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第四章

 【一】

 紅葉はぼんやりと寝台に腰掛けていた。
 特に何を考えるでもない。特別にやりたいこともない。ただ全てが億劫で、時間が流れていくのを無為に感じている。
 これまでは夜人がいた。呼びもしないのに現われて、紅葉が眠気を覚えるまで散々遊び、話をしていった。外を知らない紅葉に、瞳を輝かせて話して聞かせた。
 けれど三日前から夜人の気配は消えていた。
 彼と紅葉を隔てる壁は、磨り減って形が変わったレンガで組み立てられている。やろうと思えば壊すことは簡単だろう。その向こうには夜人がいる。けれどそんな気力もない。
 レンガの隙間から光が零れ、流れる時間の中でくぐもった声が聞こえることもあった。しかしそれは誰の声なのかも分からない。
 紅葉は壁を見つめていたがふとため息を吐き出し、視線を落とした。膝の上で呆けたように半開きとなっている両手を見つめる。軽く力を入れて、握ってみる。
 ――誰もいない。
 外へと出ても、喧嘩をした麻奈はあれっきり外へと出てこない。さり気なく子どもたちに聞いた所、麻奈は施設から出ようとしないらしい。彼女たちが外へ遊びに出るのは個人意志のため、出ないからといって管理人が強制することもない。
 三日経った今も怒られているのだと思えば哀しい。仲直りしたいが、麻奈から拒否されてしまってはどうしようも出来なかった。
「もう、やだなぁ」
 苦く顔をしかめながら呟いた。ポスンと横に倒れ、瞼を閉じる。
 脱走の計画など練っていられない。白亜にも嫌われてしまったようだ。以前見かけてから一度も姿を見ていない。こちらもまた、彼女から姿を見せてくれないことにはどうしようも出来ないのだ。
 心細さが身に染みた。
 夜人も麻奈も白亜もいなければ、この組織の中で紅葉は独りである。
 硬い寝台にはシーツが掛けられていたが、到底硬さを消せる物ではない。頬が潰れて冷たさが伝わってくる。
 紅葉は横になったまま膝を抱えた。そうすれば少しは体が温まるだろう。
 食事を終えれば眠るしかない。
 紅葉は視界を閉ざしたまま数字を数え始めた。それに飽きたら思いつく限りの漢字を思い描いた。それに詰まると脳裏には徐々に世界が広がる。組織の扉から放たれて広がる世界は広く、雲の切れ間から覗く太陽はとても暖かく、両手を翳すと何かが体の内へ溜められていく。見たこともない森が広がり、神殿が浮かび、その向こう側には華やかな都が広がっている。
 それらは全て、夜人から聞いた御伽噺だった。
 世界は無限に溢れている。そんな想像は紅葉に希望をもたらし、安らかな眠りが訪れようとする。しかし眠りに落ちる手前で夜人の姿が甦る。彼の姿は紅葉の胸に影を落として不安にさせる。手を伸ばしても届かずに置いていかれる。どうか独りにしないでと願ってみても、夜人も、麻奈も、白亜も誰も、止まらない。彼らは彼らの時間を進んでいくのだ。
 紅葉の胸にひたりと不安が忍び寄った。
 このまま眠ればまた悪夢が広がるのだと理解していても止める術はない。
 紅葉は虚ろになった体を懸命に動かし、眠気の中で何とかシーツを握り締めた。もう一度ここへ戻ってこれる様に、まるで一つの標だというように握り締める。
 そのまま紅葉は眠りに落ちる。
 極度の疲労と苛々は胃に穴を空けそうだが、それでも今は、誰も止める者がいないから。紅葉は悪夢を繰り返すのだ。


