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第三章

 【六】

 熱が下がった紅葉は目を覚まして驚いた。
 事態がつかめない。見慣れた天井は自分の部屋のものだと分かっていたが、自分がどうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。今まで銃の練習をしていたはずなのに、いつの間に部屋に戻ったのだろうか。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 訓練場を思い出した途端に喉を競りあがる熱いものを感じたが、あえて飲み込んで体を起こそうとした。その間際、隣に違和感を覚えて振り返り、絶句する。
 隣には夜人が眠っていた。布団はかけず、まるで倒れるように横になっている。
 数秒固まっていた紅葉は次に、強い苛立ちを覚えて睨みつけた。
(昨日の今日で、なによこいつの図々しさは!)
 高熱を出して寝込んでいたときのことは忘れていた。夜人がこの部屋に戻ってきた理由が分からない。紅葉の記憶は、夜人に裏切られたところまで遡っていた。騙されて誘導尋問を受けた事実だけが強く記憶に刻まれている。
 夜人にしては珍しく深く眠っているようだった。その表情には疲労が浮かんでいたが、紅葉が起きて間もなく彼も起き出した。しかし紅葉は夜人が完全に目覚める前に足を振り上げていた。
「こ……っの!」
 熱による全身の痛みは完全に消えていた。熱もすっかり落ち着いており、今の紅葉は、記憶障害をのぞけば健康体だった。
 紅葉は苛立ちに任せて夜人を寝台から蹴落とした。
「……っ?」
 さすがは夜人と言えようか。まだ夢現のようだったが、落とされたと気付くなり完全に目覚め、素早く受身を取って立ち直る。何事かと周囲を警戒する夜人の様子は紅葉が知る姿とは完全に違っていた。
 沸々と湧く怒りに任せ、紅葉は叫んだ。
「二度と私の前に顔を出さないで!」
 紅葉が起きていると知った夜人は表情を輝かせたが、その表情は一瞬で歪んだ。感情的な叫びには本人も驚いたが、それ以上に夜人が傷ついた表情をしたことに驚いた。罪悪感が浮かぶが取り消すことはできなくて、ただ睨む。
 夜人は固い表情のまま「ああ」と小さく頷いた。
 今までとは比べ物にならないほど素直に部屋から出て行こうとする。壁を元に戻して紅葉の視界から消えた。
「なに、あいつ……」
 またどうせ直ぐに戻ってくるに違いないと思って壁を睨んでいた紅葉だが、その気配がなくて肩を落とした。珍しく従順な夜人に物足りなさを覚えるが、勝手な感情だ。心が重いまま寝台を降りる。
(悪いのはそっちじゃない。急に殊勝な態度見せるなんて卑怯だよ。なによ、もう。最初に私の信頼裏切ったのはそっちじゃないか。私は悪くない)
 言い訳のように胸中で呟きながら着替えを手にした。微かに関節が痛んだが、気にするまでもない痛みだ。直ぐに忘れた。
 自分が悪くないならこんなにも哀しくなるのはなぜなのか。これほど心を重くしなければいけないのはなぜなのか。
 眠っている間中、ずっと不安に包まれていた。何の夢を見ていたかは記憶にないが、それでも“怖い”という形のない不安だけが胸に染みている。今までもずっとそうだった。意識が眠りに就くたびに、普段は押し込めている不安や怒り、悲しみが夢となって暴れ出すのだ。しかし朝には夜人がずっと傍にいて、そんな恐怖を思い出す暇もないほど忙しくなる。だから夜人が離れた今、紅葉の恐怖を払拭させる者はいない。
 紅葉は見えない恐怖に怯えるように、形のない夢に体を震わせた。
(……いつの間に部屋に戻ってきたんだろう)
 着替え終わり、膝を抱えてしゃがみ込み、額を膝につけた。嗚咽が洩れてくる。必死で堪えようとする。強い衝動に肩が震える。裏切りが相当に効いているのだと知り、更に嗚咽が込み上げてきた。
