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第四章

 【三】

 扉を開いて真っ先に目に映るのは、ステンドグラスを抜けた陽光。床に不思議な色をばら撒いて揺れている。
 そして長い通路。祈りを捧げるために備えられた幾多の長椅子。最奥には小さな壇が設けられており、壇上には燭台が一つ置かれている。蝋燭≪ろうそく≫が三本立てられる燭台だ。
 現在、三本の蝋燭にはすべて火が灯されていた。陽光の中に佇んでいる。
 丸くて大きなステンドグラスは天井の壁をくり抜いて造られていた。落ちてきそうなほど大きいものだ。そしてそのステンドグラスに少し重なるようにして、十字架にはりつけられた人物の像がある。昔の偉人だと聞かされた紅葉だが、そのときは理解できなかった。今でも理解できない。自分からはりつけを望んだと聞いて、不愉快に思ったものだ。初めてその像を見たときは泣きたいほどに恐ろしかった。
 お前はここから逃げられない。私のように、虚ろな目をして生きていかなければならないのだよ。
 名も知らぬ昔の偉人が、頭上からそう告げているようで戦慄した。
 紅葉は教会内に設けられたその十字架を見据える。
 今度こそ私は逃げてみせる。白亜の協力がなくても、絶対に逃げる。私はまだ誰にもはりつけられていないもの。自分からはりつけられるなんて馬鹿みたい。貴方の自己犠牲は単なる自己満足よ。誰も幸せになんてならないもの。
 紅葉は高まる緊張を覚えながら教会内を見渡した。柱の影を探っても、吹き抜け廊下の二階を仰いでも、牧師の姿がない。けれど安心はできない。神出鬼没の牧師は気配を殺すのだって慣れたものだ。
 紅葉は辺りを窺いながら壇に登った。教会の外へ繋がる扉が、その向こう側にある。
「これはこれは。ごきげんよう、紅葉」
 紅葉の背中が震え上がった。
「信ずるものを持たない貴方がここへ来るとは珍しい。気になることでもありましたか」
 嘲りも露な声だった。
 振り返ると、青黒い礼服に身を包む牧師がいた。帽子を目深く被ったまま紅葉に近づいてくる。彼の腕には一冊の本が抱えられていた。表紙に刻まれている難しい文字は、紅葉には読めない。
 穏やかな笑みを浮かべて迫る、冷酷な背徳の使途。
 紅葉は思わず扉から離れた。牧師が満足そうに頷く。
「それでいい。ご存知の通り、そこから先は、貴方には無縁の世界ですよ」
 ――嘘つき。無縁の世界なのはこっちだ。あの扉から向こう側が、私の本当の世界。
 紅葉は思わずカッとして反論しようとした。けれど思いとどまって衝動を宥める。
「麻奈が、明日出て行くって聞いたわ。だから会いに行くの。通して」
 一瞬でも怯えてしまったことが悔しい。紅葉は恐怖心を押し隠して、もう一度扉に近寄った。牧師の言葉を無視して扉に手をかけた瞬間、紅葉の手に鋭い痛みが走った。
「痛っ」
 反射的に手を引いた。手の甲には一筋の赤い線が走っている。
 牧師を振り返ったが、彼は先ほどの位置から動いていなかった。しかし紅葉を見下す笑みを浮かべている。彼の仕業だ。口先だけの笑みに紅葉の背筋が凍りつく。
「必要ない世界ですよ。戻りなさい」
 人々に教えを説くための教本を胸に抱えて冷酷な笑みを浮かべる。
 紅葉は反射的に従ってしまいそうな自分を押さえ込んだ。ここで負けるわけにはいかない。麻奈と話せる時間は今日しかない。
 紅葉は牧師を睨みつけ、もう一度扉に手をかけた。
 刹那に走った痛み。一度目に負った傷と同じ場所を正確に狙って深く抉られた。
 痛みなど無視して開けてしまえば良かった。けれど紅葉は一度引いて、もう一度踏み出す勇気を挫かれた。牧師の武器は、細長くしなる、目に見えない鞭のようなもの。それは紅葉の首を捉えることも可能だ。
 ――冒険しようと吹き込み、瞳を輝かせた子どもたちと共に教会の外へ出ようとしたことがあった。子どもたちが一緒ならば逃げる隙があるかもしれないと考えた。けれど、結果は失敗。紅葉の脱走に関わった子どもたちは理由も知らないまま殺された。紅葉を捕らえようとした牧師が誤って一人の子どもを殺してしまったためだ。目撃した子どもたちを口封じのためとして殺した。
 泣き叫ぶ子どもたちを前にした牧師の瞳は愉悦に歪み、血飛沫のなかで、紅葉にだけ分かる微かな笑みを浮かばせた。その笑みを目撃した瞬間、紅葉は戦慄した。子どもは誤って殺されたのではない。紅葉に対する見せしめと、牧師の欲を満たすためだけに殺されたのだ。牧師の武器がどれほど正確に、そして意志通りに動くかを思い知らされた。
 どれほど泣き叫んで謝ろうとも、その声が牧師の心に届くことはない。少し困ったような顔をしてみせながらも心は裏腹で、牧師はためらいなく武器を振るう。
 紅葉は疲れ果てて血溜まりのなかに座り込み、最後の子どもが動かなくなるまでその場にいた。牧師の姿を瞳に灼きつけた。
「麻奈に会いたいの! 脱走なんてしないわ。私が組織に入るっていうこと、聞いてないの? いまさらそんな危ない橋、渡らないわよ!」
 痛みに涙を浮かべて紅葉は叫んだ。痛む手を包むように握り締める。
 しかし牧師は薄い笑みを浮かべるだけだった。
「ここから貴方を出していいという許可は下りていないのでね。貴方の意志など関係ない。組織に入ろうがどうしようが、それは基準にならないのですよ」
 まるで幼子に危険を諭すような、柔らかな声音だった。
「さぁお戻りなさい。夜人のお気に入りにこれ以上の傷は必要ありません」
 紅葉は目の前が真っ赤に染まった気がした。衝動が怒りだったのか悲しみだったのか、判別つかないまま身を翻した。扉に伸ばす手にためらいはない。ドアノブに触れる寸前で背中に痛みが走る。紅葉は痛みを堪えてドアノブに触れる。
 ――麻奈に会うんだ。
 ドアノブを回す。金属音と共に、空気が切裂かれる音が背後から迫ってくるのを聞いていた。
 あともう少しなのに。
 紅葉が悔しさに唇を噛み締めたときだ。
「紅葉?」
 その場にそぐわない人物の声が低く響いた。
 ――ドアノブは完全にひねられていて、あとは紅葉が軽く力を入れるだけで開く。牧師の武器は今度こそ殺そうと迫っていたはずなのに、紅葉はまだ生きている。
 けれど紅葉は疑問に思うよりも、扉を開けるよりも先に、響いた声の主を見たくて振り返っていた。
 視線の先には、白亜を隣に従えた夜人の姿があった。

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