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第四章

 【五】

 何十年前に建てられたのだろうと思う、老朽化した建物だった。組織の雰囲気にはそぐわない脆いプレハブ。補強もされていない。まさかここではないだろうと思っていた紅葉だが、建物の入口に佇んでいた女に肯定されて絶句した。
 どうやら女は組織が用意した養護施設の管理人らしい。きつい顔立ちの中に浮かぶ漆黒の双眸が紅葉を監視するように見つめていた。牧師が連絡したのかもしれない。女は紅葉の来訪を知っていたようだ。紅葉の問いを肯定した後は口を挟ませずに、ついて来るよう示した。
 三階建てのプレハブ施設。
 階段を上がるだけで床の薄さに不安を覚える。このような所を子どもたちが駆け回ったら足場が崩れるのではないかとすら思える。
 紅葉は顔をしかめながら黙って管理人の後に続いた。
「紅葉!」
 麻奈とは直ぐに会えた。
 大広間に通され、管理人からここで待つように告げられて少し。所在なく佇んでいると向かいの扉が不意に開き、そこから小さな塊が飛び出して来たのだ。
 麻奈に飛びつかれた紅葉は勢いそのまま後頭部を壁に強打した。
「いったーいな、麻奈! 何よ。元気じゃないのよ」
 痛みに顔をしかめつつ、それでも何だか可笑しさが込み上げてきて笑っていた。喧嘩していたはずだったのに、麻奈はまるで忘れてしまったかのようだ。
 紅葉が唇を尖らせると、抱きついたままで麻奈は顔を上げた。小さな瞳が潤んでいる。
「明日、新しい人の所に行くんだって聞いた」
「嫌っ。行きたくない!」
 麻奈の頭を撫でながら訊ねると、麻奈は瞳を更に潤ませて叫んだ。力いっぱい抱きつかれた紅葉は微かに顔をしかめる。牧師に負わされた背中の傷が微かに痛む。
 麻奈に気付かれぬよう、傷つけぬよう、注意を払いながら麻奈を引き剥がした。
「行きたくないって言ったって、仕方ないじゃない」
「私はここがいい。紅葉と離れるなんて嫌!」
 紅葉の唇に笑みが宿った。
 非常に嬉しい言葉で、紅葉はそれを胸中で噛み締める。
 そうして静かに首を振った。
「平気よ、麻奈。近いうちに遊びに行くよ」
 今回の里親を断り、このまま麻奈が残ることになれば、麻奈は組織に加えられるだろう。そんなことにはさせたくない。けれど麻奈が納得しないまま里親に任せても、彼女なら自力でここへ戻ってきてしまいそうである。
 今更ながら、もしかして組織は麻奈を納得させる都合のいい材料として自分をここまで誘導したのではないかという思いが湧きあがった。
 しかしどちらでもいい。今回のことは紅葉が望んだことだ。
 一度外に出た麻奈が戻ったとき、世界の違いに彼女は何を思うのだろうか。それを思うと恐ろしい。
「直ぐには無理かもしれないけど、絶対行くよ」
 紅葉は言い含めるように告げた。
 嘘だ。
 例え逃げ出せたとしても、麻奈の所には行けない。組織の追っ手は当然麻奈にまで及ぶだろうし、組織の網を潜って麻奈の所まで辿り着ける自信はない。
 その場限りの都合のいい嘘。
 真剣に麻奈と視線を交錯させる。そのことに痛みを覚えない訳ではないが、嘘を紡ぎ続ける。
 沈黙が流れ、麻奈は不意に顔を歪めて再び紅葉に抱きついた。顔を紅葉の腹に埋めて縋りつく。
 紅葉はその背中を抱き締めて座り込んだ。
「両親が出来るんだよ。もしかしたら弟か妹も出来るかもしれない。麻奈には家族が出来るんだ」
 泣き濡れた麻奈の顔を覗き込む。
 言い含めるように告げながら、紅葉もその言葉を胸中で噛み締める。自分も絶対にここから出て、両親の元へ帰るのだと。
 麻奈は逃げなくてもそれが叶う。羨ましい。里親の所から逃げて欲しくない。
 麻奈は泣き濡れた瞳を揺らがせて紅葉から視線を逸らした。紅葉の言葉は確実に麻奈を迷わせる。
「……どうせまた捨てられるもん」
「わざわざここまで出向いて麻奈を選んだんだよ? 捨てるなんてもったいないよ」
 麻奈の瞳が微かに笑う。