 ひとしきり泣いたあとは呼吸を整え、紅葉は顔を上げて壁を見つめた。
(……いるだろうか)
 壁に背中をつけ、こちらの様子を窺っているだろうか。その顔に憂いを乗せて、泣き顔を必死に堪えるようにして。
 紅葉はため息をついて立ち上がった。
 ちょうど時を同じくして部屋の扉が開かれる。入ってきたのは蓮夜だ。そこに夜人の姿を期待していた紅葉は自己嫌悪に奥歯を噛み締めた。
 蓮夜はいつも通りの鉄面皮を被り、いつも通りに食事を運ぶ。種類はさほどない食事が棚の上に並べられた。
 蓮夜の姿を見つめながら紅葉は首を傾げた。なぜ、訓練場から部屋まで戻ってきた記憶がないのか。熱によって奪われた記憶は戻らない。何度記憶をさらっても、そこに望む記憶は残っていない。訓練場で倒れたことも、夜人が看病をしたことも、紅葉はすべて忘れていた。
「あの」
「食べられるなら食べろ」
 こうなったら嫌でも蓮夜に確かめてみようかと思っていた紅葉は出鼻を挫かれて口を噤んだ。妙な言い回しに顔をしかめる。蓮夜を窺ったが彼の表情を読み解くことはできない。彼もまた、自分から紅葉に説明をするつもりはないようだった。扉付近の壁に背中をつけて、腕を組んで紅葉を待つ。いつもと変わらぬ成り行きだ。
 しばらくはその様子を眺めていた紅葉だが、やがて諦めた。嫌悪感を押して蓮夜に訊ねても、望む答えが得られるとは限らない。忘れるくらいの出来事など、結局は大したことではなかったのよと、紅葉は自分を納得させる。視線を食事に戻した。
 蓮夜はすべてを拒絶するように瞳を閉じている。眠っているわけではない。紅葉が妙な行動を起こさぬよう、細心の注意を払っている。いつもそうなのだ。見ることなく誰かの気配を読むことなど、組織の者にとっては容易いことなのだろう。
 紅葉は夜人を思い出して瞳を熱く潤ませた。
 蓮夜の前で泣き出すわけにはいかない。かすかに肩を震わせただけで堪える。自分のものではないようにぎこちなくなった手を宥めながら、なんとか食事を再開した。
 食べ終えるときを見計らって蓮夜が壁から背中を離す。
 その動きは紅葉を怯えさせたが、そんな自分に気付いた紅葉は唇を引き結んだ。蓮夜の唇が笑みを刻む。
「今日は外だ」
 端的に告げられた。
 頭から「今日も射撃訓練だ」と思い込んでいた紅葉はその言葉を意外に思った。なぜ、と問いかけようとしたが、脳裏に硝煙の匂いを思い出して声を詰まらせた。表情が翳る。
 蓮夜はその間に素早く廊下に出てしまった。問いかけることもできず、紅葉は慌てて追いかける。その間際、夜人の部屋に視線を向けてしまうのは自分でも情けないと思うけれど。
 廊下に出た蓮夜の様子は普段と変わらない。
 部屋に鍵をかけて紅葉を前に押し出す。再び監視下に戻ったのだ。
 紅葉は正直、ため息をつきたかった。早く脱走を図りたくて射撃を覚えようと思ったのだが、気持ちばかりが空回りして体が追いつかない。
(もしかして私の腕が悪すぎて、早々に処分しようと決めたとか?)
 紅葉はありえそうな予感に眉を寄せた。
(もしかしてさっきの食事に毒盛られてたとか。毒なんて盛られてたら対処する術はないよねぇ。夜人はもう庇う気なんてないだろうし、私だってそんなの願い下げだし)
 紅葉はそっと蓮夜を窺い見ようとした。しかし彼の視線は痛いほど背中に突き刺さっている。振り返る気配を見せようものなら怪訝に思われるだろう。とても隙が見られない。
 紅葉は開き直って胸を張った。
(毒を食べてたなら食べてたで何とかなるわ。空腹で死ぬより満腹で死ぬ方が絶対に幸せよ! ……幸せなわけないけど)
 庭から入る光がいつもより眩しく思えて、紅葉は瞳を細めた。

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