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第五章

 【二】

 脱走している間でも心のどこかで安心していた。
 失敗しても大丈夫。夜人がいる。彼が助けてくれる。失敗しても、彼の元へ戻されるだけだから。それがどれほど夜人を危険に晒すことになるのか、考えもせずに。
 夜人の部屋から続く組織の廊下を進みながら、紅葉は苦く笑った。
 自分はどこまで行っても変われないのだと思った。
 誘拐された銃撃戦にしてもそうだ。白亜は母の元へ連れて行こうとしていたのに、紅葉は彼女の希望を裏切った。
 石造りの廊下は冷たくて、剥き出しの腕が壁に触れれば背筋が震えるほどだった。誰もいないということが、紅葉の心を更に緊張させる。拳銃を握り締めて意識を澄ませる。今、不意に声を掛けられたら紅葉は恐慌して引き金を引いてしまいそうだった。
 薄暗い石廊下は閉鎖的で、捕まったら最後、逃げられないと感じた。
 紅葉は脳裏に組織内の見取り図を思い浮かべる。壁に張り付くようにゆっくりと進んでいたが、そろそろだ、と呟いた。
 この場所は、数年前に紅葉が脱走した時、走った廊下だ。良く覚えている。
 この廊下を道なりに進んでいけば、そろそろ分岐点に着くはずだ。そこは十字路となっており、そのまま直進すれば組織の幹部たちが住まう居住区に辿り着く。更にそこを抜ければ、様々な用途に使われる部屋がある。
 居住区に至る前に捕らえられた紅葉は、一度居住区の向こう側に連れて行かれ、暗い部屋に閉じ込められた。深い暗闇が恐ろしく、死臭が染み付いているようで、紅葉はひたすら声を上げて泣いていた。それでも誰も助けてはくれなかった。今でもあの時の恐ろしさを思い出すと体が震えそうになる。紅葉を迎えに来てくれたのはやはり夜人だった。彼は仕事で組織を離れており、紅葉の状態を知らなかったのだと言う。遅くなったと告げる彼に、紅葉はしがみ付いて泣いた。暗い部屋の扉があいた瞬間、夜人が光を伴って現われた時は安堵した。
 ――夜人は絶対に死なせない。
 前方に十字路が見えた。
 紅葉は表情を明るくしたが、天井の蛍光灯が嫌な音を立て瞬間に飛びあがった。小さな音だったが過敏になっていたらしい。恐ろしい。自分を驚かせた音に視線を向けて、指が痛くなるほど握り締めた銃と共に胸を撫で下ろす。肩から力を抜いて前に視線を向け直す。
 奥へ進むごとに強まっていく、嫌な予感。
 空気を四方から圧迫されているように感じた。見えない何かにのめり込んでくようで、足が次第に重くなっていく。肩が震えるのを感じながら必死で辺りに警戒心を配り、十字路から慎重に顔を出して進もうとした。
 その刹那だ。
 紅葉は背後から伸びた手に勢い良く取り押さえられた。
「嫌っ、放して!」
 捕まる訳にはいかない。
 紅葉は振り解こうと必死にもがいた。
 恐慌したまま引き金に指がかかった。
 腹に響く発砲音が放たれた。
 逃れたい一心での出来事。
 発砲するつもりはなかった。
 立ち込めた硝煙の匂いに眩暈がし、紅葉は両手で構えた銃を下ろして壁に肩をつけ、激しく呼吸した。
「馬鹿なことを、紅葉……っ!」
 心底苛立った声が紅葉の耳を打った。
 顔を上げた紅葉は、滲んだ視界の中に白亜がいたことに驚いた。
 昨夜、逃げろと告げたっきり姿を見せなかった白亜。苦しげな様子は今も変わらず、蒼白な顔をしている。
 それでも紅葉は安心できる顔に心を落ち着かせた。周囲を見れば誰もいない。自分を取り押さえたのは白亜だったのかと、力が抜ける思いがした。
