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第四章

 【七】

 紅葉は丘に座ってぼんやりと景色を眺めていた。涼しい風が頬を撫でていくのを感じ、穏やかな気分である。けれど気持ちが穏やかなのはそれだけではないとも分かっている。夜人に許されたと思ったからだ。彼と話し、笑みを交わすだけで心が晴れていく。そんな彼の側を自分から離れるのだと、矛盾した想いに苛まれている。
 丘の下から、遊ぶ子どもたちの歓声が響いてきた。
 紅葉は黙ったままそちらに視線を移す。
 子どもたちの数は一定を保っていたが、その顔ぶれは数週間で激変していた。
 入ってくる者と出ていった者。
 赤ん坊が養護施設から出ることはないが、走り出せる者たちはここで遊ぶことを義務付けられる。組織の監視下に置かれることを強制される。たとえ遊びたくない、と養護施設に残っても、そこにも監視はあるのだ。
 麻奈はもう出て行っただろうか。
 紅葉は子どもたちから視線を外して空を見上げ、そう馳せた。
 麻奈であれば初めての家族に馴染もうと、精一杯やっているはずだ。そう奮闘する彼女の姿が目に浮かぶようだ。
 紅葉は目頭を熱くしながら微笑んだ。
 紅葉の脳裏に蘇る家族の面影はない。だから、家族を想像することは出来なかった。それでも――心に残る何かのために、家族の元へ帰りたいと願う気持ちは失われない。
 別れた時には小さかった弟もずいぶんと成長しているだろう。
 紅葉は意識して思いを家族に傾けた。
 もしかしたら夜人くらい逞しくなっているかもしれないと思い、笑みが深まる。男の成長は早いものだ。夜人も、出会った時は紅葉と同じ背丈だった。それが徐々に夜人の成長が早まり、今では紅葉は負けっぱなしだ。
 紅葉はそんなことを思い出しながら、ふと眉を寄せた。
 出会った時から夜人は生傷が絶えなかった。紅葉と共にいるよりも、組織の訓練場に篭っている方が多かった。久しぶりに会うたび夜人からは幼さが剥がれていき、紅葉は自分ひとりだけ残されるような気がして恐ろしかった。
 夜人も家族に認められるため、努力していたのだ。その努力の方向性が紅葉とは大きくかけはなれているが、気持ちは同じだ。そんな夜人に、一緒に行こう、とは言えない。
 紅葉は瞳を細めて荒涼とした空を眺める。丘に寝転がった。
 空を流れる分厚い雲が圧し掛かってくるように感じた。押し潰されそうな錯覚。存在の大きさがわずらわしくて、眩暈を耐えるように紅葉は瞼を閉じた。
 夜人が部屋を訪れた日は、なぜだか悪夢が薄れてしまう。夜毎見る夢は、つかみ所のない不安となって残されるけれど、白亜のことを思い出すに至った詳細な夢を見るまでには至らない。取り留めのない漠然とした不安。何がこんなに不安なのだろうと、自問しても答えは出ない。
「お主、毎日そうして何を待っておるのえ」
 独特な言葉が聞こえて、紅葉は微かに笑った。目を開けなくても分かる。伽羅だ。
「……今はとりあえず夜人待ち」
 答えると、ころころと鈴を転げるように笑われた。
 瞳を開けると空が落ちてきそうな錯覚に囚われた。強い眩暈に襲われて瞬きを繰り返す。そんな紅葉の視界に、芝生を踏む音と共に緑の女性が入ってきた。紅葉の髪を柔らかな生地が撫でる。
「伽羅こそ、一体何やってるの」
「そろそろじゃと、思うたでな」
 紅葉から視線を外して遠くを見やった彼女に、紅葉も体を起こしてその視線を辿った。視界に入るのは無邪気に駆け回る子どもたちだけ。紅葉ぐらいの年齢になった子どもたちは組織へと入れられた。適合しなかった者は――言わずもがなだ。
 紅葉の胸に昏い感情が過ぎった。
「何がそろそろなの?」
 衣擦れの音がして伽羅が隣に立つ。そのまま紅葉の隣に腰を落ち着け、紅葉は座る位置を調節する。
「妾の宝珠を取り戻す時が、近いということじゃ。歪みは激しく、この場に居続けるのも辛いであろうに」
 伽羅の言葉は紅葉に対しての言葉ではなかった。
 長い年月を感じさせる深い瞳。すべてを見透かすようなそれに、紅葉は魅入った。
「白亜を……あまり信用するでないぞ」
 唐突な話題に紅葉は双眸を瞠り、眉を寄せた。以前にも同じ言葉を聞いた。
「白亜と伽羅って、仲が悪いの?」
 思わず訊ねると伽羅は一瞬目を瞠り、次いで可笑しそうに笑い出した。口許を手で覆いながら、本当に可笑しそうに笑う。そんなに笑わなくてもいいじゃない、と紅葉は羞恥に頬を染めた。
