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第三章

 【一】

 部屋の鍵が外れる音がして紅葉は緊張した。寝台に腰掛けながら待つのは蓮夜。今日は特別な日だから、緊張も高まる。
 食事を運んできた蓮夜はまず部屋の中を見渡した。その瞳が少しだけ和らいだ気がしたが、直ぐにそれは隠された。今日は珍しく夜人の姿がなかったため、いつも淡々とした冷戦を繰り返している蓮夜も安堵したのだろう。夜人の相手をするのは幾ら蓮夜でも疲れるはずだ。
 紅葉は膝の上で握った拳に汗が滲むのを感じた。
「蓮夜。私、受け持つのは銃でいいわ」
 立ち上がり、蓮夜が用意した食事を寝台まで運ぶ。再び寝台に腰掛け、食事を摂りながら紅葉はそうして切り出した。
 声が震えていたかどうかは分からない。ただ、目の前がぐらぐらと揺れていることは確かだ。組織を肯定する言葉はこんなにも自分を揺さぶって平常心を奪う。
 紅葉はなるべく自然を装いながら蓮夜を見上げた。
 扉付近の壁に寄りかかっていた蓮夜は真っ直ぐに紅葉を見下ろしていた。その赤い瞳に紅葉は息を止めた。蓮夜の瞳は探る光を帯びている。腹を空かせた獰猛な野獣を連想させる瞳で、紅葉は視線を逸らせたら食われるような気がした。
「それは……組織に入りたいと言っているのか。お前が?」
 嘲りも露な声だった。本当の笑い声を上げないだけに、見下されているという認識は強い。けれど同時にそれは憤りも呼び起こす。蓮夜の声を聞いたお陰で、紅葉は自分を保てた。
(信じなくてもいいよ。本当じゃないし)
 紅葉は無言のまま蓮夜を見つめ、食事を再開した。
 とりあえずはこれでいいはずだ。遠回しにそう言っておけば、それは事実として徐々に彼らの胸に染み込んでいくだろう。“夜人のため”や“とうとう折れたか”など、それぞれ勝手な解釈を付けるだろう。ただ、蓮夜だけは誤魔化すことが出来そうにない。それだけが紅葉の難題だ。
 紅葉は空になった食器をトレイに戻して立ち上がった。
 蓮夜が観察しているのが分かる。顔を上げた紅葉は真正面から睨み返した。顎を引く。
「外へ行くんでしょう」
 人を説得するために大切なのは“時間”だ。けれど今の紅葉には難しい。白亜も子どもたちも、どれだけの時間を待てるだろう。
 今すぐ訓練場へ連れて行けと叫びたいが、紅葉は堪えた。今回の計画が最後になることは分かっている。絶対に失敗できない。
 震えだしそうになる自分を抑えていると、ようやく蓮夜が動く。彼は無言のまま部屋の扉を開けた。


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 外の日差しが眩しくて、まともに瞳を開けていられなかった。
「紅葉!」
 振り返ると麻奈が走って来ていた。
 ここを脱走すれば麻奈とも会うことはない。それを思って紅葉は少しだけ寂しさを覚えた。
「おはよう、麻奈」
 がしりと腕を打ち合わせて笑顔を交わした。
「今日も夜人は来てないよ」
 紅葉が視線を巡らせる前に、麻奈は告げた。そんな彼女に紅葉は苦笑して首を振る。
「別に、捜してる訳じゃないよ」
「ふーん?」
 まったく信じていない麻奈の笑顔だ。紅葉は頬を引き攣らせる。
(昨日は夜人のせいで寝不足だし。結局、部屋に入らないっていう約束は出来なかったんだよね)
 気付いたらいつの間にか眠っていた。
 紅葉は昨夜を思い出しながら拳を作った。
(悔しいって言うか、情けないよね! 夜人の奴、本当に何もしなかったでしょうね……)
 普段が普段なだけに信用されない、というのは哀しいものだ。
 紅葉は夜人のことは忘れようと首を振った。
「白亜は?」
 問いかけながら紅葉は思い出した。昨夜、白亜から預かっていた木の棒をうっかりと部屋に忘れてきたことを。今朝の緊張で思い出しもしなかった。部屋の備品である紙を一枚、折り紙に使っただけで問い質される場所だ。戻ったら何を言われるのだろうと思うと気が重い。
「今日は白亜も見てないよ」
 心を飛ばした紅葉など知らず、麻奈は無邪気に答えた。けれど小さなその頬は少しだけ不機嫌に膨らんでいる。視線を戻した紅葉は瞳を瞬かせた。
(麻奈の機嫌を損ねるようなこと、何かしたっけ?)