 紅葉の目の前で白亜は怒りを露にし、紅葉を睨みつけていた。昨日に引き続いて具合が悪そうだ。その瞳は潤んでいる。
「だ、って……っ」
 紅葉はしゃくりあげた。
 恐怖で引き攣っていた心が緩み、滲んでいただけだった視界がぼやけた。堪えようと思うのに制御できない。堰を切ったように涙が溢れてくる。しゃがみ込みそうになりながら、笑う膝に必死で力を込めた。
「だって、夜人が……っ!」
「知っていたわ、そんなことっ!!」
 悲鳴のように叫べば同じく返された。
 否、白亜の声に込められる憤りの方が強い。
「逃げなさいと言っているでしょうっ。それなのにどうして貴方は……っ!」
 白亜の怒りに悲しくなった。
 紅葉は嗚咽を洩らしながら、必死で首を振る。
「私は、夜人が死ぬのは、嫌っ」
 叫んだ刹那、紅葉の視界が勢い良く回った。
 白亜も壁も、形を留めぬほどの勢いで流れ去った。よろけた紅葉は石壁に肩を強打する。
 何が起きたのか分からなかった。
 遅れて頬に湧く痛みに、ようやく殴られたのだと知った。
 けれど、理由が分からなかった。
 視線で問いかけると、白亜は紅葉を叩いた手を包むようにもう片方の手で包み、胸元に引き寄せるようにして紅葉を睨みつけていた。
「どうして……邪魔するの?」
 白亜の口から零れたのは、紅葉の予想を大きく外れたもの。
 紅葉は意味が分からなくて白亜を見つめた。彼女の顔は白い。吐く息も怒りで荒く、紅葉と同じ漆黒の双眸からは涙が溢れている。
「夜人を助けに行くですって……? そんなこと、許さないわっ!」
 白亜は紅葉につかみかかろうとした。紅葉は訳が分からないまま必死で避ける。白亜の気迫は痛いほど本気だ。
 憎しみを宿す瞳が紅葉を映す。涙に濡れて、憎悪ばかりが育っていく。
「貴方になんて、夜人は助けられないっ。黙って私の言葉を聞きなさい紅葉っ!」
 思い通りにならない紅葉にぶつけられた苛立ち。
 紅葉は、ストンと心に何かが落ちた気がした。納得した、という物かもしれない。
 ――白亜は夜人が好きなのだ。
 だから夜人から引き剥がすために逃がそうともしてくれたし、紅葉が死なぬよう助けてもくれた。そして紅葉は白亜に嫌われているのだ。
 紅葉は悟って唇を引き結んだ。眦を険しくした。
「私は夜人を助けたいっ!」
 紅葉は、つかみかかろうとする白亜に拳銃を向けた。
 研ぎ澄まされた集中力は、全ての時間を紅葉に与えた。まるで時の支配者になったように、ひとつの無駄もなく照準を定めて引き金を引いた。
「きゃああっ?」
 先ほどと同じ発砲音が響き渡る。
 白亜には当たらなかった。
 発砲時の衝撃で狙いは大きく外れて天井に向けられていた。それはコンクリートを僅かに抉って細かな破片が雪のように舞い落とす。
 白亜はその場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「邪魔をしてるのは白亜の方だっ!」
 組織の居住区は目と鼻の先であるこの廊下。
 無駄弾ばかりか、異常を知らせる音まで響かせた。
 もはや一刻の猶予もない。
 紅葉は走り出した。
 白亜の声が追いかけるように響いたが、紅葉は振り返らなかった。誰が出てきても絶対に負けないという、強い確信があった。夜人を助けるまで、誰にも邪魔などさせない。ともすれば傲慢な意志は確かに紅葉を助け、導いてくれるような気がした。
 紅葉は非常に獰猛な感情が首をもたげたのを感じながら、ひたすら走り続けた。
 人の気配がないほうへ、ないほうへ。
 白亜は追いかけてこない。具合の悪さが彼女の体を苛んでいるのだろう。追いかけたくても追いかけられないでいるに違いない。
