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第二章

 【三】

 建物を出た途端に視界は白い光で塗りつくされ、しばし瞳の痛みを享受する。背後から蓮夜の気配が消えたことに気付いて、紅葉は外に走り出た。
「へい紅葉」
「よう麻奈」
 駆け寄ってきた麻奈と腕を打ち合わせ、なんとも男らしい挨拶を交わす。女のたしなみなど知ったことではない。
 出迎えた麻奈に笑いかけると紅葉の視線は周囲を泳いだ。夜人を捜しているのだ。しかし彼の姿がなく、舌打ちする。
(真っ先に問いつめてやろうと思ったのに)
 時間があるときは紅葉よりも先にでている夜人だから、今日はもう夜人は外に出てこないだろう。仕事へ行ったに違いない。
 顔をしかめた紅葉をどう思ったのか、麻奈がにんまりと笑った。寒気を催す人の悪い笑みだ。
 そんな表情を見た紅葉は眉を寄せた。
「夜人なら今日はまだ来てないよー。気になるんだったら一緒に来ればいいのに。一緒に暮らしてるんでしょ?」
 誰が気になってるのよ、と怒鳴ろうとした紅葉は、語尾につけられたさり気ない台詞に言葉を失った。
(確かに、一緒に暮らしていると言えば暮らしてるけど、微妙にニュアンスが違う)
 麻奈は無邪気な笑みを湛えながら紅葉を見上げている。
「誰と、誰が、一緒に暮らしてるっていうの……っ」
「あれ、違うの? 前に夜人が嬉しそうに話してたよ」
 想像通りの答えに紅葉は額を押さえた。どういうつもりでそんな訳の分からない嘘をついたのか、後で問いつめておこうと心に定める。
「一緒に寝起きしてるんだとか」
 一回締めておくべきか。
「寝顔が可愛いとか」
 いや、足りない。八つ裂きだ。
「下着に色気はないけど足は綺麗だとか」
 死体は壁にでも埋め込もう。
「たまに寝ぼけて抱きついてくるんだとか」
「ていうかあいつ何を吹き込んでるんだ私の麻奈にーっ!」
 途中からはむしろ紅葉の反応こそを楽しんでる麻奈だったが紅葉は気付かない。真っ赤になって麻奈に抱きついた。因みに紅葉の中で夜人は天に召された。現実になるのは遠い未来ではないだろう。
「結婚まで秒読みなんでしょ?」
「そんな事実があってたまるか!」
 今夜どうしてくれよう、と怒りを募らせながら怒鳴った。
 麻奈は「なーんだ」とつまらなさそうに唇を尖らせてそっぽを向く。そっぽを向きたいのは紅葉の方だった。
「あーあ。夜人ってば可哀想。こんなに紅葉のこと愛しちゃってるのに、紅葉はまったに応える気がないんだもん」
「大っ迷惑」
 心底からの想いで「けっ」と吐き捨てると、麻奈は頬を膨らませた。
 横向く紅葉をしばし見つめ、やがて彼女は何かを思い出したかのように表情を変えた。
「そういえば紅葉。昨日は大丈夫だったの?」
「昨日?」
 何があっただろう、と首を傾げると麻奈は唇を尖らせた。その表情を見て紅葉も思い出す。顔色が悪いからと牧師を呼ばれたが、紅葉は会いたくなくて逃げ出したのだ。
「あー、うん。大丈夫。ごめんね、せっかく呼んでくれたのに」
 牧師などどうでもいいが、麻奈の気持ちには素直に感謝する。
 麻奈は少し頬を膨らませていたが、やがて納得したのかその表情を笑顔に変えた。
「紅葉が大丈夫なんだったらいいや。でもあの後、本当に心配したんだから。これはその罰ね」
 疑問に思う間もなく紅葉は頬を叩かれた。小さな手の平に力はまったく込められていない。しかしそこに込められた想いに、紅葉は真剣に頷いた。
「ごめん」
「よろしい」
 麻奈はこれで紅葉よりも遥かに年下なのである。
(本当、しっかりしてるわ。是非とも夜人に見習って欲しいわよね)
 紅葉も破顔して笑い声を上げた。
「ところで……さ。他の皆はどうしたの? 今日は出てる子たち少ないよね」
 紅葉は辺りを見回しながら問いかけた。外に出た当初から気になっていたことだ。いつもは大勢の子どもたちで賑わう箱庭だが、今日は大声ではしゃぐ子どもたちが少ない。よくよく見れば頭数が少ないのだと気付かされる。いつも真っ先にはしゃいでいる夜人がいないせいかもしれないが、そういえば昨日、息ピッタリで夜人に飛び蹴りを食らわせた三人組の姿もない。
「風邪でも引いた?」
 訊ねると麻奈の表情は暗くなる。首を振って否定すると、少し下唇を噛むようにして紅葉の服をつかんだ。滅多に見ない、頼りなげなその所作に紅葉は目を瞠り、「どうしたの?」としゃがみこむ。俯いた麻奈を覗き込むと、彼女の瞳は潤んでいた。そのことに驚愕する。今度は麻奈の具合の方が悪そうだ。
