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第五章

 【一】

 紅葉の体を包んでいたシーツが寝台に落ちた。直ぐに冷気が体を包んだが、それを気にする余裕が紅葉にはない。
 紅葉と蓮夜と。漆黒と深紅の視線が交錯した。
「処刑?」
 紅葉は、自分の声が遠くから響いてくるように感じた。
 頭痛が強さを増した気がして眉を寄せる。蓮夜が何を言っているのか分からない。痛みが彼の言葉を錯覚させたに違いない。
「誰が?」
 何の話だ、と一笑されると思った。
 けれど蓮夜は何も答えない。探るように紅葉を見つめ続ける。そんな彼の視線に紅葉は不安を湧かせて喉を鳴らした。口の中が乾いていくように思えて、蓮夜を見続ける勇気が嗄れていくように感じた。
 彼が言った“処刑”は聞き間違いではないのだと悟る。
 ――私だろうか。
 ドクンと心臓が大きく音を立てた。そして、昨夜の白亜が脳裏に蘇る。彼女があれほどまでに焦って逃げろと告げていたのは、このことを知ったからではないのか。夜人が帰らないこの時に始末しておこうと、組織は思ったのかもしれない。
 客観的に見て、紅葉は静かだった。けれどその内面では様々に感情と理性が交錯し、混乱している。実感も湧かずに、ただ推測と仮定が浮かんでは消える。
 充分な沈黙を待ってから蓮夜が告げた。
「夜人の処刑が明日、決行される」
「何で!」
 紅葉は怒鳴って寝台から跳ね下りた。
「夜人は次のトップなんでしょう!? それなのにっ?」
 蓮夜の言葉を頭から否定することは出来なかった。そのような小細工が必要とも思えない。夜人が殺されるという言葉は真実なのだろう。
 紅葉は絶句して蓮夜に詰め寄る。
 ――待てるかと言った、夜人の言葉が蘇る。彼は少し遠出をすると言っただけで、決して死ぬために出かけたのではない。彼が組織から離れている間に何があったというのだろう。
 酷く動揺する紅葉を冷めた赤い瞳に映しながら、蓮夜は続けた。
「夜人は組織を裏切った」
「裏切った……?」
 予想外の言葉に紅葉は双眸を瞠らせた。なぜだか白亜の顔が浮かび上がった。
「紅葉の家族を捜しだし、紅葉を家族のもとへ返すために」
 その言葉は紅葉の胸を強く衝つものだった。
 蓮夜から一歩離れて、紅葉は口を開く。けれど言葉は零れず空気だけが抜ける。
 ――夜人は最初から私を助けてくれていた。今までもずっと、変わらなかった。裏切っているのはいつも私の方だ。
「お前も今日からは再び組織の管理下に置かれる。夜人の庇護下からようやく出てこれる訳だ。その期間も短いかもしれないがな」
 蓮夜の瞳は無感動に紅葉を映し続けた。言下に、紅葉の死は決められているとの意味を含ませて、蓮夜は微かに笑った。その笑みは、餓えた獣がようやく獲物を見つけ、決して逃げられないよう策を凝らして待ちわびる笑みに思えた。
 紅葉は蓮夜から視線を外し、動揺も露に視線をさまよわせる。
「私の家族……生きてる、の?」
 蓮夜と視線を合わせることもなく、無意味に部屋を見渡しながら紅葉は震えた。
 酷く寒気がして頭痛が一層酷くなった。
「どうやらそのようだ。あの街中で生き残りがいるとは思えなかったが」
 脳裏に夢の中での光景が蘇った。白亜の手を振り解いて逃げた道は、決して走りやすい道ではなかった。人々の怨嗟の声が渦巻いていた。
 紅葉は視線を夜人の部屋に向けながら涙を零した。
 ――両親が生きていて、娘の帰りを願っている。
 その言葉だけで何かが救われるような気がした。
「裏切り者には死を」
 圧し掛かるような声に振り返ると、蓮夜は笑っていた。
 既視感に襲われた紅葉は微かに双眸を瞠らせてそれに見入る。夢の中の光景と同じ、蓮夜の笑み。
 耳の奥がざわめく。
 蓮夜の深紅が紅葉を捉えて放さない。視線を逸らすことも出来ずに硬直していると、紅葉の視界の中で、蓮夜は扉を開けて去って行った。
 扉が閉められた後、施錠の音が聞こえた。
 錠が落とされる音を聞いて、紅葉の中でも何かが崩れた。呆然としたままそれを感じて寝台に腰を下ろす。
 ――裏切り者には死を。
 蓮夜の言葉が木霊する。
 家族を捜し当てるなど、いくら彼でも容易ではなかったはずだ。いつからそのような真似をしていたのだろう。夜人が紅葉を裏切るなど、ある訳がなかった。銃撃戦に巻き込まれて誘拐されて、今までずっと、家族に会いたいと思ってきた。帰りたいと願ってきた。その意志を尊重していたのも、夜人だ。
 紅葉は夜人の部屋へ続く壁を見た。