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 紅葉は眠りに落ちて意識が揺れていたが、その中でふと自分を取り戻した。いつもは焦燥とした気分で過去を夢に見ているのだが、今はどの悪夢とも違っていた。
 強張っていた四肢から力が抜けて誰かに触れている。無条件で覚えるのは全幅の信頼だ。母親の胎内にいるようだ。強く守られているのを感じる。
 柔らかな指が額に触れて離れていく。その後に布団が掛けられ、紅葉は温かな重さに包まれる。拍子に流れてきた甘い香りが紅葉の鼻をくすぐった。
 これも夢だろうかと紅葉は思いながら、安堵してより深く安らぎを求めようとした。
 寝返りを打って居場所を確かめようとし、ふとこれが本当に現実なのだと気付いた。
「誰……?」
 紅葉は体に力を入れようとした。
 意識が半分眠っているため、瞼はなかなか開かない。暗い視界の中には睡魔と闇が揺れている。それに逆らうようにして紅葉は動けと強く念じる。重い瞼をゆっくりと瞬かせて腕に力を込める。
 部屋にいた人物は去ろうとしない。
 寝台脇に立ったままで紅葉を見下ろしている。
 眠りに傾いていた天秤が軽くなりはじめ、紅葉はようやく体の主導権を取り戻した。
「伽羅?」
 ようやく、人物が誰であるのか認識できた紅葉は、寝台に横たわったまま見上げた。
 紅葉の目覚めに気付いた伽羅は、彼女にかけていた掛け布団から手を離す。
 離れた手ばかりか、彼女すら遠くへと行ってしまいそう。
 紅葉は思わず伽羅の袖を掴んでいた。
「紅葉」
 新緑を揺らす穏やかな風のような声音。
 伽羅の笑顔が優しくて涙が出てくる。
 紅葉は慌てて伽羅の手を放し、寝返りを打った。涙を悟られないように硬く瞳を閉ざしたが伽羅には伝わっているだろう。
 一拍を置いて伽羅の声が部屋に響いた。
「麻奈という子どものことじゃが……明日、詫びを入れた方が良いと思うぞ」
 紅葉は振り返った。
 伽羅は寝台の端に腰を下ろして宙を見つめている。何を考えているのか分からない。
 紅葉は彼女の横顔にしばし魅入って我に返った。彼女がどうやってここに入ってこれたのか興味が湧いた。壁を見ても、壊されていない。あとは扉から、ということになるが鍵は蓮夜が管理している。彼があけてくれるとは思えなかった。また、扉には無理にこじ開けられた形跡もない。
 紅葉はあえて麻奈のことには触れないようにしながら伽羅を見つめる。
 以前、白亜にあまり深入りするなと言われていたことを思い出した。
 ゆっくりと体を起こし、息をつく。気付いたのか伽羅は小さく笑い、立ち上がった。そのまま部屋を出ようとする。
「待って」
 呼び止めた紅葉だが言葉は続かなかった。何を言えばいいのか分からない。
 伽羅は微笑みを崩さないまま首を傾げる。
「なんで……私に構うの。味方、なの?」
 胸が痛むほど緊張しながら吐き出された声に、伽羅は微笑みを深くする。
「それはそなたが決めることえ。妾がお主に構うのは……歪みが激しいからよの」
「は?」
 思ってもみなかった言葉に声が裏返る。意味が分からない。その言葉が示す『歪み』とは顔のことか、それとも性格か。思い返そうとした紅葉は憮然とした。
「明日、謝りに行くが良い」
 伽羅は軽い裾を翻して扉に近づいた。
 体重を感じさせない足並みは滑るようだ。紅葉は黙ったまま見守る。扉の前で伽羅は少しだけ止まり、簡単に扉を開いた。そのことに紅葉は双眸を瞠らせる。
「どういう」
「気をつけよ紅葉。お主の歪みは育っておるよ」
 小さく振り返る伽羅の瞳には底知れぬ光が瞬いていた。すべてを見透かすような瞳だ。なにか問いかけたいと思ったものの、彼女の前にはすべての言葉が無意味に転ずるような気がして、声が出なかった。伽羅はそのまま扉の向こうへ姿を消す。
 誰もいなくなった部屋でひとり、紅葉はただ座り続ける。
 意識が眠りから浮上するとき、夜人がいると思った。伽羅と夜人では雰囲気がまったく異なるというのに、心は期待していた。
 紅葉は伽羅の呪縛から解放されると、込み上げるおかしさに唇を歪めた。
 もう意地を張らなければいい。組織に入ることも、応えることもできないけれど。人の気持ちを使って陥れるような奴だが、一歩でも踏み出してしまえば気持ちは楽になるだろう。これから殺されるのかもしれないが、それまでは信じていたい。最後には仲直りしてお別れしたいと思うのは、わがままに過ぎないのか。
 紅葉はそこまで思ってかぶりを振った。弱々しい想いを嘲る。
「なんで私がこんなに悩まないといけないの。元はといえばあの馬鹿が悪いのよ。全部。すべて。って、私がこんなこと思ってるって知ったら図に乗るに決まってるんだから」
 紅葉は強く息を吐き出した。
「早く……そっちから謝ってきなさいよね」
 夜人の部屋を睨みつけながら寝台を下りる。しかし足は壁に向かわない。部屋の扉へ向かい、伽羅がしたように扉に手をかける。恐る恐る力を入れてみると、思いかけず簡単に開いた。
 心臓が早鐘を打ち始める。静かに開いた細い隙間から廊下に顔を出す。そこは静まり返っていた。
 なぜ、鍵が掛かっていないのだろうか。
 当然の疑問だが答えは出ない。同時に“逃げる”という言葉が脳裏を過ぎる。
 以前の紅葉なら、扉が開くと知った瞬間にも喜んで逃げ出しただろう。しかし今は、無謀な挑戦ができるほど子どもではない。このまま逃げれば失敗するのは確実だ。しがらみをすべて捨てて逃げるのは、まだ少し先になる。
「少しは警戒されなくなったってこと?」
 いったい何を根拠に、と嘲ったがこれは好機だと受け入れることにした。
 自分が死なないということは、夜人が裏切っていない証明にならないだろうか。組織に入らないむねは聞き出されたが、蓮夜が何も知らなかったように、夜人は誰にも伝えていないのかもしれない。
 紅葉の体調管理は俺の役目だ、と言い切った夜人を思い出した。
「まさか、ねぇ?」
 隠しごとをされたのが気に食わなかっただけだろうか、とようやくそこに考えが至るが、疲労は大きい。固い寝台に倒れこむ。
 実際の状況は何も変わっていないのに、今では目の前に道が開けたような気がしていた。心が躍るような感覚に包まれた紅葉は疲労のまま瞼を閉じる。
 夜はまだ長い。
 こんなに高揚したまま眠れるだろうかと思った紅葉だったが、実際には瞳を閉じて開けるともう朝だった。

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