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第四章

 【七】

 夜人が遠出をしてから二日目の夜だ。
 紅葉は燭台に火を入れながら、夜人との部屋を仕切る壁を見つめていた。
 いつになったら戻ってくるのだろう、とそればかり考える。白亜とも会えないこの状況は、精神的に堪えるものだと初めて知った。麻奈に助けられていた部分はずいぶんと大きかったのだ。
 夕飯を済ませていた紅葉は寝台に腰掛けて扉を見つめた。ここ数日、鍵は掛けられていないようだった。蓮夜にそれとなく訊ねようとした時もあったが、赤い瞳を向けられるとなけなしの勇気は即座に萎んでしまい、聞けずじまいだった。
 紅葉が手を伸ばせば、今も扉は簡単に開くだろう。
 射撃訓練は一度しかしていないため不安は残るが、それでも白亜が助けてくれれば外まで突破できるだろうという、妙な確信があった。彼女に任せていれば全てが上手くいくような気になって、一人で逃げる算段をつけていた頃より楽観していた。
 しかし、徐々に不安は募っていく。白亜と打ち合わせをしておきたいのに、肝心の白亜がどこにいるのか分からないのだ。
 脳裏に建物の見取り図を思い浮かべる。どのルートで逃げようかと思い悩むが、どれを取っても教会に辿り着くのは仕方ない。
 牧師が守る教会。
 道行く者の監視者として佇む牧師からは、血臭しか感じられない。
 紅葉は牧師の顔を思い浮かべただけで吐き気がした。それが最大の難関であり、逆にそれさえ抜ければ後はどうとでもなるような気がした。養護施設で待ち受けていた管理人という女性すら、恐れる気はしない。
 教会を抜ければ直ぐに、外へ出られる門があった。監視者たちに捕らえられる前に門まで辿り着ければ紅葉の勝ちだ。
 そして外には建物が密集している。廃れて、誰も使っていないような、コンクリートの建物だ。組織に連れてこられる時、詰め込まれた車の中からそんな風景を瞳に焼き付けた。必ず逃げてやるからと、幼心にも誓って道を刻み込んだのだ。無人の建物に逃げ込めれば動きやすくなるだろう。
 あともう少しで夢が叶う。
 紅葉は固い寝台に横になりながら、近づいてくる未来に笑みを零した。
 成功しても失敗しても、これが最後。
 瞼を閉じると、夜毎襲ってくる悪夢が浮かび上がってきた。あまりに同じ夢を見続けているせいで、最近では夢でなくても悪夢が脳裏に蘇る。心のどこかに刻み込まれているのだろう。
 白亜の腕を振り解き、銃撃戦に巻き込まれ、蓮夜に捕まって組織に来た、悪夢。
 意識も眠りに落ちかけた時、レンガが落ちる音が響いて跳ね起きた。
 慌てて壁を見ると、夜人がいつもしているように、レンガが一つ落ちている。
 ――夜人が帰って来た。
 紅葉は綻びかけた表情に気付いて、両手で挟むように、自分の顔を軽く叩いた。無表情を装って壁に近寄る。いつものように、伸びてくる手を踏みつけてやろうと思った。
 しかし。
 紅葉が壁に近寄る前に、レンガは勢い良く全て崩れた。
「何っ?」
 紅葉は舞い上がった埃に咳き込んで、煙の中で霞む穴を睨みつけた。
 咳き込みながら夜人を恨む。部屋に入ってきた影に不意打ちを食らわせようと構えた。
「白亜……?」
 今しも飛び出しかけていた紅葉は、浮かび上がった影に唖然と声を上げた。
 壁の向こう側で紅葉と同じように咳き込み、座り込んでいたのは、先ほどまで行方を心配していた白亜だった。
「え、って、何で」
 白亜がなぜ夜人の部屋から来るのか分からない。
 紅葉は、白亜の背後に夜人がいるのだろうかと顔を覗かせてみたが、広い部屋には誰の姿もない。訳が分からず、埃がおさまってきた部屋に立ち尽くした。
「白亜?」
 レンガの壁を崩したまま座り込んで、そのまま荒い息をつく白亜を見つめる。
 白亜の咳はおさまらない。紅葉がとっくに正常を取り戻しているのに、彼女の咳は酷くなる。どうやら埃のせいだけではないようだと気づき、紅葉は彼女に近寄った。
