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第三章

 【三】

 夢。
 銃撃戦に巻き込まれて、泣きながら母を捜し求めた小さな紅葉。
 何であんたはそうやって大事なものを失くすんだろう。今だって、母の服をしっかりとつかんでいればこんなことにはならなかったのに。
 ひたすら泣き叫びながら歩く紅葉を見つめながら思った。
 行かないで。そちらに行っては駄目よ、紅葉。行ったら貴方はもっと泣く羽目になる。あんたには、母の所にしか安らげる場所はないのよ。
 苦しかった。
 裏通りをさまよい歩く紅葉に注意を促してこのまま連れ去り、母に届けたいのは本当の気持ち。けれどこのまま攫われて、夜人にも会わせたかった。小さな紅葉の中で感情が生まれる瞬間をもう一度見たかった。
 苦しい。
 白亜が呼んでいる。
 行かないと。白亜の手を振り解かないで、今すぐ母の所へ連れて行って貰わないと笑えない。振り解いてしまえば泣き叫ぶだけだ。
 ぼんやりと瞳を開けると、隣に夜人がいるのが見えた。
 寝台に座っていた夜人は紅葉に気付くと、胸が痛くなるほどの切なさを湛えた瞳を歪ませる。腕が伸ばされて、手が額に触れる。どうやら汗をかいているようだ。
 うなされていたのだろうか。
 瞳を閉じると再び睡魔が襲ってきた。
 髪を撫でられる感覚に包まれながら、紅葉は夢へ誘われた。
 そうして見た夢は、ただただ鮮やかで甘い――殺伐とした過去とはかけ離れた、幸せな夢だったような気がする。


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「だああぁっ!」
 とんでもない衝撃に、紅葉は掛け布団を蹴飛ばして勢い良く起き上がった。
「信っじられない……!」
 口を手で覆い、青褪めて呟く。
「夜人が蓮夜と花畑で手を取り合って踊ってた……! しかも、私と白亜は近くの崖から釣り糸垂らして虹色の魚釣り上げてたし……!」
 なぜあのように気色の悪い虹色をした魚など釣り上げたのだろう。嬉しそうにしていた意味が分からない。更に夢の続きを思い返せば、伽羅が不思議な笑みを浮かべながら花畑に火を放ち、極彩色の魚を焼こうとしていた。魚を焼く前に夜人と蓮夜が黒焦げだ。
(夢だ。悪夢だ。誰よ、幸せな夢みたいだと思った奴は)
 紅葉は額の汗を拭って肩の力を抜いた。
(とんでもない夢だわ。朝から無駄に疲れた。すべては夜人のせいよ――)
 そこまで思い、紅葉はようやく気付いて寝台の上を見た。夜人は既にいないが、昨夜の出来事は夢ではなかったはずだ。後味の悪さに顔をしかめる。
 ふと腕を見ると、赤い跡が残されていた。何の跡だろうと首を傾げ、夜人の馬鹿力で掴まれた跡だと思い出す。どこまでも迷惑な奴である。
 舌打ちしたくなる気持ちを必死で堪えながら寝台を降りた紅葉は、扉側に蓮夜が立っていることに気付いて仰け反った。
「な、わ、いるならいるって言いなさいよ! 黙って見てるなんて悪趣味だわ!」
 激しく鼓動を打ち鳴らせる心臓に手を当てながら、紅葉は叫んだ。一体どこから聞いていたのかと表情を窺ったが分からない。蓮夜の表情を理解できるまで精通するなど、考えただけで寒気がした。
 紅葉の怒鳴り声をやり過ごした後に、蓮夜は微かに口の端を上げて笑った。
「起きて勝手に喋り出したのはお前だ」
 蓮夜の正論に紅葉は言葉を詰まらせた。先ほどの叫びを聞かれていたのだという恥ずかしさで顔を真っ赤に染める。怒りで拳をわななかせたが、その力が彼に飛ぶことはない。何とか冷静さを取り戻そうとしながら呼気を宥めた。
(……そういえば、私、もう処分されるんだっけ。夜人から話は伝わってるはずよね。何かもう、どうでもいいや……)
 投げやりに立ち上がり、棚から食事を運んだ。寝台に戻って食事を摂り始めても蓮夜からは何の言葉もなく、かえって紅葉は訝んだ。
 いつ処分を言い渡されるのかと恐怖が湧いてくる。これも組織の作戦内なのだろうか。
 いつもなら夜人が蓮夜の話し相手になっているうちに食事を済ませるのだが、今日はそれがないため、間が悪い。監視されながら食事をしても味覚が働かない。
 蓮夜の瞳が細められた。
「今日から外へ出る時間は半分に減らそう」
 紅葉は瞳を瞠らせた。
(いきなり何よ、その待遇変化は)
 突然殺されるような真似よりは良いが、ジワジワと絞め殺されていくような気分だ。紅葉は戸惑って蓮夜を見たが、彼からは相変わらず何も読み取れない。
 紅葉が自分の言葉にどんな反応を示すのか観察するように凝視していた蓮夜であるが、しばらくして口を開く。
「初めに訓練場に案内する。早く食べろ」
 瞳を閉ざし、背中を壁につけたまま。
 白亜とこれからのことを大至急話し合わないと、と焦っていた紅葉は呆けて蓮夜を見た。
「訓練場……?」
「組織の訓練場。場所は知っているはずだ。迷い込んだことがあるだろう」
 蓮夜は紅葉を見もしない。まるで紅葉がどんな反応を返すのか知っているかのような落ち着きぶりで、淡々と話す。
(何で訓練場? もしかして、そこで私を殺すつもり……?)