「新しいお母さんと一緒に料理が出来るかもしれないじゃない」
 麻奈は料理好だ。しかし組織にいる限り満足に料理など出来ない。夜人が許可したときだけに限られており、麻奈にとってはそれが不満だった。だからその言葉にはかなり心を動かされたようだ。しばらく真剣に黙り込んだ。
 ――主要都市からかなり外れたこのような養護施設に子どもを求める者が、真っ当な場所で生きる大人だとは思えない。けれど、それでも望む。麻奈がここを出て行くように。
 麻奈はやがて涙を拭って紅葉を見た。
「本当に、絶対、来てくれる?」
 紅葉は笑顔を見せた。
「うん。絶対」
 頷くと麻奈は嬉しげに笑ったが、ふと表情を翳らせて困ったように首を傾げた。
「でも、左京の所に行きたいって言っても、私たちは絶対に連れて行って貰えなかったんだよ。どうやって来るの?」
 紅葉は瞳を丸くして瞬いた。
 知らない所で子どもたちはそんなことを頼んでいたのか。
 紅葉の脳裏に、左京と仲の良い子どもたちの姿が浮かび上がる。彼らが組織の不興を買うような事態にはならなくて良かった、と胸を撫で下ろしながら麻奈に意識を戻した。
「いざとなれば夜人を囮にしてここから出るから」
 麻奈は吹き出した。一瞬にして想像できたらしい。
「駄目よ。夜人も一緒に来てくれないと」
 楽しそうに笑って告げる麻奈に笑い返す紅葉だが、その裏で胸が痛む。一緒になど、それこそ実現不可能だ。
「それでね、私の所に来るまでチャンとくっついてないと」
 紅葉は思わず殴った。
「痛ーい。何するのよ紅葉」
「何で麻奈はそうやってくっつけようとするのよ。私にそんな気はないって言ってるでしょう」
 紅葉が頬を膨らませて怒ると、麻奈も同じように膨れた。
「いいよ、紅葉の頑固者。ならここを出て行く前に、夜人に会ってちゃんと言っておくから」
「な、何を?」
「少しくらい強引に迫っても紅葉なら」
「ぎゃー、やめて、マジで!」
 麻奈に飛びかかって懇願するが、麻奈は笑いながら躱して部屋から出て行こうとする。
「だって今日で最後だもん。私がいないと、紅葉って夜人と何の進展もないように思えて心配なんだもん」
「そんな心配しなくていいから!」
 出て行こうとする麻奈の腕をつかんで引き止め、紅葉は力いっぱい首を振る。ここで麻奈を止めなければ二度と部屋に戻れない。
「分かった、分かったから。ちゃんと夜人も連れて行くから、それは言わなくてもいい!」
 苦し紛れに精一杯頷くと麻奈は足を止めた。けれどその表情は不審に満ちている。
「来るまでにチャンとくっついてる?」
 あり得ない、と反論しかけた紅葉はグッと堪えて頷いた。
「く、くっついてる」
 それでも麻奈は訝るように紅葉を見る。
「本当かなー」
「本当だって!」
 凄まじい勢いで頷く紅葉に、麻奈はついに堪えきれなくなったように笑い出した。子ども特有の、楽しげで軽い笑い声が部屋に響く。
「じゃあ約束ね!」
 先ほどまでの暗さが嘘のように、麻奈は元気良く指切りを求めた。紅葉は複雑な想いで小さな小指を見つめる。麻奈が元気になるのは嬉しいが、そのために『夜人と紅葉の恋人宣言』が必要だとは。
 ためらいつつ、紅葉も小指を差し出した。
「ふふふふー、楽しみだなぁ」
「楽しまなくていいから」
 元気な麻奈に脱力して呟いた紅葉は、不意にその体を強張らせた。
 背後で床を踏む音。誰かが背後に立っている。
 紅葉は素早く麻奈を後ろ手に庇って振り返った。部屋の扉近くに、先ほどまで確かにいなかった女がいて、目を剥いた。入口からこの部屋まで、紅葉を案内してきた女性だ。
 女は麻奈と紅葉を見比べ、静かに部屋へと入ってきた。
「ああ、ここの管理人さんよ、紅葉。ビックリした。何事かと思ったじゃない」
 麻奈は大きな安堵の息をついて胸に手を当て、撫で下ろした。強張っていた表情も和らげる。
 けれど紅葉は寛げなかった。
 麻奈との会話をどこから聞かれていたのか。聞かれて不味い部分はなかったか、必死で記憶を探る。冷や汗を浮かべ、嫌な汗が伝い落ちるのを感じた。