 紅葉は全力疾走して息を切らせた。
 振り払った瞬間の白亜は蒼白な顔をし、その裏に強烈な痛みを感じたかのような瞳をしていた。呆然と無表情であったが、紅葉はなぜか確信があった。そして、白亜のそんな痛みを想像した瞬間、涙腺が焼き切れたように溢れ出した。
 裏切られた、と思ったのは白亜も一緒だろう。
 夜人のためだけではなく、他の感情も確かに感じていたと思ったのに、なぜこんなことになってしまうのか。ひたすら悲しかった。
 ――強い子ね、紅葉。
 そう言って慰めて貰いたかった。母に。
 紅葉は腕で涙を拭って走り続けた。荒い呼吸を繰り返しながら角を曲がる。そのまま駆け抜けようとしたが、そこでとうとう捕まった。
「きゃあああっ?」
 横から伸びてきた大きな手に腰を掴まれる。容赦ない力で角に引きずり込まれる。
 紅葉は、白亜に突きつけたように銃を構えようとした。けれど凄まじい力が紅葉の手首をひねり上げる。紅葉は叫んで暴れたが構わない。引き摺られ、手首をひねられ、壁に容赦なく叩きつけられて胸が圧迫される。
 紅葉は意識が遠のいていくのが分かった。脳裏に夜人の顔が浮かび、悔しさに顔を歪める。
「先ほどの銃声はお前が?」
 静かで冷たい声が降り注いだ。
 紅葉は壁に背中をつけながらも、足に力が入らなくてズルズルと滑り落ちていく。
 幸いにも声が紅葉を引き戻した。
 咳き込みながら涙を乱暴に拭い、紅葉は見上げる。
 天井からの逆光と、霞む視界のせいで良くは見えないけれど。
 それでも誰なのかは雰囲気だけで感じ取れた。
「蓮夜……」
 暗い絶望が込み上げた。
 痩身は紅葉を覆いこむようにして立ちはだかり、壁に両手をついて紅葉を見下ろす。
 紅葉は「は」と乾いた笑いを零して視線を落とした。
 もう何も浮かんでこない。もう誰も助けられない。私の時間はここで終わるのだ。
「馬鹿なことをっ」
 力なく座り込んで諦めた紅葉に、蓮夜は舌打ちした。乱暴に紅葉を立ち上がらせた。
「嫌だっ、放して……人殺しっ!」
「来るんだ。今の銃声を聞いて、直ぐに人が来る!」
 紅葉は双眸を瞠って蓮夜を見上げた。
 蓮夜は紅葉の腕をつかんだまま走る。半ば引き摺られるように紅葉も走る。どこに連れて行こうというのか。蓮夜の意図が読めず、紅葉は混乱したまま彼の背中を見つめる。
 誰かが様子を見に来るから遠ざけようというのか。蓮夜は紅葉の敵ではなかったのか。
 様々な想いが脳裏を過ぎった。
 拳銃を取り上げられたいま、蓮夜につかみかかっても勝ち目はない。どこを走っているのか分からない。眩暈がするほどの疲労を感じて意識をもうろうとさせた頃、ようやく蓮夜が止まった。擦れるような金属音が響く。
 重たい錠が落ちる音がした後は静寂が満ちた。
 ようやく周囲を見渡すことができた紅葉は、そこが組織の訓練場であることを理解した。紅葉に背を向けたまま息を整えた蓮夜が振り返る。その顔を、紅葉は呆然としたまま見上げていた。
「一人で夜人を助けるつもりだろうが、お前だけでは組織から出ることも叶わない」
 紅葉は微かに双眸を瞠る。
 混乱は増すばかりだが、それでも段々と光が見えるような、そんな気がした。
 蓮夜の表情は固い。そして苦い。信頼できそうな優しさは欠片も感じられない。けれど紅葉は諦めなかった。今まで見てきた蓮夜の表情とは明らかに違うものを感じた。少なくとも無表情ではない。
「お前に協力しよう、紅葉」
 最も信じられぬ言葉だ。
 紅葉は声もなく蓮夜を見つめるしかできなかった。

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