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第四章

 【四】

 何日かぶりに見る夜人の姿。彼は驚いた表情で紅葉を見つめている。
「紅葉?」
 耳慣れた声に、紅葉は衝動的に涙が浮かんだ。深い安堵が灯る。
 紅葉は悟られないように視線を逸した。
 なぜ白亜と共にいるのか、とても気になった。けれど聞くなど出来ない。夜人を奪られても構わないんだ、と以前言っていた麻奈の言葉が脳裏をよぎる。
 胸に抱きこんだ手の甲が酷く痛んだ。気付けば背中も痛い。先ほどまで緊張で抑え込まれていた痛覚が甦る。紅葉は顔をしかめて抉られた手を強く握り締める。手の甲からは、さほど大量ではない血が一筋流れていた。
 まるで金縛りにあったかのように足を止めていた夜人が、乱暴に紅葉に近づいた。その足取りに紅葉は肩を揺らせ、慌てて逃げようとしたが夜人の方が早かった。彼は近づいた勢いのまま紅葉の手を取り上げた。
「痛っ、いたいたいたいたい……って言ってんのよ、離せ!」
 夜人の力は容赦ない。あまりの痛みに紅葉は涙を零し、それでも必死で耐えようとしたが遂には爆発した。これ以上の痛みには耐えられそうになくて振り払おうとしたが、夜人の力は緩まなかった。
 夜人は紅葉の手を取ったまま、目の前で紅葉を一回転させる。
 紅葉にしてみれば「こんな時に遊ぶな」という心境だが、夜人は紅葉の背中の傷を見るためにした行動だ。普段の行動が行動なだけに、紅葉には理解されない。
「紅葉を連れて行くぞ」
 背中の具合を見て取った夜人は牧師に顔を向けた。
 彼のそんな言葉に紅葉は双眸を瞠る。攻撃準備は整っていたが、拳を宥めて夜人を見上げる。
 意外に思ったのは牧師も同じなのか、彼も紅葉と同じく夜人を凝視した。
 夜人は視線を逸らすことなく険しい表情で牧師を見ている。滅多に見ることのない真剣な瞳だ。紅葉はそんな夜人の横顔に目を奪われて痛みをすべて忘れた。
「許可は下りていません」
「俺が下ろす。こいつは俺の女になると言った。拒絶など」
 夜人の声は笑いを含んでいた。
 聞き捨てならない言葉に紅葉はムッとしたが、口を開く前に引き寄せられた。腰を屈めた夜人に口付けられる。疑問に思う暇もない。頭が真っ白になる。数日前に口付けられたときと同じような深さで侵入を許す。息苦しさに喘ぐと更に絡みとられ、手首をつかまれた紅葉では逃げることも叶わない。
「んん……っ!」
 痛みと夜人の言葉と現状に、極度の混乱に陥った紅葉は硬く瞳を瞑った。
 訳が分からないまま白亜に助けを求めようとする。縋れるものなら何でもいい。そう思って白亜に視線を向けたが、白亜は紅葉から視線を外して俯いていた。長い髪に覆われて表情を窺うことは出来ない。
 紅葉の足に力が入らなくなると、夜人は器用にも紅葉を抱えとめてようやく唇を外した。熱い吐息を洩らして苦しげに上下する紅葉の喉を舌でなぞった。
「ほら。俺にだけは拒絶を示さない。組織にもじきに慣れる」
 紅葉は怒りに唇を震わせた。気付いた夜人は更に口封じを仕掛けてくる。
 結局は紅葉に抗う術などないのだ。
 執拗に何度も繰り返されたキスもようやく終わる。それでも夜人の腕に抱えられていた紅葉は、牧師には決して見えぬよう、聞こえぬように計算された角度でキスの合間に囁きを聞いた。
「ここは黙って大人しくしていろ」
 その意味が紅葉の脳裏に辿り着く前に、唇を舐められた紅葉の中で「忍耐」の二文字が粉々に砕かれた。
 夜人にはいつもの笑みが覗いていた。
 ――視界の端で白亜が口許に手を当てて紅葉たちに背中を向けるのが見えた。
 紅葉は潤んだ目を瞑って思い切り怒鳴りつけた。
「誰が大人しくしてるか馬鹿夜人ーーーっ!」
 喉の奥に詰まっていた声は、怒りの勢いと共に吐き出した。力の抜けた体にもう一度喝を入れて、紅葉は夜人の顔面に頭突きをした。
「痛ぇえっ」
「この石頭っ。私のが痛いわよ!」
「お前のは自業自得だろうがよ」
「あんたの方こそ自業自得でしょうがっ。夜人さえあんなことしなきゃ私はねぇっ!」
 喧嘩勃発。
 しかしダメージに夜人の腕が緩むことはない。紅葉は拘束されたままだ。
「ええい、離せ馬鹿っ。痛いって言ってるじゃないのよっ」
「誰が離すか、黙って大人しくしてれば麻奈に会わせてやるって言ってるんだよ、少しは人の話を聞けっ」
「え?」
 思いがけない言葉に紅葉は目を丸くした。
 訝しく見上げてみると、夜人の顔は歪んで舌打ちでもしたそうにしている。
 紅葉が、どういうことかと問いただそうとしたときだ。背中を向けていた白亜から大きな笑い声が上がった。
 突然の大笑いに驚き、振り返れば白亜は腹を抱えていた。必死で笑いを噛み殺そうとしていたが堪え切れなかったらしい。白亜はその場にしゃがみ込んで、更に大きく笑い声を上げている。
 そんな様に紅葉は呆気に取られた。
 白亜を一瞥した夜人は対して気にもしないようで、紅葉を掴んだまま牧師に向き直った。その瞳には、否を唱えることなど許さないという光が宿っていた。
 視線を受けた牧師は黙ったまま頭を下げた。いつもと同じ笑みを見せたが、その向こう側に窺えたのは虚無。
「主に栄光を」
 牧師の口から零れたのは賛美歌の一節。
 紅葉は眉を寄せて、礼を取る背信者を見つめた。
 夜人は黙ったまま見下ろす。笑い止んだ白亜が歩き出し、扉に手をかけた。重たい金属の音が響いて扉が開いていく。
 牧師はもう頭を上げない。
 紅葉を抱きかかえながら外へ連れ出す夜人を、黙ったまま送り出した。