 何とか気持ちを落ち着かせようとする。すべては麻奈を励ます為の戯言だと思われるような物ばかりだった、と納得させて細く息を吐き出した。
 女はスッと紅葉を見据えた。
「そろそろ蓮夜が呼びに来る時間です。お戻りなさい」
「えー。もう帰っちゃうの?」
 女の声は静かだが圧力に満ちている。紅葉は黙っているだけで息苦しさを感じた。酸素が足りない。麻奈はわがままを零したが、女に視線を向けられると直ぐに黙った。麻奈にも彼女は苦手のようだ。
 紅葉は腕に絡んでいた麻奈の手を静かに外した。
「じゃあね。麻奈」
「あ、うん……ねぇっ、絶対だよ、紅葉!」
 部屋を出て行こうとする紅葉に、麻奈は念押しした。紅葉は振り返り、特に肯定するでもなく麻奈に微笑んで部屋を出た。
 女の後に続き、部屋を出てしばらくしてからため息をついた。
 養護施設を出れば涼しい風が頬を撫でていく。紅葉はしばらくその場で立ち止まり、頭上を仰いで深呼吸する。女は先へと進んでいたが、ふと気付くと少し遠くで立ち止まっていた。姿勢良く伸びた影が紅葉を振り返って佇んでいる。自分を待っているのだ、と紅葉は理解するなり足早に歩き出した。肉眼では分からないくらい遠くになった女の表情だが、鋭い視線に貫かれたような気がした。
 女は紅葉が追いつくまで微動だにせず佇んでいた。
 紅葉は冷や汗を流しながら軽く頭を下げ、動かない女に合わせて歩調を緩める。
 行かないのかと訊ねようとした紅葉は、微かに女の顎が「先に行け」と言うようにしゃくられるのを見て顎を引いた。無言で先に歩き出す。直ぐ後から、女がついてくるようで芝生を踏む音が聞こえてきた。
 ――見張りだ。この道は直接「外」へ繋がるから、妙な行動を起こさないように見張られているのだ。
 紅葉は瞬時に悟った。
 視線だけで後ろを振り返ると、漆黒の洋服に身を包んだ女は無表情で紅葉の後に続いていた。もしここで妙な行動を起こしたら直ぐに処分されてしまうだろう。そのようなつもりで出てきた訳ではないが、そんなに念入りに見張りをつけられると意地でも逃げ出したくなってしまう。
 紅葉は暴走しそうになる自分をシッカリと戒めて教会に戻った。
 今ここで逃げ出しても、確実に女に殺される。一人歩きをしている組織の者がどれほどの戦闘力を備えているか、紅葉は直感として悟っていた。
 今はこのまま戻り、時機を見て見張りのない時に逃げ出した方が成功率は高い。それがいつになるかは分からなくても、生きている限り希望は続くのだから、今焦ってことを起こすことはない。
 紅葉は教会の扉に手をかけた。軽く開いただけで漏れてくるパイプオルガンが紅葉の耳を打つ。早く入っておいでというように紅葉の体を包み込む。
 女は中まで入ってくるつもりはないようで、紅葉から少し離れた場所から見つめていた。その視線を断ち切るように紅葉は中へ足を踏み入れる。
 女がいなくても、ここには最適の監視者がいる。
 パイプオルガンの音は途切れなく続いていた。退廃的な音を奏で続けて、紅葉を飲み込むように響き渡る。紅葉は唇を引き結んで音楽に負けないようにする。飲み込まれかけた旋律に身を震わせた。
 ――どこからか、必ず見ている。
 牧師の姿はなくてもそう思った時、不意に、朗々とした低い声が響いてきた。

 聖なるかな
 聖なるかな
 栄光溢れる我らが父よ

 紅葉は唇を引き結んだまま顔を上げた。
 聞こえて来たのは賛美歌だ。けれど指しているのは宗教的なものではない。組織が称える父は、ただ一人、夜人を引き取り育てている養父。組織の頂点に立つすべての父。
 紅葉は奥歯を強く噛み締めて、足早に聖堂を通り抜けようとした。
 礼拝のために並べられた長椅子を横目に、金に縁取られた扉に縋りつく。

 彼らのためにレクイエムを奏で賜え
 我らに恒久の平穏を

 紅葉は勢い良く扉を開けて外に飛び出した。
 牧師が奏で続ける言葉を強制的に断ち切った。

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