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第三章

 【二】

 部屋に響いた重たい音に気付いて眉を寄せた。惰眠を貪っていた紅葉は静かに起き上がり、月明かりに瞳を細める。侵入者を見据える。腕を伸ばし、手にしたのは棒だ。部屋に戻ってきたとき、それは意外にも奪われることなく元の場所にあった。
「いい加減にしろって言ってるでしょう。馬鹿夜人!」
 紅葉の攻撃は正確に当たった。
 月明かりの中で静かに忍び寄っていた夜人は、殴られた頭を押さえて悲鳴を上げる。
「いってぇっ!」
「当たり前だ」
 木の棒が脆かったのか、それともそれ程に勢いを付けて殴ってしまったのか、木の棒は半ばから折れた。紅葉は眉を寄せて夜人を見る。
 折れた棒を無造作に投げる。痛みにうずくまる夜人を蹴らないように気をつけながら寝台から降りた。壁際に寄ったのは、そちらに設置されている松明に火を入れるためだ。
 置かれていた光源を探し出し、火を灯すと小さな炎が揺れた。紅葉は壁の燭台を探して移す。糧を与えられた炎は見る間に大きく燃え上がった。廊下には電気が通されているが、紅葉の部屋にまで通す電気はないのである。
 橙色の明かりが部屋に満ち、炎の熱も緩やかに満ちていく。揺れる炎が生み出す影で、夜人の影が少しだけ見難かった。
「来るなって言ってたでしょう。もう、何なのよ」
 今日もまた寝不足だ。紅葉はぐったりとうな垂れた。
 思えば夜人はずっとそういう生活を続けて尚あの元気があるのだから、体力だけは尊敬する。いや、尊敬ではなく吸い取ってやりたい、と紅葉は夜人を睨みつけた。吸い取ってしまえば大人しくなりそうである。
「あ」
 夜人の顔を見ていた紅葉は思い出した。ようやく痛みから立ち直ってきたらしい夜人も視線を上げ、紅葉を見つめる。その瞳は微かに潤んでいるように思えたが、きっと炎が見せる錯覚だ、と紅葉は片付けた。
 紅葉は夜人に顔を近づける。
「白亜って人のこと、どこで聞いたの」
 夜人の視線が逸らされた。
「誤魔化さないでよ。答えるまでここにいて貰うんだから、絶対に――」
 夜人の頬を挟み、自分の方を向かせながら断言した紅葉は失言に気付いた。夜人の表情が見る間に緩み、嬉しそうに笑う。反対に紅葉は頭痛を覚えてほぞを噛んだ。
「――帰れ」
「え、何で?」
 期待を裏切らない夜人を殴りつけたくなった。拳を握り締めたのだが、それは夜人の大きな手に収められた。
「だあもう! 帰れったら帰れ!」
 自分の迂闊さに歯噛みする。至近距離に寄せていた顔を引いて怒鳴ったが、夜人が真剣な表情をするものだから落ち着かない。
 流されてたまるものかと、つかまれていない手で夜人の首を狙ったのだが、この攻撃はしっかりと防御された。固い腕に当たって手が痛い。
「紅葉の許可も貰ったことだし。じゃあ俺は本格的に嫁に」
「誰がいつそんな許可を与えたっていうのよ、この鳥頭!」
 “ひょい”という効果音がつきそうなほど軽々と持ち上げられて、紅葉は寝台に押し付けられた。いつもの暴言に夜人は眉を寄せる。
「鳥頭じゃねぇよ。俺の頭だ」
「いいから放せ!」
 現在冷静さを失っているのは紅葉だ。あっという間の形勢逆転に、紅葉は怒鳴りつけるしか出来なくなった。
「白亜のこと話すまでここにいろって言ったのは紅葉だろ」
「つ、都合よく捻じ曲げないでよね。話すつもりもない夜人なんかにいられたって、邪魔――」
「じゃあ、寝物語で話す」
 紅葉の抵抗などほとんど聞かずに夜人は囁いた。絶句した紅葉を逃さず抱えて口付け、両手を封じる。
「――っ」
 蹂躙された熱い口内に瞳を閉じると、目尻から涙が零れた。体を硬直させて、背筋を走った何かから目を背ける。いつもふざけて迫る夜人であるが、今だけは全く異なる気配を感じて戸惑いを覚える。間近で見る夜人の顔には幾つもの傷が刻まれていて、いつまでも子どもじゃないのだとぼんやり思った。