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 聖堂を抜けた先には初めて見る景色が広がっていた。
 完全に組織の外へ出られた訳ではないが、感じた解放感は素直に心を弾ませる。紅葉の顔は無意識に綻んでいく。
 道は二分しており、片方は更に別の聖堂へと続いているようだった。もう一つの道先を眺めれば、石門がある。紅葉はドキリと心臓を高鳴らせた。
 ――組織の中と外を繋ぐ、紅葉にとっては唯一とも言える外との接点。渇望していたもの。それを潜り抜けられれば組織から出られる。
「塀沿いに歩けば施設がある」
 頭上から降った声で我に返った紅葉は、振り仰いだ先に夜人を見つけて小さく息を呑んだ。夜人に抱えられたままだったことをすっかり忘れており、夜人の顔がかなり近い。
 紅葉は意識して夜人の腕を振り払うと、床に飛び降りて歩き出した。
 石門ではなく、麻奈がいる養護施設へとだ。
「おい紅葉っ」
「何よ。私さっきのこと忘れてないからね。助けて貰ったのは感謝するけど、部屋に戻ったら覚悟してなさいよ」
 足を止めず、肩越しに振り返って告げた。
 一瞬で夜人の顔が呆けたようになる。間接的ではあるが仲直りの言葉だ。それが意外だったのだろう。紅葉は笑って手を振る。
 夜人はこれから仕事に行くのだろう。そのことは紅葉の胸を刺したが、下手に口を挟んでまた喧嘩になるのが嫌だった。
 夜人の隣では白亜も微笑んでいる。
 紅葉は彼女にも笑って手を振った。痛みは増すばかりだが、この場で誰とも喧嘩を続けていたくない。最後のときまで、もう直ぐなのだ。
 紅葉は振り切るようにして、教えられた施設に走り出した。

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