 浮かんだ考えに体を震わせると再び蓮夜が言葉を挟む。
「希望通り銃を持たせてやる。早く慣れることだな」
「銃……?」
「狙撃銃がいいか?」
 赤い瞳が紅葉を捉えた。
 紅葉は慌てて首を振る。心臓を高鳴らせながら首を竦めた。
(何か、変だな。殺されるっていう雰囲気じゃないよね……?)
 紅葉は残りの食事を慌てて掻き込んで飲み下し、タイミングを計ったように部屋から出ようとする蓮夜の後を追いかけた。
 扉を出て、鍵を掛けるまではいつもと変わらない。
 だが蓮夜は、外へ行くいつもの道とは反対方向へと歩き出した。それも、紅葉を後ろ手にし、ついて来いというように先を歩く。
 考えられないことだった。
 紅葉は隙あらば逃げようとする子どもだったので、姿が見えない後ろを歩かされることはなかった。蓮夜ならば気配だけで読み取ることも可能だろうが、紅葉はいつも監視を背中にして歩くことを義務付けられていた。
 もしかして後ろに誰かいるのかと思って振り返ってみたが、誰もいなかった。
(何で……? 何か変よ?)
 こうまで不測の事態が続けば不安はいや増す。首を竦めるようにして辺りを警戒し、蓮夜の後を歩く紅葉は唇を引き結んだ。
「夜人に聞いたんじゃないの?」
 低く問いかけると、蓮夜は足を止めぬままに視線だけで振り返った。
 冷ややかな視線が紅葉に突き刺さる。現在の状態は彼にしても不本意なのかもしれない。
「――聞いている」
「なら何でっ?」
 再び前を向いた蓮夜の瞳が、今度は訝りを含んで紅葉に向いた。体ごと振り返られて、紅葉は体を硬直させる。
「……質問の意味が分からないが。紅葉は夜人に何と言ったのだ」
 安易な答えをためらわせる視線だった。昨夜見せた夜人とは全く違う視線である。本当のことを言うべきではないと判断したが、それなら何を言うべきなのか分からない。少し視線をさまよわせてから蓮夜に向けた。
「蓮夜は……夜人から何て聞いてたの」
 反対に問いかけてみた。蓮夜はまだ訝る視線を向けていたが、急に興味を失って歩き出した。
「夜人の伴侶になることを承知した。大した戦力にはならないだろうが、銃の扱いぐらいは習わせておく、と。そう聞いているが」
 初耳もいい所の言葉に、紅葉は大声で否定しようと開きかけた口を、慌てて閉じた。間抜けな声を上げることもなく、思考は過去最速で回転する。黙ったまま蓮夜の後を歩いていく。
(本当に夜人がそんなこと? 昨日、組織になんか入らないって言ったのは、私の夢……? いや、夜人のことよ。またいいように曲解して伝わってるっていう可能性の方が高いわ。じゃあ、これは……好機?)
 ひとまず、白亜に言われていた、銃の扱いだけは習えるようなのだ。嘘でも何でも、それだけは真実。
(助けてくれてるの、あの夜人が? それともこれも、また何かの罠?)
