前へ目次次へ

第二章

 【四】

 自分とそれほど背丈が変わらない人物が目の前に来たとき、紅葉は良く分からない衝動に駆られた。例えるなら『泣きたい衝動』が一番近いのかもしれない。
 漆黒の髪に漆黒の瞳。自分と同じ色だ、と思いながら彼女を見つめる。彼女も静かに紅葉を見返してくる。
「……紅葉?」
 声をかけられて頷いた。
 その人物は、夢で覚えている姿とそれほど変わらない白亜だった。
 紅葉が攫われてから、もう何年も経っている。けれど記憶の中の白亜と、目の前にいる白亜はさほど変わらない。子どもの記憶とはあてにならないのかもしれない。それとも、女性とはそれほど変わらないものなのか。
「白亜、さん」
 ですよね? と言外に問うと、彼女は頷いた。
 麻奈に連れてこられた教会には白亜がいた。ステンドグラスを見上げるようにし、瞳を閉じて、何かを祈るように佇んでいた。その姿が神秘的に思えて紅葉は声をかけるのすらためらわれた。けれど白亜は、紅葉の気配に気付いたように、直ぐに振り返った。
「ね。なんだかとっても伽羅に似てるでしょう?」
 麻奈は紅葉たちから少し離れて牧師と笑み交わしていた。穏やかな仮面を被った牧師は何も言わずに微笑んでいる。その瞳は決して笑っていない。視線が突き刺さるようだ、と紅葉は逃げ出したい衝動に駆られる。先ほどの決意は早くも挫けそうだった。
「……紅葉を連れて行くわ。いいでしょう?」
 牧師を睨みつけていた紅葉をどう思ったのか、白亜もまた牧師に挑戦的な目を向けて紅葉の腕をつかんだ。その行動に驚いたのは紅葉だ。麻奈もまた、瞳を瞠って驚いていた。
「敷地内から出ないでくだされば構いませんよ」
 あくまで穏やかに牧師は諭す。
 その言葉に麻奈が首を傾げた。彼女には行動制限がない。教会を挟んだ組織の外へも中へも、自由に移動できる。それなのに紅葉はなぜ駄目なのか。悩んだようだ。
「あ、麻奈、私、ちょっと行ってくるからさ。明日またね?」
 追究されるのを恐れた紅葉は早口で告げた。
(あとは牧師が何とかするよ。私が喋るより絶対上手に言いくるめられるよ)
 牧師に任せるのは不本意だが、麻奈を組織に引きずり込まないためには上策だった。
「紅葉?」
 驚く麻奈に手を振り、紅葉は白亜と共に教会を出た。
 牧師から早く逃れたくて、足早に、白亜を引きずるようにして歩き出し、外の適当なところで足を止める。頬を撫でる微風を感じられるまでになるとようやく息をつく。頬を緩ませて顔を上げる。涼しさが嬉しくて伸びをする。
 隣で笑う気配があった。
「あ、ごめんなさい。あの、私、あの時はお礼も言えなくて」
 かなり昔の出来事だ。夢を見たばかりの紅葉には記憶が鮮明に残っているが、白亜にはどうだろうか。言葉にしてからその可能性に気付き、説明を付け足そうとするが阻まれた。
「覚えているわ、紅葉」
 笑みを滲ませていた白亜は不意に表情を変える。彼女の温度が、瞬間的に下がったような錯覚を覚える。
「あの……せっかく助けようとしてくれたのに、私、捕まっちゃって……」
 白亜は組織の関係者だ。それなのに、そんなことを言って大丈夫なのか。
 やはり今回も言ってからその可能性に気付き、笑いで誤魔化すようにすると冷ややかな声が降り注いだ。
「まったくだわ」
 急に態度を翻されて、紅葉が戸惑ったほどだ。
 驚いて顔を上げると、白亜は険しい表情をして横を向いていた。その表情に呆気に取られる。何を言うべきか思い悩む。
(怒ってる、のかな? 私が組織に捕まっちゃったから――でも、なんで? 白亜って組織の関係者なんでしょう?)
 良く分からない白亜の態度に首を傾げた。彼女の横顔を見つめていると嘆息する。何かを思うように瞳を伏せ、嘆息したあとは紅葉に向き直る。向け直された視線はやはりどこか冷たいものを含んでいる気がした。
「お母さんのところに帰りたい?」
 紅葉は目を見開く。
「か、帰りたいっ、帰りたいよっ?」
 勢い込んでそう言うと、白亜はなぜか顔を歪めて笑う。
 嫌な笑いではない。見ている紅葉が切なくなるような笑みだった。
「そう。紅葉、貴方、いま射撃訓練はしているの?」