 息苦しさに窒息寸前まで追い込まれ、重い体で圧し掛かられて、紅葉は抵抗を諦めた。
(絶対死ぬ)
 熱さと眩暈の中でそう思い、意識が飛びかけた。気が付けば夜人は紅葉の顔を覗き込んだまま、至近距離から心配そうに覗き込んでいる。あまりに近いその距離に、何か言おうと口を開いた紅葉であるが、声は喉の奥で詰まったようにしかならなかった。驚いて手を上げようとしたが、それはまだ夜人に包まれたままで動かせなかった。
「愛してる、紅葉」
 肌を滑るように落とされる声に、紅葉は痙攣するように体を震わせた。悔しくて唇を噛み締め、睨みつける。
「……知ってる」
 真剣に見つめてくる夜人と視線を交差させながらの会話。
 現在の状態は危険だと警鐘が鳴らされるが、このままどうにでもなってしまえという投げやりな気持ちもどこかにある。夜人が真剣に誘ったら、今の紅葉は何も考えずに頷いたかもしれない。
 けれど。
「組織に入るか?」
 そんな問いかけに、紅葉は首を振って否定した。
 例え自分を見失っていてもそれだけは嫌だ。上辺だけではなく、それだけは深く心の奥底に根付いている。だから、紅葉が無意識であっても否定できた。
 夜人のため息が頬に落ちた。
「――蓮夜に言ったのは嘘なんだな」
 その言葉を聞いた瞬間、夢現をさまよっていた紅葉は覚醒した。瞳を見開いて驚愕し、夜人の瞳を食い入るように見つめる。少し赤味がかった彼の瞳は静かで、紅葉のそんな変化も黙って見ていた。いつも宿っている楽しげな光は消えている。怖いほど静かで真摯な瞳。先ほどまで見せていた紅葉への、熱の欠片も見出せない。
 ようやく、今までの行動が全て誘導尋問であったのだと気付かされた。
 じわりと紅葉の瞳に涙が滲む。
(――卑怯だ)
 あのような行動を取られて冷静な判断を下せる訳がない。組織の者たちと違い、紅葉は何の訓練も受けていない一般人だ。
 蓮夜や白亜のことなど何も考えずに頷いた自分に腹が立った。自分の気持ちを利用した夜人には殺意が湧いた。初めて組織に連れてこられた時から夜人はずっと傍にいて、唯一の味方だと思っていたのだが、そんな淡い気持ちは破られた。
(夜人はもう、向こう側の人間なんだ)
 悔しく哀しくて顔が歪んだ。両手は未だに夜人に繋がれているため、浮かんだ涙を拭うことも出来ない。
 近距離で見ていた夜人は黙って紅葉を引き寄せた。
 腕は解放されたが抗う気力もなくて、紅葉は泣きながら震えた。
「……何もしない」
 伽羅に向けたように、静かな声が体に響いた。
(出て行って。触らないで。最低な夜人なんか大嫌いだ)
 紅葉の心は閉ざされていく。どんな言葉で繕われてももう信じられない。
(最低な夜人より、馬鹿な夜人が私は大好きだったのに)
 夜人に抱き締められて、紅葉は思い切り縋りついた。夜人の肩に爪を立てるように抱きつく。泣き顔を見られなくて済むのは望むところである。黙って髪を撫でられても嗚咽は止まらない。
「何もしないから、寝ろ」
 命令口調にも心は波立った。
(うるさいうるさいうるさい。寝るよ、眠ればいいんでしょう。もう二度と、夜人を見て動揺する心配なんかないんだから。蓮夜に殺されてしまえばいいんだから!)
 泣いて赤くなった顔を隠すように、顔を更に押し付けた。瞳を閉ざして素直に眠りにつく。
 夜人の顔など見たくなかった。
(明日にも上に知られて、私はきっと殺されるんだ)
 白亜の顔が浮かび上がる。申し訳ない気持ちが湧き上がった。伽羅の哀しげな笑顔も過ぎり、酷く胸が痛んだ。もうこのまま何も考えずにいたい。包まれる体温は不愉快であったが、安らぎを感じるのも事実である。組織なんてなければ素直に好きだと言えたはずなのに。

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