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第三章

 【五】

 うめこうと唇を動かしたことに気付き、意識が浮上した。微かに瞳を開くが滲んでしまって判別しない。寒気がしていた。けれどどこか暑くも感じ、苦しくて気持ちが悪い。腹の底が引っくり返ったかのようだ。指一本も動かせない。不快な調子のなかで腹立ちを抑える。
 微かに頭を動かすと鈍い痛みが頭部全体に広がり、その痛みは集中して一本の針となり、額から後頭部まで突き抜けた。
「……っ」
 紅葉は思わず瞳を強く閉じる。こめかみが引き攣り、さらなる痛みが駆け抜ける。
 全身が強い疲労に包まれていた。汗をかいている。腕を動かすのも億劫だ。起き上がることなど出来もしない。
(私、今どこにいるの……?)
 現状が良く理解できずに何度か瞳を瞬かせた。
 唇は乾ききっていて喉が引き攣る。滲んだままの視界は明瞭さを取り戻す気配もない。
 瞳を閉じてこのまま眠りたいが、紅葉は何とか腕を伸ばして動こうとした。頭を動かした瞬間に鈍い痛みが再び後頭部へと突き抜け、額から何かが落ちる気配がした。
(……何?)
 視線だけを動かして確認する。
 先ほどまでそれが乗せられていただろう額が妙に軽くなり、しかしその瞬間から更なる頭痛が生まれて熱に包まれ、紅葉は嗚咽を堪えながら寝返りを打った。
 額に乗せられていたのは固く絞った――雑巾。
 紅葉は理解した瞬間、それを鷲掴みにすると寝台から投げ捨てた。雑巾はベチャリという、何とも力の抜ける音を出す。紅葉は振り下ろした腕をそのままにして寝台に突っ伏し、体を襲う痛みに必死で耐えた。瞬時に、雑巾なんかに構わなければ良かった、とは後悔したものの、条件反射である。
(誰よこんなことした奴? 一人しか思いつかないけど)
 紅葉は体中を襲う痛みに耐えながら何とかもう一度寝返りを打ち、仰向けになった。見慣れた天井が目に入ったと思った途端、訳の分からない嗚咽が洩れて泣き出した。もちろん声は上げずに涙だけだ。
(ここって、私の部屋……?)
 緩慢だが、徐々に事態が飲み込めてきた。
 訓練場で銃を手にした紅葉はそのまま倒れたのだ。様子を見に来た蓮夜が倒れた紅葉に気付いて部屋まで運び、組織の医者が呼ばれた。
 診察結果は“心因的なストレス”と出た。組織に対する拒否反応。
 長らく硝煙の匂いを嗅いでいて封印されていたトラウマが甦り、気持ちが悪くなったという原因も確かにあるが――今回倒れた大部分の原因は、“組織になんか入りたくない”といった物であろう。
 倒れていた紅葉はそんな診察が行われたことなど知らない。組織がどのような判断を下すのか、今の紅葉には分からない。頭の芯から広がるような熱に、うなされるだけだ。
 紅葉は天井を見上げながら一息つくと、もう一度寝台に起き上がろうとした。腕に力を込めた途端、手の平に生まれた痛みは腕を駆け抜け、こめかみに到達した。
 熱くて痛くてどうにかなってしまいそうだった。体は千々に引き裂かれ、寝台の中でただ震える。何枚毛布を被ってもまだ足りない。そうしていればいずれ積みあがった毛布に潰され、今度は息が苦しくなる。
「紅葉?」
 小さく篭ったような声も、今の紅葉には鋭利な刃物で突き刺されたかのように強く聞こえた。耳の奥が痛くなって顔をしかめる。
 寝台に体を起こし、鈍痛を必死で耐えて座り込む。注意して力を入れていないと、熱に負けてそのまま前のめりに倒れそうな気がした。
 上体を起こしたまま肩で息をしていると、夜人は予想通り壊されていた壁から姿を見せた。彼は雑巾の換えを取りに行っていたのか右手に雑巾を持っている。紅葉が起き上がっていると知ると、嬉しげな笑顔を見せる。
「起きたか紅葉」