「白亜、大丈夫……?」
 駆け寄って肩を支えようとし、紅葉はその手を白亜につかまれた。
 力強い手だ。しっかりと、離すまいとしているのが分かる。しかしその手は、苦しくて縋りつくための手ではない。紅葉の鼓動が早くなる。
 白亜のそんな様子を見ていると紅葉まで苦しくなる、不思議な感覚を覚えた。
「紅、葉」
 苦しげに息をつく白亜は紅葉を見上げた。真摯な漆黒が紅葉を貫く。
 どこかで見たような瞳だなと、既視感に襲われながら次の言葉を待った。白亜が何を言おうとしているのか分からない。
「今すぐに、逃げないと」
「え?」
 白亜は荒い呼吸を何とかおさめると、紅葉の手首をつかみながら立ち上がった。
 紅葉を見た瞳は、刺すように鋭いものだった。憎しみにも似た感情を向けられている気がして、紅葉は足を竦ませる。
「逃げるって……今すぐに?」
「そうよ」
 強く言い切って、白亜は翳った瞳で部屋を見回した。そんな様子を見ながら紅葉は唖然としていた。不意に強い不安に襲われた。
 打ち合わせも準備もしていない。まさかこのまま逃げろというのではないだろうか。夜人に待っていろと言われた言葉も果たしていないのに。
「紅葉、夜人は」
 白亜は何を言いかけたのか、息を詰まらせて咳き込んだ。
 明らかに埃のせいではなかった。聞いている紅葉が心配になる、嫌な音の咳を繰り返して、白亜はその場にうずくまった。力尽きているようにも思えが、それでも咳は止まらない。それどころか段々酷くなっている。
「白亜っ?」
 紅葉は焦って叫んだ。
 白亜がなぜこのような状況に追い込まれているのか、さっぱり分からない。もしかしたら白亜は病気なのかもしれない、と青い顔で思った。だから自分の危険を顧みずに紅葉を逃がそうとしているのかもしれない、ともどかしい気持ちの中でそう思う。
「白亜……」
 病人にどう接していいのか分からず、紅葉は白亜の背中をさすってみた。
 嫌な咳だ。喉に絡むようなその音は、紅葉に涙を滲ませるには充分なものだった。
 どうしたら白亜が楽になれるのか、グルグルと脳裏でそればかりが渦を巻く。巻くだけ巻いて、さっぱり妙案が浮かばない。
 必死で思いを巡らせる紅葉は、ふと蓮夜を思い出した。
 組織の医者を呼んで貰おうと考えた。
 白亜が紅葉の部屋にいると知れるのは不都合かもしれないが、このままでは白亜は死んでしまうような気がした。たとえ脱走計画を延ばさなくてはいけなくなっても、白亜が欠けるよりはマシである。
「待ってて白亜、今蓮夜を呼んでくるから」
 紅葉は咳の間に言い聞かせるように、白亜の耳元で叫んで立ち上がった。
 幸い、扉に鍵はかかっていないのだ。蓮夜がどこにいるのかは分からないが、助けを求めれば誰かが気付くはずだ。組織の者である白亜の名を出せば、組織の者たちも無下には出来ないはずである。
「待っててね」
 走り出そうとした紅葉だが、他ならぬ白亜によって止められた。
 白亜は咳で苦しいだろうに、泣きながら紅葉の足をつかんで止めていた。必死で首を振っている。
「でも、白亜」
「大、丈夫だから……っ」
 悲鳴のような小さな声が、振り絞るようにして零された。
 白亜は紅葉の足をつかみながら瞼を閉じた。意識して呼吸を整えていると分かる仕草で、彼女の咳は徐々に消えていく。そんな彼女を、紅葉は驚きながら見つめた。
「もう、平気」
 とても平気には思えなかったけれど、白亜の双眸は真剣である。紅葉はただ頷いた。よろめきながら立ち上がった白亜が、紅葉の手を繋ぎ直した。
「さぁ……行きましょう」
「あの、でも私、夜人に」
「いいから!」
 軽く抵抗を試みると悲鳴のように白亜は叫んだ。
 紅葉は驚いて白亜を覗く。苦しげに歪んだ表情に、漆黒の双眸は潤んでいる。奥歯を噛み締めて泣き出しそうな顔で、紅葉に向き直る。
 どうしてそんな顔をされるのか、先ほどのような声を出して体は平気なのか、紅葉もまた顔を歪めた。
