚にも心を動かされそうになった。
「だって、紅葉の体調管理は俺の役目だし」
 直ぐに続けられた夜人の言葉に、許しそうな心を忘れた紅葉は思い切り「はぁ?」と声を上げた。
「いつそんなことになったのよ! 自分のことは自分でやるくらい大人だよ、私は!」
 自分の知らないところで決められているなら余計に腹が立った。
(大体、なんで夜人に頼むのよ! 明らかに人選ミスじゃない。これだった蓮夜の方が適任だわ)
 言葉にならない思いをグルグルと渦巻かせ、紅葉は掛け布団をつかむ拳に力を入れた。
「だって紅葉は未来の嫁だから。その体調管理は俺の役目だ」
 誇らしげに胸を張る夜人に眩暈を覚えた。紅葉は足を振り上げてその顔面を踏みつける。素足なのでダメージは少ないはずだ。夜人の首が鳴ったのは気のせいだと思うことにする。
「それこそ最大の間違いだ! いい加減に取り消せ!」
 声量を最大にして紅葉は叫んだ。
 体調管理うんぬんはつまり、夜人が勝手に決めた役目だということだ。
「帰れ! 去れ! 散れ!」
 さり気なく容赦ない暴言を吐きながら、紅葉は壊された壁を勢い良く指差した。夜人は首を竦めてそちらに逃げ出す。紅葉は後ろ姿を見送りながら腰に両手を当てた。
「壁もちゃんと直してよね!」
 直しても明日には再び壊されるのだろう。紅葉はそう思いながらも命じた。
 夜人は慣れた手付きで作業を開始する。
 ふてぶてしいその態度に呆れながら紅葉は見張りを続けた。
 今日は蓮夜の登場が遅い。朝食もまだだ。もしかすると今日は、外に出して貰えないのかもしれない。
「あ、そうだ紅葉」
「なに?」
「お前、白亜って名前に心当たりないか?」
 紅葉は目を見開いた。急に心拍数が上がって息が詰まる。
 どうして夜人がその名前を知っているのだろう。今朝見た夢が忘れていた記憶を揺り動かした。白亜の姿を脳裏に浮かばせる。
 明らかに動揺した紅葉をどう思ったのか、夜人はため息をついた。
「知ってるんだな」
「ど、どういうこと? なんでそんなこと聞くの」
 煉瓦を組み終え、夜人の姿が見えなくなるときだった。不思議だが、彼が微笑んでいるような気がした。
「気にするな。その人に何かしようっていうんじゃねぇよ」
 声だけが届けられたが、それは紅葉の不安を煽るだけだった。
「ならどうしてそんなこと聞くの?」
「単なる興味ー」
 最後の一つを組み終えると夜人の声は聞こえなくなった。
 組み立てられた煉瓦の壁を見つめながら、紅葉はしばし呆然とする。
(どういうことだったんだろう?)
 夜人に白亜のことを話した覚えはない。紅葉ですら、今朝の夢を見るまでは忘れていた。攫われたときの夢は頻繁に見ていたが、白亜が登場した夢は今朝が初めてだ。また、台詞までも詳細に覚えているような鮮明さも初めてだ。いつもは恐ろしさが先に立ち、自分の頭上で交わされる声には耳を傾けていなかった。
 白亜についてなぜ夜人が知っているのか。
 もしかしたら白亜は組織の関係者なのかもしれない。思考は考えるだけ深みに落ち、勝手に嫌な方向へ進み出す。不安は増していく。
(なんでこういうときに限って素直に帰るの。事情くらい説明していきなさいよね)
 八つ当たりは夜人に向かった。見計らったように白亜の名前を出され、紅葉が気にならないわけがない。段々と苛立ちが増してきて、紅葉はとうとう我慢できなくなった。夜人が直したばかりの壁を勢い良く壊す。
 何度も組みかえられた煉瓦は磨り減っているようだ。渾身の力を込めたわけではないが、壁はなんとも簡単に崩れた。紅葉は拍子抜けする。しかし気を取り直し、残りの煉瓦をすべて崩す。
「夜人! さっきの質問に答えなさいよ!」
 遠慮なく壁を崩していきながら怒鳴りつける。非常に理不尽だ。
「……夜人?」
 返答はなかった。
 壊れた壁の隙間から隣部屋を覗き込んだが、そこには誰の姿もない。外に出たのだろうか。夜人の部屋には当然ながら鍵などかけられていない。紅葉がその気になれば、夜人の部屋から抜け出すことも可能だろう。
 しかし紅葉は拍子抜けして自分の寝台に戻り、腰掛けた。
「なんだ。自分ばっかり」
 今すぐ聞けないとなると余計に気になる。夜人は白亜の何を知っていたのだろうか。もしかして、家に帰るための手がかりがあるのだろうか。
 希望に顔を輝かせた紅葉だが、あまりにも他人任せなその希望にため息をついた。
(私がいなくなったら、夜人はどうするかな)
 夜人が真剣に仕事をしている姿は想像できない。
 そのとき、金属が擦れる音がして、紅葉の部屋の扉が開いた。顔を出したのは蓮夜だ。その手には、待ちに待った朝食が乗せられていた。
 紅葉は小さく「やった」と喜んだが、蓮夜の様子に気付いて眉を寄せた。彼の瞳は紅葉ではなく、別の場所を映している。
 何を見ているのだろうか。
 蓮夜の視線を追いかけた紅葉は固まった。
 蓮夜が見ていたのは、先ほど紅葉が蹴り散らかした煉瓦と、壊れた壁。白亜のことに気を取られ、直すのをすっかりと忘れていた。嫌な汗が吹き出してきて、紅葉は咄嗟に言い訳した。
「あ、あれは、夜人が! 元に戻せって言っても聞かなくて!」
「夜人はどうした」
「そ、そーれが、急に出て行っちゃって。いくら言っても聞き分けない奴なんだから」
 紅葉は胸中で夜人に必死に謝り倒した。「あとで少しだけ優しくしてあげよう」と心に決める。乾いた笑いを零しながら、紅葉は罪をなすりつけた。

前へ目次次へ