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第四章

 【六】

 重たい音を響かせて、部屋を仕切る壁のレンガが一つ落ちた。
 紅葉は嬉しく思いながらも渋面を作って振り返った。今までとは気持ちが違う。数日振りに聞く音が懐かしい。
 夜人が二つ目のレンガを落とそうとしているのを見ながら近寄った。足音を殺して気配を消す。長年で染み付いた得意技だ。
 紅葉は壁の前に仁王立ちになって、唇だけで笑った。
 壁がすべて壊される前に、紅葉は先に自分からレンガを蹴り飛ばして壊した。きっと向こう側でレンガの直撃を受けただろう夜人の悲鳴が聞こえた。
「てっめー紅葉! 俺に何の恨みがある!」
 悲鳴は一瞬で止み、紅葉が心配する前に夜人の怒鳴り声があがる。そんな声も久しぶりで懐かしく、紅葉は胸を熱くしながら夜人を待った。
 移動のためにいつもあけられているくらいの大きさまでレンガが壊される。その手にはもうためらいがなく、穴は急速に大きくなった。そして夜人が紅葉の部屋に踏み込んでくる。
「昼間はよくも人のこと物扱いしてくれたわね!」
 笑いながら紅葉は夜人の腹を殴った。手の甲で、少しだけ力を込めて。
「恨みありまくりだってのよ」
「痛ぇって」
 それほど痛くもないはずなのに、夜人は大げさに顔をしかめて紅葉の手を取った。
「ああでもしなきゃ麻奈の所に行けなかっただろうが。感謝しろよ感謝」
「誰が。してたまるか。他に方法は幾らでもあったでしょう。夜人が馬鹿で思いつかなかっただけだ」
「酷ぇ。それが恩人に向ける言葉か?」
「そんなこと言って。役得、とか思ってるくせに」
 紅葉の言葉は的を射たようだ。それまでポンポンと交わされていた会話が不自然に途切れた。
「やっぱりか、この馬鹿!」
 紅葉は笑みを消して怒鳴りつけた。方法があったとしても、夜人はその方法を取らなかったに違いない。
「くたばれ!」
 足を上げて回し蹴りするように、紅葉は踵を夜人の腹に埋めた。
 夜人は体を折って咳き込む。
 組織の訓練場で訓練を重ねるより、夜人を相手に格闘していた方が、よっぽど身につくような気になりながら、紅葉は息を荒げる。実際、今までにかなりの格闘術を習得している。並の男相手になら負ける気はしない。
「うわ、ちょっと待て!」
「誰が待つか!」
 間断なく繰り出される紅葉の攻撃を躱しながら夜人が叫ぶ。
 紅葉は聞く耳持たずに遠慮なく攻撃を仕掛けた。ここ数日の憂さ晴らしである。
 ――ゲシリ、と夜人の顔面に紅葉の足裏がヒットした。裸足であるからダメージは小さい。
 夜人は蹴られた勢いそのまま寝台に倒れたが、その途中、蹴り上げられた紅葉の足をつかんでいた。
「ぎゃーーっ?」
 足を取られた紅葉はバランスを崩し、残った軸足で回転するように夜人へ倒れ込んで悲鳴を上げた。自分で回転は止められない。夜人の脇腹に、紅葉も顔面を打ちつけた。
「い……っ、何するのよ、この馬鹿!」
「俺のせいか? 元はと言えばなぁ」
「夜人がこの部屋に来ないから調子が狂ったのよそれから麻奈に会わせてくれてありがとう!」
 紅葉は勢いこんで一息で告げた。
 呆気に取られる夜人の視線の先で、紅葉は真っ赤になりながら唇を噛み締めた。涙目になりながら夜人を睨みつけたが、その視線は憎しみではない。
 夜人が本当に呆けてそのまま固まっているので、恥ずかしさで睨んでいた紅葉はだんだんに笑いが込み上げてきた。吹き出すのを必死で堪えて顔を背け、なるべく無表情を装ったが、肩が震える。
「紅葉」
「って、ドサクサに紛れて何してるのよ!」
 いつの間にか紅葉は腰を掴まれて体を反転させられていた。肩を引き寄せられて寝台に押し付けられる。紅葉は真っ赤になって暴れたが、夜人は容易く抵抗を封じ込めた。
「ちょっと! 私にその気はないって言ってるじゃないの!」
 今まで手加減されているとは感じていたが、これほど呆気なく決着がつくほど力の差があるとは思わなかった。夜人は牧師よりも強いのだろうか、と焦る意識とは別の所で疑問が湧いた。
 下りてきた夜人の顔を両手で押さえつけたが、その力は簡単に崩された。首筋に口付けが落とされる。服越しに熱い体温が伝わってきて涙が滲む。焦りばかりが募っていく。
 紅葉は自分の行動を思い返してみたが、何がその気にさせたのか分からなかった。
 数日前、誘導尋問をされた時のことが浮かぶ。それだけで心が震えて悲しくて、泣き出しそうになった紅葉は夜人の服をつかんで呟いた。