 処刑――二度と壊されることのない、障害となる壁。

 紅葉は立ち上がって壁に向かった。向かう内にも紅葉の表情は歪み、声にならぬ唸り声を喉の奥で鳴らせた。
「どこへ行くつもりかえ?」
 今しも壁を壊そうとしていた紅葉は振り返った。
 振り返った先には伽羅がいた。
 寝台の横に立って、紅葉を見つめている。その瞳は少しだけ糾弾するような光を帯びていた。先ほど蓮夜が施錠したばかりだが、いつの間に現われたのか。そんなことも考えられない。
 神出鬼没とはいえ、あまりにもタイミングが良すぎた。
 紅葉は涙に濡れた瞳で微かに笑う。
 ――伽羅は私につけられた監視者か。
「夜人が、殺されるって」
「さようじゃ」
 簡単に肯定されて紅葉の喉が鳴った。
「私の家族を捜してたって」
「然りじゃ」
 伽羅の瞳は静かに紅葉を見つめていた。彼女が何を思っているのか、紅葉にはまるで分からない。
「夜人が、殺されるって!」
 叫んだ衝動のままに涙が宙に舞った。
 紅葉の慟哭を、伽羅は静かに受け止めて頷いた。
「お主はどうするつもりなのじゃ」
 静かな静かな声音だ。伽羅が激昂することなどあるのだろうか。
 紅葉は悔しくなって奥歯を噛み締めた。
「助けてよ、夜人を! 伽羅だったら助けられるんじゃないの? 夜人を死なせないで!」
 伽羅は静かに紅葉を見つめたまま告げる。
「人の生死を扱う権利は妾にはない」
 紅葉は見る間に顔を真っ赤にさせた。頭痛が極端に酷くなる。
 胸に詰まっていた悲鳴が、腹の底から突き上げる何かと共に、怒号となって放たれた。
「伽羅だって組織の一員のくせに!」
 紅葉の怒りにも伽羅は動じない。柔和な翡翠の眼差しで紅葉を見つめながら緩く首を傾げる。柔らかな髪が首を滑った。
「行かぬほうがいい。不吉な影が出ておるよ」
 伽羅の忠告も聞かず、紅葉は勢い良く壁を蹴り壊した。埃が舞い上がる。夜人の部屋へ這い進んで涙を拭う。
 初めて入る夜人の部屋。
 とても広いが、軍事的な物が散らかるだけで閑散としていた。酷く殺風景だ。
 伽羅が追いかけてくることはない。
 振り返っても、紅葉の背丈より低い穴から向こう側を窺うことは出来なかった。
 紅葉は高鳴る胸を押さえながら部屋を見渡した。目的の大きな机に進み寄って、ためらいなく引き出しを開ける。そこに鍵は掛けられていない。
 以前、レンガの隙間から一度だけ見たのだ。夜人が仕事を終えて戻ってきた時に、武器をこの引き出しに入れていた場面を。
 勢い良く開いた引き出しの奥から、黒光りする拳銃が滑ってきた。夜人の護身用なのかは分からないが、それはとても扱いやすそうに思える。
 拳銃はカコンと手前にぶつかり、冷たい装甲が紅葉を映した。紅葉は震えそうになる手を宥めながらそれをつかむ。持ち上げてみると意外に重量があった。訓練場で手にした物よりも頑丈に思える。
 紅葉は銃を握り締めて、重たい腕を脇に下ろした。息を整えながら夜人の部屋の扉を探した。
 紅葉の部屋に取り付けられている扉とは全く別の、剛健さより華美を求めた物。夜人がそのような物を望むとは思えなかったから、きっと元からあった物なのだろう。囚人用の粗末な扉ではなく、盾にも使えそうに思える。
 優雅に絡み合う蔦模様。鈍色を宿す青銅の扉を装飾するそれは、教会の十字架を支える人の手に見えた。
 紅葉は頭痛に眉を寄せながら扉に近づいた。重たい銃を握り締める。恐らく紅葉の部屋の扉は、伽羅が施錠を外しているはずだ。しかしそちらから出れば蓮夜に見つかる恐れがある。夜人の部屋から出た方が、まだ動きやすいかもしれない。
 ――大丈夫。これは夜人がいつも使っている銃だから、きっと私を護ってくれる。
 遠出をする夜人がなぜ銃を引き出しに入れっぱなしにしていたのか、そこには頭が回らないまま紅葉は思った。
 扉に触れると簡単に開いた。
 ――行こう。

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