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第四章

 【二】

 無邪気な子どもたちの歓声。
 走り回り、転んで泣き出す者。自分たちの遊ぶ場所を確保する者。そして話かけようとしながらも躊躇っている者たち。
 いつもなら、泣き出した子どもたちの世話をするのは年上の子どもたち。それは紅葉と麻奈に託された役目だ。さらに、皆を集めて遊ばせる中心人物としての役割も任されていた。
 しかし麻奈は最近外に出てこない。それに伴い紅葉まで意気消沈して役目を放棄していれば、自然にその役目を引き継ぐ子どもが出来るものだ。子どもたちは柔軟性に富んでいる。
 ――麻奈より少し年下の女の子だった。建物の近くに座る紅葉を気にしているように窺い、視線がさまよう。しかし紅葉と視線が絡むとすかさず逸らされる。
 紅葉はそんな彼女の様子を眺めながら眉を寄せ、けれど話しかけることはしなかった。どこか麻痺している思考を感じながら空を渡る雲を眺め続ける。伽羅の言葉を脳裏に甦らせてため息をつく。謝れと言われても、肝心の麻奈がいないのでは話にならない。
 箱庭は高い塀で囲まれている。外との接点は巨大な組織の建物と教会のみ。
 麻奈が住まう養護施設は教会を通った箱庭の外に建てられていた。そこには少し広い敷地が広がっており、養護施設の他にも小さな学校や診療所があるという。そこを囲むように再び高い塀が建てられており、本当の外へ行くために設けられている門は一つのみ。いつだったか、麻奈から聞いた。
 麻奈がいる場所へ行くには、牧師の管轄である教会を通らなければいけない。そのことが紅葉の心を重くしていた。伽羅の言葉は気になるものの、明日でもいいよねと後回しにしてしまう。さすがに明日になれば、麻奈も出てくるかもしれない。
 紅葉はそんな自分が情けなくて瞼を閉ざし、横になった。芝生が頬を突き刺して痛い。午後の陽射しは強く眩しくて、青臭い芝生に顔を埋めるようにする。
 昨夜は伽羅のお陰か悪夢を見ずに済んだのだが、いつもは悪夢のせいで確実な睡眠不足に陥っている。瞼を閉ざした途端、紅葉の意識は急速に眠りに落ちていく。深く昏い闇があっと言う間に脳裏を占めて紅葉の意識を飲み込んだ。
 ――数分が過ぎようとした時だろうか。紅葉は、眠りに落ちた時と同じように、意識を急速に浮上させた。紅葉を包んでいた陽射しが途切れ、違和感を感じた。
「……誰?」
 紅葉の上には小さな子どもの影が落ちていた。
 腕をついて体を起こした紅葉に、緊張した面持ちの女の子が近づいた。
「紅葉お姉ちゃん」
「うん?」
 相手が子どもだと悟って、急速に目覚めた紅葉の意識は再びまどろみ始めた。必死に眠気と戦いながら紅葉は彼女を見つめる。麻奈の代わりに子どもたちをまとめていた女の子だ。先ほどまで紅葉を窺っていた彼女だが、とうとう決心したらしい。張り詰めた緊張が小さな体から溢れている。
 女の子は耳まで真っ赤にしながら少し視線を漂わせ、「あのね」と下を向いてしまった。紅葉は微笑ましく思いながら黙って待つ。
 女の子は泣きそうな顔を上げると紅葉を見た。
「麻奈お姉ちゃんの所に行ってあげて。明日、お別れするから」
 紅葉の意識が覚醒し、双眸が大きく見開かれた。
「お別れ?」
 女の子は頷いた。
「明日、新しいお父さんが迎えに来るの。だから……いつも紅葉お姉ちゃんと遊んでるから、教えてあげようと思って」
 紅葉は立ち上がった。再び俯いた女の子の頭に手を置いて「ありがとう」と告げる。それだけで女の子は全身から力を抜き、無邪気な笑みを見せて「じゃあね」と手を振った。子どもたちの中に戻っていく彼女の足取りは軽い。
 その後姿を見送って、紅葉は視線を囲む壁に向けた。
 伝えられた情報が確かなら、麻奈には二度と逢えなくなる。伽羅はそれを知っていて麻奈に謝れと言ったのだろうか、と紅葉は唇を噛み締めた。
 気合を入れるように硬く瞼を閉ざした。唇を引き結んだまましっかりと教会を見据え、丘を下りる。その足取りは乱暴だ。牧師を通り抜けて麻奈に謝ることが出来たら、夜人にだって普通の顔で会えそうな気がした。
 紅葉は子どもたちの邪魔にならぬよう大きく迂回して教会に近づいた。頭上に輝く十字架を見上げ、その背景に佇む大鐘楼を睨む。年月を感じさせる古びた鐘には淀んだ雲が映り込んでいた。
 普段は鳴らない大きな鐘。それが鳴るのは組織が仕事を成功させたとき。組織に関わる何かが大きく変動した時の仕事のみに絞られるが、それは大抵誰かが死んだことを意味している。澄んだ鐘の音が鳴り響き、誰の心をも打ち砕き、組織の者達は大きな聖堂に集まり瞑想する。死者の冥福と、組織を称える賛美歌を唱える。
 ――信仰心など欠片も持ち合わせていない。十字架は偶像崇拝でもなく、単なる墓場の目印だ。
 麻奈に里親が現われたなら送り出さなければならない。組織にいるより、その方が彼女のためだ。そして明日、麻奈の安全が約束されたら真剣に逃げることを考えよう。夜人に話し、子どもたちには手を出さぬよう手配して貰おう。都合のいい考えだと自嘲が湧くが、それでもいい。単なる自己満足に過ぎなくても、夜人の言葉があればどこまでも騙されていられる。夜人を信じている。
 ――これまで冗談半分で嫁に貰うと宣言していた夜人が、真剣に告白したのは初めてだった。だから、逃げるのだ。夜人が消えぬ鬼火を抱くように、紅葉の中にもそれはある。紅葉はずっと帰りたかった。
 紅葉は教会の前に辿り着くと少しだけため息をつき、十字架から扉へと視線を移し、見据えた。心の中で唱えた。
 ――神様。もしも貴方が万能の神であるなら私の願いを聞いて下さい。夜人に家族を与えて下さい。夜人が少しでも飢えないようにして下さい。どうか、夜人を一人にしないで。彼が泣かないように見守っていて下さい。
 唇を引き結んだままの紅葉の目尻に涙が滲んだ。瞳が歪んで頭が熱くなった。
 身勝手な祈りだと罪悪感が湧き上がる。それでも、何の解決にもならない祈りだとしても、誰かのために何かが出来るというのは少し嬉しかった。
 紅葉は指先で涙を拭うと深呼吸した。
「さて。待ってなさいよ。エセ牧師」
 紅葉は教会の扉に手を掛けた。

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