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第三章

 【七】

 明るい外へ出た紅葉は、建物の入口付近に白亜の姿を見つけて表情を輝かせた。
「白亜!」
 ぼんやりと空を見ていたような白亜はその声に肩を揺らせて振り返る。
 駆け寄ろうとしていた紅葉は、まるで射られたようにその場に足を止めた。紅葉へ向けられた白亜の視線は鋭く、拒絶しているように感じられたからだ。
「白亜?」
 先日は好意的な態度だったが今は逆。急に態度を翻される理由が分からなくて紅葉は戸惑った。もしかしてと思いつく。自分の脱走計画が夜人から組織に漏れてしまったのだろうか。だから白亜は不機嫌そうなのか、と。そう考えれば白亜に近づくことなど出来ず、上げかけた手を下ろして立ち竦んだ。
(……どうしよう?)
 心もとなく視線を漂わす紅葉に気付いたのか、白亜はそれを見て視線を逸らした。そしてそのまま歩き出す。紅葉に背を向けて、反対方向へ。
 遠ざかる背中は明らかに紅葉を拒絶するものだった。
 紅葉は顔を歪める。ただでさえ夜人に裏切られたという想いに潰されそうであったのに、この上白亜にまで見捨てられたらどうしていいか分からない。はなから家に戻りたいと望んだのが間違いだったのだろうかとまで思い込み、唇を引き結ぶ。
 うな垂れた紅葉の背後で、やりとりを窺っていた蓮夜が瞳を細めた。紅葉の背中をしばらく観察してから黙って建物の中へと戻っていく。
 もちろんそのようなこと、彼に背を向けていた紅葉は分からない。
 ただ立ち竦み、蓮夜が建物へと消えて少し経ってから。紅葉は背中を突き飛ばされた。
「紅葉の馬鹿ー!」
「だああっ?」
 小さな弾丸は麻奈だった。
「ちょ、ちょっと?」
 突き飛ばされた紅葉は建物に激突しかけ、慌てて両手を壁についた。しかし麻奈はそのままでは終わらず、遠慮なく紅葉の背中を殴り続ける。子どもの手とは言え、痛い。
「昨日はどうして来なかったの? 夜人も忙しそうで最近は全然来ないし! 左京がいなくなってからは友達もどんどんいなくなっていくし、紅葉までいなくなったのかと思って心配したじゃない!」
 泣き出した麻奈の気迫は紅葉を凌駕した。
 ひとまず殴る手を止め、落ち着かせるように抱き締めて麻奈の言い分を聞く。夜人のくだりは顔をしかめたものの、友だちがいなくなったという言葉には納得した。あれから何人か、里親に引き取られていった子どもたちがいるのか。
「昨日は……」
 このような展開は予想していない。言い訳も考えていなかった。
 口を重くした紅葉は訓練場を思い出して口許を押さえる。胸を熱い何かが駆け上り、吐き気がした。
 瞳を瞠る紅葉の脳裏に遠い過去が甦った。白亜と、蓮夜と、血臭を充満させた町が目の前に広がる。それは悪夢に成り代わり、どこかで見たような夢の光景に移り変わる。哀しげな表情をする白亜。そして残忍な笑みを浮かべる蓮夜。紅葉をつかんで放さない牧師。最後には、駆け寄る子どもたちを次々と殺していく夜人が現われる。
 夢と現実とが混ざって混乱する。紅葉は太い針を差し込まれたように頭痛を覚えて膝をついた。麻奈を放して頭を押さえる。
(嫌だ、気持ち悪い。何よこれ?)
 熱のせいでうなされた悪夢だ。それを克明に思い出して目頭が熱くなる。
 あの時には夜人がずっと側にいてくれた。例えその記憶がなくても、無意識下で求めた存在が側にあれば、やはり安心するものだ。
「紅葉?」
 突然しゃがみこんだ紅葉に、麻奈が小さな手を一杯に開いて支えた。紅葉の表情を見て、麻奈までが泣きそうになる。
「ごめんね紅葉。具合が悪かったの?」
「ううん、違う。何でもない」
 麻奈の声が紅葉を現実に呼び戻した。悪夢は一瞬にして過ぎ去り、後には荒い呼吸が残される。
 紅葉は首を振って麻奈に微笑んだが、麻奈は不安そうな表情を消さない。友だちが多く引き取られていき、絶大な信頼を寄せる紅葉までもがこのようになってしまえば麻奈の不安は嫌でも増す。
 安心させないとと思った紅葉は麻奈を見上げ――急に、麻奈が遠くへ行くような錯覚に囚われた。彼女は直ぐ目の前にいるはずなのに、妙な感覚に巻き込まれる。
「でも紅葉、この前から変よ?」
 再びハッとした。紅葉は慌てて周囲を確認し、いつもの箱庭と変わらぬことを知る。