「黙ってついてきて、紅葉。もう時間が」
 白亜は再び声を詰まらせた。勢い良く夜人の部屋を振り返り、まるで誰かがいるかのように首を振った。紅葉は夜人の部屋を覗き込んでみたが、そこには誰の姿もない。
「お願い……紅葉」
 手首をつかんでいた白亜の手が離れた。見れば、白亜の顔は蒼白だ。今にも倒れそうなほどその姿は頼りない。
「逃げて」
 よろめいた白亜は一歩進んだ。
 その先は、扉。
「白亜?」
 まるで異常者のような姿に紅葉は怯えて一歩退き、恐れるように白亜に呼びかけた。けれど白亜は振り返らない。自分の言葉を告げるのが精一杯だとでも言うかのように、苦しげに胸を押さえて扉に向かう。ときおり零れる咳は、先ほどのように濁っていた。
 鍵が掛けられていない扉は容易く開かれる。そしてそのまま、白亜は紅葉を残して出て行ってしまった。
「……白亜?」
 紅葉は閉じられた扉に呼びかける。応えはない。そのことに底知れぬ恐怖を覚えて体を竦める。
「白亜っ?」
 唐突に、世界すべてに背中を向けられたような気になった。
 追いかけようと、紅葉が扉に手をかけた刹那。
 部屋に強風が吹き込んだ。
 紅葉の聴覚も視覚も奪い、息すら出来ぬ強風。燭台に灯された火は掻き消されて暗闇が部屋を包み込む。紅葉は腕を上げて顔を庇い、顔に打ち付ける髪が鬱陶しくてその場に小さくうずくまる。
 一体どこからこのような風が吹いているのだろう。
 寝台に掛けられていた薄っぺらな布団が天井に舞い上がる音を聞いた。机の上に転がっていたペン類も、音を立てて部屋を飛び交う気配を聞く。
 そして唐突に。
「逃げおおせたか」
 少し固い声音が響いて、風の唸り声は止んだ。
 同時に、燭台に火が戻って部屋から闇を追い出した。
 天井に巻き上げられていた物が重力のままに落下してくる。それに気付いた紅葉は身を守るため、更に小さくなって頭を抱え込んだ。
 けれど紅葉に何かがぶつかる気配はない。
 詰めていた息をソロソロと吐き出して部屋を見渡そうとした紅葉は、自分の側に誰かが立っていることに気がついた。
 薄いヴェールを床に広げ、風を孕んだように膨らむスカートをはいて、厳しい目で部屋を見渡す――伽羅。
 今まで紅葉に接してきた伽羅とは雰囲気が違うように感じられた。空気そのものが痛い緊張を孕んでいて、紅葉は見上げたまま動くことも出来ずにいた。
 不意に、伽羅の瞳が緩んだ。
 緊張をあっと言う間に霧散させて、うずくまる紅葉を穏やかに見下ろした。
「大事ないかえ?」
 伽羅の声音は、今まで紅葉が聞いてきたものと全く同じだった。不思議な感じがして、紅葉は黙って見上げ続ける。
「驚かせてしもうたようじゃの」
 ころころと笑って差し出された手をつかむと、強さなど微塵も感じない優雅な動作で立たされる。けれどその手に込められた力はかなり強い。
 紅葉は部屋を見渡した。
 凄まじい惨状だ。シーツが大きく広がって脇に飛ばされており、小物が乱雑に床を支配している。幸いどれも壊れてはいないようだが、この惨状を片付けなければならないのかと、思うだけで疲れた気がした。
 風を巻き起こしたのは伽羅なのだろうか。毎回の唐突な出現も驚かされるが、先ほどの驚きに比べれば何でもないような気がした。伽羅は一体、何者なのだろうか。不思議が詰まっている。
「白亜を追ってるの?」
 訊ねた紅葉に、伽羅は「さよう」と言って頷いた。
「妾より奪い去られた物を、取り戻すために追っておる」
「それって、この前見せてくれたやつ……?」
 紅葉の脳裏に炎が浮かんだ。形を崩しながら時を刻み、命という炎を封じ込めた漆黒の宝石。揺らめきながらも伽羅の手の中で安定しているように見えた。
「さようじゃ。何としても、取り戻さねばなるまいな」
 柔らかく言い切る伽羅の瞳は強い。それでも、優しい。