 首をひねって思い出す。昨日は麻奈を放り出して、白亜と二人で教会から出てしまったのだ。麻奈が怒っているのはそのことだろうか。
 拗ねる麻奈は年相応に思えて、紅葉にとっては嬉しいことだ。申し訳ないという気持ちはもちろんあるが、それよりもくすぐったい喜びが勝って表情は笑みとなる。
「今日はいっぱい遊ぼうか」
 麻奈に提案すると、彼女は酷く胡乱な瞳となって紅葉を見つめた。意図は筒抜けなのだろう。麻奈の不機嫌さは悪化した。
(う……困った。でも、嬉しいのは嬉しいんだよね)
 いつも負けっぱなしであるため、こんな所でしか麻奈の子どもっぽさを感じられなくて。
 どうやって麻奈の機嫌を取ろうか、嬉しい困惑に頭を悩ませていると、紅葉の視界に男の子たちが映りこんだ。
「あれ、あの子たち」
 紅葉の視線を辿って麻奈も振り返る。左京という親友と引き離されて、昨日は外へ出て来なかった子どもたちが走り回っていた。
「ああ」
 麻奈は気付いたように頷いた。
 涙は昨日で出し尽くしたのか、今日見る彼らは少しだけ大人びた顔をして遊んでいた。その表情には無邪気な笑いを滲ませて。
「元気になったんだね。良かった」
 紅葉は安堵しながら表情を綻ばせた。
(それにしても、今日は白亜はいないんだ。話したいことは沢山あるんだけどな)
 麻奈と二人で子どもたちの様子を観察しながら、少し沈んだ気持ちで考えた。
 久々の脱走計画だ。成功しても失敗しても、今度こそ戻ってくることはないだろう。
(この子たち全員、連れて行ければいいのにな)
 叶わぬ願いであることは承知でそう思う。母に会えたら頼んでみようかと、首を傾げて表情を翳らせた。
 顔も思い出せぬ母。声も忘れてしまった弟。彼らが今どこにいるのか見当も付かぬまま脱走し、無事に見つけられる可能性は極めて低い。絶望的であろう。
(白亜が――知ってるかもしれないし)
 脱走を諦めるつもりはサラサラなく、ずいぶんと人任せなことを思ってしまう。自己嫌悪に顔を歪めて唇を噛み締めた。
(そこまで世話になる訳にはいかないわ。組織から逃げ出せるだけで、充分よ)
 それだけでもう、本当に充分なのだ。組織の壁に囲まれない空を見上げるだけで。
 紅葉は瞳を瞬かせた。
 組織に逆らってまで紅葉を逃がそうとし、死ぬ覚悟である白亜を思い出す。彼女こそ本当に一緒に行けないだろうかと、真剣に思った。誰かが死ぬのを見るのは嫌だった。特に、自分に親しい者が死ぬのは絶対に嫌だ。
「今度は何を考えておるのえ?」
 妙な口調が背後から響いた。
 その存在をすっかり忘れていた紅葉は「うわ」と驚き、隣で麻奈がおかしそうに笑っているのを見て憮然とする。伽羅が近づいてくるのを分かっていて黙っていたに違いない。
 紅葉が振り返った先で、伽羅もまたおかしそうに笑っていた。紅葉は先ほどの麻奈のように少しだけ頬を膨らませる。
「また突然なんだから。伽羅って、何してるの?」
 組織の者がこの箱庭に姿を見せることは滅多にないことだった。紅葉が知る限りでは、脱走を図ろうとした時ぐらいである。
 伽羅は「何とは何ぞや」と、またしても不思議な口調で面白そうに首を傾げた。
 その言葉に紅葉はハッとする。組織の者が何をしているかなど聞きたくない。麻奈に聞かせるなど言語道断だ。再び口を開こうとした伽羅を素早く止めた。
「言わないでいいわ」
 伽羅は一度瞳を瞬かせて、笑い声を上げた。