 紅葉に意志を確認したあと、白亜はまたもや横を向いてしまった。けれどもう不信感は湧かない。紅葉は白亜の横顔を見つめたまま首を振る。
「だって私、組織に入るつもりなんてないもの。あの訓練場には組織の者しか入れないから、私は習わない」
 白亜が組織の関係者なのは明白だ。こんなことを言っては不味いんじゃないだろうか。
(白亜は私を母のところへ返してくれる)
 疑いも根拠もなく、すんなりとそんな考えが浮かぶ。先ほど胸を掠めた思いは呆気なく消え去った。
「そう。でも母のところに帰るなら習った方がいいわ」
 矛盾している。母のもとへ帰りたいから訓練を突っぱねているのに、習ってしまったらますます帰ることはできなくなる。
 不満に眉を寄せて白亜を見ると、彼女はどこを見ているのか分からない横顔を向けていた。その顔のまま「習いなさい」と告げてくる。
「武術の経験もない丸腰の貴方では、ここから逃げることができない。一つでも攻撃手段を覚えておかないと、ただ潰されて殺されるだけ」
 紅葉は微かな苛立ちを覚えて肩を落とした。そんなことは分かっている、という気持ちと、白亜が助けてくれるのではないのか、という他力本願を覚えた自分に苛立つ気持ちと。
「油断させておけば、逃げられる確立も高くなる」
 組織に入ったと見せかけ、仕事を請け負って外へ出る。そのときに逃げ出せれば、これほど安全な道はないだろう。
 白亜の案に紅葉は顔を上げたが、かぶりを振った。
 その考えは前にも一度、考えたことがある。けれどそれを実行に移すわけにはいかなかった。組織に入るための最終条件は人を殺すこと。組織を決して裏切らせないために、重い犯罪を成すことだ。白亜が組織の関係者ならば知っているはずだった。
(そんなことして帰れたって、ちっとも嬉しくない)
 紅葉は唇を噛み締めた。
「できない」
 きっぱりと跳ね除けると白亜が驚く。瞳を瞠って紅葉を見つめ、視線が絡むと何を思ったのか「ああ」と頷く。
「殺す必要はないわ。訓練場に入って腕を磨き、使えるようになると組織が判断するまで時間はある。その間に出来る限り腕を磨いて、最終条件が下される前に脱出するの」
 夢のような机上論だった。
 すでに煙たがられている紅葉に、組織がどこまで待っていられるかも分からない。腕の上達など関係なく、殺人を命じられるかもしれない。
 紅葉は葛藤しながら白亜を見上げた。
「私を助けてくれるの?」
 白亜もまた紅葉を見て、厳かに頷いた。すべてを飲み込もうとする漆黒の瞳に善意は見られない。頑なな態度からも好意は感じられない。けれど、彼女の言葉に嘘は感じられない。そして紅葉に向ける態度は信じるに足る物に思え、紅葉は戸惑うのだ。
「……なんで? 貴方、組織の人なんでしょう? 私を逃がしたって、貴方の立場が悪くなるだけじゃないの?」
 揺らぐ心を抑えながら問いかけると、白亜は少し首を傾げて視線を外した。考えるように瞳を伏せた。
「なにか一つくらい、組織に逆らいたいの。貴方と私の境遇が、同じだから」
 意外な言葉に紅葉は瞳を見開かせた。
(白亜も無理に攫われて来たっていうこと?)
 確かに、白亜が組織に従順を誓っているとは思えない。逃げたくても逃げ出せず、せめてもの報いに紅葉に協力してくれるのだと思った方が納得できる。けれどそれが露見すれば、白亜は消されるだろう。
 紅葉は静かに彼女を見つめた。
 決意を秘めた黒瞳になぜか胸を打たれて息がつまる。
(私だったら……人殺しを続けながら夜人の側にいるなんてできない。それくらいなら――死を望むのかもしれない)
 白亜も同じなのかもしれない、と紅葉は思った。なにか一つくらい、と彼女の声が脳裏に木霊する。
(私だって、なにか、一つくらい)
 紅葉は頷いた。
「やってみる。明日、蓮夜に言ってみる」
 白亜の視線が紅葉に向けられた。
(私は、白亜を信じる)
 そう決意して瞳を見返す。
「逃げるときは……手伝ってくれるんでしょう?」
 なぜか白亜は顔を歪めた。けれどそれは直ぐに払拭されて笑顔が浮かぶ。
「ええ。今度は失敗しないようにね」
 共犯者の笑みを浮かべて、二人は手を取り合った。

前へ目次次へ