 熱による痛みで微笑むことも出来ない紅葉は、無表情で彼を迎えた。
 嬉しげに駆け寄ってきた夜人だが、床に落ちている雑巾を見るなり眉を寄せた。
「てめぇ、人がせっかく――」
 一瞥しただけで拾おうとはしない。夜人は冷やしてきたばかりの雑巾を紅葉に渡そうと近寄った。元から丈夫な夜人は熱の対処法など知らない。せいぜい濡れタオルで額を冷やすくらいしか思いつかない。組織の者は風邪知らずの健康な者たちばかりだ。このような事態に夜人は焦りを覚えていた。しかしどんなに夜人が焦っても紅葉の熱は下がらず、焦れる思いで紅葉を見守るしか出来なかった。
 紅葉は近寄ってきた夜人との距離が充分な物になると、一瞬息を止めて彼に手を伸ばした。息を止めたのは痛みに挫けないようにすためだ。夜人の胸倉をつかんで引き寄せると息を吐き出した。
 体調の悪さを押し通した強固な意志である。
「あんだ、よぐも人の顔に雑巾……」
 鼻声でなまっているようにも聞こえたが、紅葉は真剣だった。引かれた夜人は潰れたような声を出して、黙ったままその台詞を聞く。台詞の途中で倒れかけた紅葉を慌てて受け止める。
「無茶するなって!」
 耳元で大声を出された紅葉は頭に響いて顔をしかめた。触れてくる体温すら気持ち悪いが、自力で離れることも出来ないほどに弱っている。
「何よ、夜人の馬鹿」
 止まっていた涙が再び込み上げてきた。荒い呼気を繰り返しながら瞳を伏せる。
「俺のせいなのか?」
「黙れ」
 力の入らない手で夜人の胸を叩いた。
「あー、分かった分かった」
 前のめりに倒れた紅葉を夜人は抱き締めるように支え、困ったように吐き出した。紅葉は瞳を閉じて全てを遮断し、体力維持に全力を注ぎ出す。
 胸中で罵倒するが、夜人は当然そんな紅葉の胸中など知るはずもない。紅葉を抱えると、寝台を整えて横にさせる。高熱を放つ紅葉の側にいるだけでかなり暑かった。部屋自体に熱気が篭っており、夜人の部屋とは確実に二度違う。
「気持ち悪い……ってば」
 紅葉はもがくように両手を振り回した。赤ん坊よりも弱々しく遅い動きだ。
 夜人は紅葉の手を掴み、その手が高熱を宿していることに顔をしかめる。持っていた濡れ雑巾に気付き、紅葉の手を掻い潜って額に乗せようとしたのだが、乗せた瞬間、紅葉はそれを素早く捨てた。
「てめぇ、人がせっかく」
 これだけ弱っていて全力を尽くさなければ“投げ捨てる”という行為も出来ないはずなのだが――そんなに嫌かよ、と夜人は呆れて紅葉を見た。
「人の頭に雑巾なんて乗せるな……!」
 常よりも遥かに潤んだ瞳で睨まれて夜人は声を詰まらせた。声は熱のために掠れていたが、これまで感じたことのない妖艶さを感じて驚くのだ。
「せ、洗濯は俺がしたから大丈夫だ」
「尚更だ、阿呆」
 妙に歯切れ悪く告げる夜人へ、紅葉は胡乱な瞳を向けて悪態をついた。瞳を数秒開けているだけでも辛いのか、直ぐに瞳は閉じられる。彼女の額に手を当てると、まだかなり熱いことが分かった。
(雑巾が駄目なら何がいいって言うんだ。直接氷でも当ててやろうか?)
 紅葉の苦しげな表情を見ながら、夜人は冗談半分で毒づいた。半分本気である夜人の胸中を知ってか知らずか、丁度良いタイミングで紅葉の腕が伸びてくる。
 紅葉はうっすらと開いた視界の中で夜人を捜し出し、その手をつかむと頬に当てた。
 先ほどまで水に浸けていた夜人の手は程よく冷たい。
 安堵したかのように眠りに落ちた紅葉を、夜人は眺めながら寝台に腰掛けてため息をついた。組織の訓練場へ入り、銃を手にしただけで拒否反応を起こして寝込む紅葉。
 夜人は険しい表情を崩さずに、もう一度溜息をついた。

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