「昨日、外の人が来てて、左京《さきょう》の里親になったの。だから左京にはもう会えない。仲良かったあの二人は昨日から泣いちゃって、今日は外い出てこないの」
 そう告げる麻奈の声も沈んでいた。
 左京とは昨日、夜人に蹴りを食らわせた三人組の誰かだろう。名前を聞いても分からないことが悔しい。麻奈とは比較的、仲が良かった子どもたちだ。
「そっか」
 親しい友人に二度と会えないというのはとても哀しい。
 母と引き離されたときの絶望は深く巣食ったままだ。紅葉は今でも飲み込まれる。
 麻奈と二人で芝生に座り、紅葉は彼女の体を抱き締めた。麻奈は現在、養護施設で一番のお姉さんだった。そんな自分が泣いたら連鎖的に他の子どもたちも泣き出すと悟っているのか、彼女が泣くことは滅多にない。
 紅葉は「偉い偉い」と頭を軽く撫でてそのままにしておいた。
(麻奈には悪いけど……少し安心してる)
 これで左京は組織と関係を断ち切り、外の世界で自由に暮らしていける。他の皆もそうやって貰われていき、いつかは麻奈もこの組織を離れるときが来る。
(じゃなかったら、嫌だもの)
 そのときが早く来ればいいと思う。それでも麻奈がいなくなることを思うと心が揺らいだ。随分と身勝手な思いだ。
「そう言えばね、紅葉。私、昨日、伽羅にとても良く似た人を見たよ」
 しばらく沈黙したままだった麻奈は明るい声音で顔を上げた。そんな麻奈を哀しく思い、偉いとも思い、そして予想外の名前に瞳を瞠らせた。あのような存在がもう一つあるのかと思うと不思議な気がした。
「伽羅にー? 誰よ」
 麻奈が置かれている立場を考えれば、伽羅に似た人物というのは、新しく養護施設に入った子どもだと推測される。けれどあのような人物が子どもたちの中にあるという想像はできなくて、紅葉はクスクスと笑った。からかうように肩で体当たりすると、思ったより力が強すぎたのか麻奈は芝生に転がった。
「ちょっと紅葉!」
 麻奈は怒って起き上がり、服についた草を払い落とす。そんな様子を笑って見ていた紅葉に体当たりした。すると紅葉はただ倒れるだけではなく、緩やかな勾配になっていた斜面を転がり落ちた。麻奈よりも草まみれだ。
「麻奈の方が酷いじゃない!」
 丘を駆け戻った紅葉は仕返ししようと手を伸ばしたが、麻奈には笑って避けられた。
「もうっ。誰よ、伽羅に似てる子って」
 悔し紛れに怒鳴ると麻奈は笑う。紅葉の感情など、彼女にはお見通しなのだろう。
「白亜よ白亜」
 隣に並んだ麻奈は思いがけない人物の名前を告げた。
 紅葉は硬直して麻奈を見た。その名前を聞くのは本日二度目だ。
「何かねぇ、何か……すっごい不思議な人なの」
 不思議、と聞いて真っ先に思い出すのは伽羅だ。紅葉はかぶりを振ってその想像を追い出した。しかし連想するということは、やはり白亜と伽羅には何か通じるところがあるのかもしれない、と思い直す。何が共通しているのかと言えば悩みどころだけれど。
(白亜がここにいるってこと? やっぱり、組織の関係者だったのかしら)
 難しい顔をした紅葉をどう思ったのか、麻奈が覗き込んできた。
「今どこにいるの? 白亜って人は」
「あ、やっぱり興味あるんだ? そうだよね。夜人、奪われたくないもんね」
「は?」
 会えるのなら会ってみたいと思って訊ねただけだが、予想もしていなかった言葉に紅葉は目を剥いた。なぜ夜人の名前が出てくるのか分からない。
 麻奈を見ても、彼女は嬉しげに笑うだけで、説明などしてくれない。
(なんかいま、すっごい誤解されたような気がするんだけど)
 釈然としない気持ちを抱えながら麻奈に従う。
「ほら、早く早く。白亜は教会にいるから」
 紅葉の歩調が鈍った。
 麻奈が首を傾げて紅葉を待つ。
 紅葉は断ろうかどうしようか、真剣に逡巡した。けれど賢い麻奈のことだ。昨日に続いて今日も断ったら、変に勘繰ってしまうかもしれない。紅葉は意識して足を踏み出し、麻奈を追いかけた。
 そろそろ恐怖を克服してもいいはずだ。逃げるときに命取りにならないよう、苦手意識は消しておいたほうが無難だ。
 小さい頃は夜人の言葉もあり、たとえ紅葉が逃げ出そうと殺されることはなかった。しかし大きくなった今でもそれが通じるのかは分からない。組織は明らかに紅葉を煙たがっていた。
(次に逃げ出すときは、本当に慎重にならないと……)
 きっと、次が最後の機会になるだろうから。
(見てろよ、偽牧師め)
 瞳に強い光がきらめいた。
 紅葉の脳裏では、何年かぶりに、逃げる算段が組みたてられていった。

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