 少なくなった子どもたちが丘の下で遊んでいる。その歓声も、体を包む風も、全ての感覚が戻ってきた。
 紅葉は苦笑した。
 麻奈の頭を撫で、立ち上がって建物に背中をつけ、空を見上げた。
(確かに最近、不安定気味かも)
 光が目に突き刺さって痛かった。
「ねぇ……夜人って今、何してるの? 紅葉は来るのにあの男が来ないなんて。それもこんなに長い間」
 長い間と言っても、たった二日三日だ。麻奈の中で紅葉と夜人は一緒になっているのだろう。
 空を見上げていた紅葉は憮然とし、溜息を落とすとその場に座り込んだ。麻奈も一緒に隣へ座る。地面に視線を落として草をむしり始めた。
 紅葉は一瞬乱れた呼吸を整えて表情を険しくした。夜人の名前を聞いた途端に泣きたい衝動が湧き上がったが、麻奈に悟らせる訳にはいかずに必死で繕う。これ以上麻奈に心配をかけたくない。
「……知らないよ。夜人のことなんて」
「何で? だって一緒に暮らしてるんでしょう?」
「麻奈、それまだ信じてたの。違うって言ったじゃない」
 大げさに呆れてみせるのは、声が震えるのを防ぐため。
 そんな紅葉を見て何を思ったのか、麻奈は少しだけ首を傾げて視線を地面に落とした。芝生に両手をついてしばらく沈黙し、もう一度紅葉へ視線を戻す。
「喧嘩したの?」
 鋭い麻奈に舌を巻く。舌打ちしたい気分で紅葉は笑った。
「喧嘩なんてしてないよ」
「嘘。だって紅葉、変だもん。夜人がここに来るのって、私たちと遊ぶより紅葉に会いたいからだって、知ってるもん。それなのに最近、全然姿見せないのって、おかしいよ。あんなに紅葉のこと愛し」
「あー、もういいよ、もう、だーまーれー!」
 紅葉が両耳を塞いで怒鳴ったのは、麻奈に向けてではなかった。麻奈の言葉に合わせて、脳裏に夜人の声が甦ったのだ。彼に向けて怒鳴りつけたのだが、麻奈にそんなことは分からない。自分が怒鳴られたと思った麻奈は泣きそうに顔を歪め、拳を握り締めた。
「紅葉、最近変だよ!」
 隣で麻奈が立ち上がる気配がする。
 両耳を塞いで小さくなり、固く瞳を閉じていた紅葉はハッとして起き上がった。けれどその時にはもう、麻奈は走り出して小さくなっていた。
「……嫌われちゃった」
 普段ならば追いかけて弁明しただろう。麻奈も許してくれるはずだ。けれど今はそんなことをする勇気も覇気も失われてしまったように足が動かない。
(何もかも夜人のせいだ。馬鹿夜人。いきなりあんなことするから)
 突然ではなくいつもの延長線上にある気もしたが、言葉ではっきりと示されたのはあれが初めてだったと気付く。だからこんなに動揺しているのかと納得もしたが、そんなことを納得してもどうにもならない。そしてあれは、紅葉に誘導尋問を仕掛けるための材料。偽りの言葉だった。
 夜人への苛立ちが更に募る。麻奈とも喧嘩に発展してしまった。
 紅葉は倒れるように横になり、涼しい風が吹きぬけていくのを感じた。遠くに見えるのは大きな壁。それが組織の敷地をグルリと囲み、外界と遮断されている。唯一の接点は教会のみ。牧師が治める場所を通り抜けるしか、外へ出る道はない。
(もし災害があったら逃げ遅れてみんな死ぬんだろうな。組織の上層部が真っ先に逃げ出して、私たちは一番最後に回されるんだ)
 紅葉は固く瞳を閉じた。
(犯罪組織だなんて――)


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 出会ってから今まで、夜人が訊ねて来ない日は一日もなかったような気がする。
 どんなにうるさく振り払って突き放しても、夜人は必ず都合のいいように曲解し、次の日には何事もなかったかのように接触してくる。
 しかし、今回ばかりはそうもいかない。
 夜人が顔を出すこともなく、白亜とも上手く行かず、麻奈とまで不仲へと発展してしまった。最近の紅葉は覇気を失って、誰の目から見ても落ち込んでいた。
 蓮夜から組織に対する何かが紅葉に告げられることもない。夜人の部屋からも何も聞こえず、ただ黙々と、“箱庭”と“部屋”を行き来するだけ。
 人形のようになりながら、そうして三日が過ぎようとしていた。

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