「仲が悪いという訳ではないのぅ。あえて言えば……相性が悪いということかの?」
「同じ気がするんですけど」
「並べるべくもないことさね。白亜は妾と旧知の仲。妾は白亜が好きじゃからの」
   紅葉は更に眉を寄せた。好意を抱いているのなら、白亜を信用するなという言葉の意味が分からない。相性が悪いという言葉も良く分からない。
 伽羅は混乱する紅葉を面白そうに見つめ、含み笑いを残したまま遠くを見つめた。
「あやつも必死よ」
 言葉を問い返すことはできなかった。
 呟きと共に伽羅は立ち上がり、服の草を払って踵を返した。向かう先は訓練場のようだ。
「またの、紅葉。次に会えるのは、そう遠い時ではない」
 柔らかな微笑みですべてが完結してしまう。
 ここから脱走するからもう会えないよ、と告げることもできない。
 言わなくても伽羅はすべてを知っているような、叡智の瞳を備えているかに思えた。
 紅葉は唇を引き結んだまま伽羅を見送る。
「白亜を、信用するでないぞ」
 忠告だけは瞳が悲しそうで、もしかしたらその言葉は彼女の本心ではないのかもしれないと思い至る。それならなぜそのようなことを言うのだろうか。
 離れていく伽羅を見つめながら、紅葉は困惑した。
 白亜は脱走する時に手伝ってくれる仲間だ。信じている。彼女の言葉に嘘は見られず、本気で紅葉を逃がそうという意志が感じられる。伽羅は何をもって“信用するな”と告げるのだろうか。
 伽羅はヴェールのようなスカートを風に揺らめかせながら建物へ向かって行く。
 その姿を見ながら紅葉は更に考えた。
 組織の関係者である伽羅。白亜も、間違いなく組織の関係者。敵対している訳ではない二人が互いに警戒しているのは何なのだろうか。
 ――脱走の計画が、組織に漏れているのかもしれない。
 唐突に浮かんだ考えに、紅葉は背筋を凍らせた。
 組織の関係者である伽羅は、暗にそれを紅葉に伝えようとしているのかもしれない。おおっぴらに伝えてしまえば彼女の立場も危うくなるのだろう。
 紅葉はそこに考えが辿り着く。慌てて蓮夜の様子を思い出してみたが、これまでと変わった様子はない。もし変化があっても見抜けるのかといえば、紅葉には自信がないが、それでも大丈夫だと思い直す。
 早鐘を打ち始める心臓を感じながら、紅葉は膝を抱えた。腕に力を込めて小さくなる。
 もしかしたら白亜が踊らされているのかもしれない。組織に対する裏切りを働こうとする彼女が気付かれ、組織に見張られているのかもしれない。
 ――分からない。
 紅葉は頭痛を耐えるように眉間に皺を寄せて、膝に額をつけた。
 夜人がいれば聞き出せるかもしれないが、彼は既に組織にいない。遠出をすると言った通り、帰らない。いつ帰って来るかは分からない。明日か、明後日か、帰りはそれほど遠いものではないだろう。その遠出が組織の仕事に関わりあるものだと思えば心が重く沈んでいくが、夜人に怒りは覚えない。彼は養父に応えようと、歩いているだけだから。道は違っても向く先は紅葉と同じだ。
 底なしの暗い沼にはまってしまいそうで、紅葉は思い切りかぶりを振った。
 白亜はどうしただろう、とそちらに意識を傾ける。
 ここ数日、彼女の姿を見ていない。夜人と一緒にいる所を見たっきりである。もし彼女の裏切りが組織に伝われば、彼女も殺されるのだろう。
 紅葉は再び丘に寝転んだ。相も変わらず曇天が広がる空は鬱々とした心に拍車をかけるだけだと悟った。先ほどより少し風が冷たくなっていることに気付き、紅葉は眉を寄せる。ときおり強く、風が吹く。このまま走り出したいのを必死で抑えているように、強く。
 雨が降るだろうか。紅葉は体を起こして丘下を見た。
 子どもたちも気付いているようだ。曇天の空、それを覆うように黒い色が広がるのを不安げに見上げている。早々に教会へ逃げ込む子どもたちもいた。
 そうしている間にポツリと冷たい雫が紅葉の頬を濡らしていた。
 紅葉は慌てて立ち上がるが、子どもたちは歓声を上げてはしゃぎ出す。しかし年長者たちはそれを許さず、散り散りに走り出そうとする子どもたちを引き摺りながら教会へ去っていく。
 大丈夫――私がいなくても、きっと。
 徐々に勢いを増していく雨の中、すべての子どもたちが避難したのを確認してから、紅葉は建物へ引き返した。

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