 自分が知る夜人の中には、まだ知らない夜人が隠れている。簡単に信用することも出来なくなって、それゆえ味方なのか敵なのかも分からない。紅葉は頭を抱えたくなった。
(ああもう。今まで単純馬鹿で分かりやすかった奴が下手に知恵を持つと厄介だわ。いつまでも馬鹿なままでいてよ、夜人は)
 さり気なく酷いことを本気で思って舌打ちしかけた。蓮夜の視線は前を向いていたが、神経は全てに開かれているはずで、紅葉が不審な行動を取ろうものなら今度こそ、夜人のことがなくても拘束されるだろう。
 紅葉は拳を握ることで何とか堪えた。
(――夜人が何のつもりなのか知らないけど、銃を扱えるなら何でもいいわ。夜人の意図が分かるまで、せいぜい有効利用させて貰うんだから)
 どうせその期間も長くはない。真実が露見する前に紅葉は白亜と共謀し、必ず組織から脱出を図る。
 紅葉は、いつも馬鹿みたいに明るく笑う夜人を思い浮かべようとしたが、浮かんだのは昨夜の切なくなるような瞳だった。頬が紅潮するのが分かり、慌ててかぶりを振る。思いついた時にしか切らないバサバサの髪が容赦なく紅葉の顔を叩いた。
(気にするな気にするな、私。夜人が何を考えてるのかなんて、もういいから)
 鈍い金属の音が響き、夜人のことを考えていた紅葉は表情を改めた。前を行く蓮夜が押し開けていたのは、居住区から繋がる訓練場への扉だ。その扉は鉄格子。結構な重量があるのか、押し開ける蓮夜の腕に力が入る。押し開けたまま、蓮夜は紅葉に中へ入るように促した。バネか何かが仕掛けられていて、自動で戻るようになっているのだろう。紅葉が中へ入って蓮夜が手を放した途端、重たい鉄格子は徐々に戻り出して速度を増し、最後には耳を塞ぎたくなるくらいに耳障りな音を立てて、扉は閉まった。空気の震えが紅葉の鼻先にまで届いてきた。
 蓮夜は鉄格子がしっかりと嵌っていることを確認すると鍵を掛けた。
(……前は鍵なんてついてなかったのに)
 それは以前紅葉が脱走する時にも使った扉だ。以前の紅葉は今よりも更に小さかったため、重たい鉄格子を開けることなどしなくても、隙間から潜り抜けることが出来た。今はさすがにそのようなことは出来ない。
(やっぱりあれから色々強化してあるんだよね。何の考えもなく脱走してたらこうなるのか。失敗した。もう少し慎重に動いておけば良かった)
 この分では他の場所も色々と変わっているに違いない。
 紅葉は後悔したが後の祭りだ。
 再び歩き出して蓮夜の後に続き、石造りの廊下を歩き出す。けれどしばらく進むと行き止まりにぶち当たってしまった。
(……あれ? 前に来た時はここから訓練場に続いてたと思ったんだけど)
 紅葉は瞳を擦って凝らしてみた。記憶にある道はここから先を確かに示しているのだが、目の前の現実にそんな道はない。
 不思議に思っていると蓮夜が紅葉を振り返った。
 探るように見つめてくるのが分かり、紅葉はムッと不愉快を示すと背筋を伸ばした。対抗するように蓮夜を見返す。
(何か良く分からないけど、私の疑いは解けてないはずよ。今ここで下手な動きを見せれば、計画が危ないどころか、見せしめに麻奈たちを殺すような真似だってするかもしれない)
 紅葉は数瞬遅れて、恐ろしい自分の考えに青褪めた。
(……そうだよ。そういう可能性だってあるんだよ。ここの奴らは人間じゃない)
 考えたこともなかったことだ。
 否、考えることを放棄していた。
(もし私の脱走が成功しても、麻奈たちが殺されたりなんかしたら……)
 恐怖が込み上げて体が震えようとした。蓮夜が凝視しているため、不用意に怯えなど出せなくて紅葉は必死で奥歯を噛み締める。見る間に顔が白くなっていくのが自分でも分かったが、そちらはどうしようもない。
 蓮夜を見つめながら夜人を思い浮かべた。
(夜人を信用しよう。脱走のことをちゃんと言って、子どもたちのことを頼もう。それが一番安心だ。今だって夜人は私を助けるような行動してるし、大丈夫。きっと、まだ本当には裏切られていないんだ。まだ信用してもいいんだ。勝手な願いでも、拒否されても――頼んでみよう)
 蓮夜を睨み返したその先で、彼の手が壁の一端に触れた。少し遅れて重い音がして、ゴトリと壁のレンガが一つ、抜け落ちる。まるでそれは、紅葉と蓮夜の部屋を仕切る壁が壊されていくような光景だ。
 レンガを一つ、向こう側に落とした蓮夜はその中に腕を入れた。向こう側で何かをしているように肩が動き、直ぐに変化は訪れる。低く唸るような音を立てて、壁全体が回り始めたのだ。紅葉は呆気に取られてそちらを見たが、蓮夜が一瞬だけ視線を向けたのを見て、慌ててそちらに走り寄った。蓮夜の側にいなければ置いていかれるような気がした。
 壁が回り始めると同時に、射撃音が響いてきた。薬莢が落とされる音、装填の音、的に当たる音――。
 鼻を掠める硝煙の匂いに顔をしかめた紅葉は、匂いに全身を包まれて吐き気を覚えた。気持ちの悪さを覚えながら顔を上げる。
 からくりが仕掛けられた壁の向こう側には、組織の訓練場が広がっていた。

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