 白亜を好きだと言った伽羅だが、その内心はどうなのだろうか、と紅葉は思った。宝石のことを語る伽羅は誰の目から見ても辛そうに思える。そんな宝石を奪われて、それでも白亜を好きだと言う言葉は揺るがないのだろうか。
 もしかしたら伽羅は、白亜が宝石を奪った罪人だから信用するなと言ったのだろうか。
 取りとめもない疑問は声に出されることもなく、グルグルと紅葉の胸で渦巻いた。
 そんな胸中を察したのか、それとも別の思惑があるのか、伽羅は微笑んだ。
「妾は、白亜が好きなのじゃ」
 伽羅は顔を上げた紅葉をしっかりと捉えた。
「あの者の悲しみは、妾の心をも重くする」
 伽羅は小首を傾げて軽く瞼を閉じ、吐息をついた。
「終焉すら待ち受けぬのよ」
 不思議に笑みを刻んだ赤い唇。
 伽羅は蠱惑な微笑みを残して扉の向こう側へと消える。
 紅葉は黙って立ち尽くした。


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 目覚めると酷い頭痛がしていた。
 紅葉は頭を押さえながら起き上がり、整頓された部屋を眺めた。
 昨夜遅くにようやく片付いた。壊された壁も元に戻し、散らかった小物も元の場所に収めた。その後で急激に疲労が押し寄せて、白亜たちを追いかけることは出来なかった。
 白亜と伽羅の関係を考えている内に眠ってしまったらしい。
 胸の奥に不安が渦巻いている。紅葉は唇を引き結んだ。覚えてはいないが、眠っている間にまた夢でも見ていたのだろう。
 紅葉は壁を見る。昨夜直したそちらは、まだ壊されていない。夜人はまだ帰ってこない。
 昨夜の白亜の言葉がずっと気になっていた。
 着替えながら昨日の続きを考え、頭を刺激する痛みに、固く目を瞑って耐えた。
 昨夜の風で怪我は負わなかったはずだが、知らない間に怪我をしていたのだろうかと眉を寄せる。それとも風邪を引いたのだろうかと首を傾げる。
 上着を着込み、それでも寒くてシーツを手繰り寄せた。寝台に腰掛けながら扉を見つめる。
 ――白亜は病気のようだった。それも、重症だ。あのように辛くなる咳をして、平気でいられる訳がない。
 紅葉は痛みを堪えるように視線を落とした。太腿の上で両手を握り締める。
 誰が死ぬのを見るのも嫌だった。
 伽羅は白亜の病気を知っているのだろうかと、ふと思う。そしてかぶりを振る。夜人が戻れば今日にでも脱走するつもりである。余計なことに心をわずらわせている余裕はない。
 そして決めていた。
 脱走する時は白亜も連れて行こう、と。
 頭痛が酷くなり、紅葉は何を考えるのも億劫になった。熱があるのかと額に触れたが、平熱にしか感じられない。それでも全身が重くて発熱しているような気がする。
 しばらく寝台に腰掛けたままぼんやりとしていた紅葉は、扉が開かれて顔を上げた。扉からは蓮夜が入ってくる。
 紅葉は首を傾げた。
 蓮夜の様子に違和感を覚えた。改めて見つめてみたが、蓮夜にはいつもの鉄面皮が張り付いていて、感情を読み解くことは不可能だった。紅葉の視線に気付いたのか蓮夜が顔を上げ、微かに嘲笑う。腹の立つ仕草であるが、そんな彼の様子も珍しいものだ。
 紅葉は蓮夜を観察し続ける。
 食事を棚に置いた蓮夜は、壁に背中をつけて瞳を閉ざした。それはいつものことだ。
「……夜人は、いつ帰って来るの」
 紅葉は無意識に聞いていた。
 白亜の言葉がずっと心に引っ掛かっていたからかもしれない。頭痛に悩まされながら、失言を取り消そうとは思わなかった。
 蓮夜は紅葉の言葉に瞼を開け、探るように紅葉を見る。威圧的に鋭い視線が紅葉を捉える。そんな彼から、どこか血臭が漂ってくるような気がして紅葉は眩暈を覚えた。
 どこか心ここにあらずのまま蓮夜の瞳を見つめ返し、ただ答えを待った。
 そして、蓮夜が口を開く。
「明日、処刑が決定した」
 メビウスの輪が巡りだす。

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