「お母さん」
 その一瞬、夜人が怯えたように震えた。
 固く目を瞑っていた紅葉は、体温が離れていくことに気付いて恐る恐る目を開けた。夢から覚めたかのような、少し呆然とした夜人の顔が目に映った。離れた場所から紅葉を見下ろしている。
「あ……」
 低く掠れた声で呟いた夜人の声は、そこで途切れた。途切れざるを得なくなった。なぜなら紅葉に勢い良く寝台から蹴り落とされたから。
「痛っ」
「この馬鹿夜人!」
 夜人の拘束からようやく逃れられた紅葉は、頬を引き攣らせながら寝台に立ち上がった。手首に視線を落とすと、数日前と同じように赤く跡がついている。またしばらくは消えないのだろうと忌々しく思う。
 夜人を睨みつけた。
「私はねぇ、さっさとこの組織から逃げ出して帰りたいのよ! 夜人だって知ってる癖に、そういうことするな!」
 ビシリと指を突きつけると夜人は憮然として押し黙った。床に胡坐をかいて不貞腐れたようにそっぽを向く。親に怒られた子どものような表情をして寝台に頭を乗せた。
 紅葉は暗くなってきた部屋に明かりを灯そうと寝台から降りた。扉近くの棚に置かれている燭台に火を灯すと、薄暗かった部屋には橙色の明かりが満ちた。
 穏やかな安らぎの色。
 振り返った紅葉は、夜人が先ほどのまま不貞腐れているのを見て呆れた。腰に手を当てて「もう!」と強く吐き出したが、夜人は動かなかった。
「私、そろそろ寝るから。帰れば?」
「心が痛くて動けない」
「うっとうしいのよ!」
 寝台の上で顔だけを紅葉に向け、真剣な表情でうそぶいた夜人に怒鳴りつける。
 紅葉は拳を震わせたが、どうしても伝えなければいけないことを思い出して怒りを宥めた。気持ちを落ち着かせるように深く呼吸を繰り返す。そんな様も、夜人は決して視線を逸らさず見つめていた。
「――お願いがあるんだけど」
 外へは洩れぬように囁きかける紅葉に、真剣さを感じ取ったのか夜人が体を起こした。腕だけを寝台に残し、動作は少し億劫そうに。そんな態度に紅葉は内心だけで苦笑し、彼の瞳を見つめた。
「子どもたちのこと、お願いしたいんだけど」
 夜人が戸惑ったように紅葉を見つめた。その瞳を紅葉は見つめ返す。
 ――帰りたい。ずっと帰りたかった。そのことを考えると叫び出したい衝動に駆られるほど、母がいたあの場所に帰りたかった。もしここで夜人が引き止めても、願いを聞き入れられなくても、子どもたちが殺されることになっても、もう考えないと決めた。
 都合のいい願いということは分かっているが、夜人にしか頼めない。
 しばらく紅葉を見つめていた夜人だが、不意に視線を逸らした。
「俺が、なんでそこまで」
 紅葉は笑う。
「やっぱり?」
 痛んだ胸を笑顔で覆い隠しながら頷いた。
「うん、仕方ないよね」
 視線を落として聞き分けよく頷いた。
 沈黙が落ちる。
「いつ、出て行く?」
「近いうちに」
 紅葉は隠そうとは思わなかった。夜人は敵じゃない、と信じている。夜人の望みに応えることが出来ないから、信じる心だけは応えたい。
「分かった」
 しばらくの沈黙の後、夜人は静かに頷いた。決して何も洩らさないように注意して呼吸しているように思えた。
 立ち上がった夜人に腕を差し伸べられ、首を傾げたままその手を取ると引き寄せられた。静かな要求に紅葉は黙ったまま従う。額を夜人の胸につける。
「明日は……」
「え?」
 真剣な瞳で何を言うつもりだったのか、見上げた紅葉に夜人は口付けた。優しい口付けだ。言葉を濁らせて、唇を離した後も夜人は何かを葛藤するように紅葉を見下ろし続けた。けれど結局、夜人は何も言わずに口を閉ざした。
 紅葉は不思議に思ったものの追及はせず、再び夜人の胸に額をつけた。彼の背中に腕を回す。
「とりあえず、今までありがとうね」
「とりあえずかよ」
「そう。とりあえず」
 紅葉は笑い、少し名残惜しい気はしたが夜人の腕を解いて離れた。
「紅葉。俺は明日から少し遠出する。帰って来るまで待てるか?」
「遠出?」
 首を傾げた紅葉に、夜人はただ頷いた。
 紅葉は少しだけ考える素振りを見せたが、笑顔で頷く。これで最後だと思えばそれくらいは叶えたいと思った。
「あまり長くは待たないよ?」
「ああ」
 紅葉の笑顔を眩しそうに見やり、夜人も笑うと踵を返した。部屋へ戻る。
 その背中を見ながら、こんな光景もあと少しで見納めかと思った紅葉は、奇妙な寂しさを覚えて複雑だった。

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