「別に笑わないでもいいじゃない。想像するだけに留めておこうと思ったのよ」
 訝る麻奈の視線が突き刺さったため、言い訳のように紅葉は呟いた。そして改めて伽羅を見る。
 伽羅はこの前に会った時と同じ服装をしていた。浮かぶ笑顔も同じである。
(同じような服装だっていうのは私はだって同じだけどさ。何だか伽羅って、組織の人たちとは全然違う雰囲気なのよね。鮮やかっていうか、何ていうか)
 紅葉は言葉に出来ずに眉を寄せた。
 スラリとした上衣に、膨らんだスカート。その丈は酷く短いが、スカートの下からは更に薄く長い、膜のようなスカートが足首までを覆い隠していた。
「この前言ってた黒の玉、見つかった?」
「黒の玉?」
 視線を伽羅に戻した紅葉は問いかけた。一瞬、何のことか分からなかったように瞳を丸くさせた伽羅だが、直ぐに思い当たったのか笑い出した。弾けた笑い声はハッとするほど鮮やかで、心地いい風の調べのようだ。
 伽羅は笑顔を消さぬまま首を傾げた。
「いいや、まだじゃ。けれどもう直ぐ――手元に戻るでの」
 伽羅は遠くを見つめるようにして呟いた。紅葉に聞かせる物ではなく、ただ本当にそう思って、独り言を呟くような声音だった。
(なんだ。あてはあるんだ)
 伽羅の笑い声を浴びた紅葉だが少しだけ安心し、芝に座り込んだ。
 その場所はやや小高い丘になっており、子どもたちが遊ぶ全貌を見渡せる場所だった。何か変事が起こっても直ぐに駆けつけられる。もしかして組織は子守をさせるために攫ったのではないかと思うほど、毎日が平凡だった。
 学校に行くこともなく、誰とも触れ合うこともなく、家族が全てだった頃に攫われた紅葉にとって、大勢の子どもたちが一つ所に留まることは、ひどく不思議だった。
「思い詰めるでないぞ」
 子どもたちを眺めていると横から手が伸びてきて紅葉の視界を塞いだ。
 心地よい体温と暗闇。なぜ彼女の手はこれほど安らぎをもたらすのだろう。
 麻奈が呼んでいるのか、紅葉は袖を引っ張られた。伽羅の手は直ぐに外されて苦笑を生む。
「心配するでない。お主から取り上げたりせぬよ」
 その言葉に、麻奈が嫉妬しているのだと気付いた。紅葉も苦笑して麻奈の頭を撫でると、麻奈は紅葉に飛びついてしがみ付く。伽羅に背中を向けて、紅葉の胸に顔を埋める。
「麻奈?」
 そんな行動は意外だ。紅葉は呼びかけたが、麻奈は返事をしなかった。
 初めて会った時から懐かれており、麻奈は紅葉にとって妹のような存在だった。誰かと比べることなど出来もしない。それでも、そんな独占欲を見せる麻奈が愛しくてそのままにしておく。
「紅葉」
 ふと、伽羅はそれまで浮かべていた表情を険しくした。
「白亜にあまり深入りするでないぞ」
 唐突な言葉に瞳を見開かせた。
 どういうこと、と問いかけたかったが、言葉は空滑りした。伽羅はすでに背中を向けて去ろうとしている。追いかけようにも、麻奈が抱き付いて紅葉を地面に縫いとめていた。
 紅葉は黙ったまま、伽羅が教会の中に姿を消すまで見送った。
「あの人、紅葉の何?」
 やがて腕の中から麻奈の声がして、紅葉は視線を落とした。麻奈は不機嫌な顔をして伽羅が去った方向を見つめている。
「何って言われても……」
 惑わせるような発言ばかりをして去っていく伽羅。
 紅葉こそ問いかけたい質問だった。

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