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第五章

 【三】

 静寂のときはかなり長かった。
 訓練場の床に座り込んだ紅葉は顔を上げ、ただ言葉を胸で噛み締めていた。
 そんな紅葉を蓮夜はただ見下ろしている。表情は苦々しく、好意の欠片も感じられない。それでも紅葉はその言葉に縋りたかった。
「本気なの。蓮夜……」
 声を震わせて問いかける。まるで自分の声ではないかのように聞こえて笑いたくなる。しかし笑うことなどできない。ただうめくように、空気が喉に詰まっただけだ。
「本気で、夜人を……」
 蓮夜の表情はまったく動かなかった。不安を覚えた紅葉だが、意識してそれを振り払おうとした。彼の表情が動かないのは、それが組織内で都合がいいからだ。仕事をこなす上では必須だからだ。訓練したからこそ今の蓮夜がいる。しかし彼が人間である以上、感情を殺す訓練はしていても、そこには確かに感情があるはずだ。
 蓮夜は長い時間を夜人と過ごしてきた。紅葉と夜人の成り行きを監視してきた。そんな状況にいれば、彼とて情を湧かせることもあるのだろう。
 ――蓮夜は夜人を死なせたくないのだ。
 紅葉はそう納得した。
「……夜人を、助けてくれるの……?」
 恐る恐る問いかけた紅葉の声を、蓮夜はかぶりを振って否定した。
 紅葉は一瞬でも希望を持った自分を恥じるように落胆する。けれど続いた蓮夜の言葉に再び顔を上げた。
「俺が夜人を助けることはできない。だが、まだ組織に裏切りを重ねる前の紅葉なら、夜人を助けることができるかもしれない」
「組織に裏切りを重ねる前の私……?」
「お前が外に出たことを知っているのは俺だけだ。先に他の者に見つかっていれば、夜人を助ける望みはなかった」
 紅葉は瞠目した。彼の声に、わずかな安堵が含まれている気がした。そして『助ける』という言葉に期待する。紅葉は弾けるような勢いで蓮夜に詰め寄った。
「どうすればいいのっ?」
 つかみかかるようにすれば、蓮夜は少し後退して紅葉の手を振り解く。嫌そうに見下ろして「落ち着け」と手で示す。
 紅葉は焦っている自分に気付いて頷いた。頬を赤らめて胸を押さえる。冷静にならなければ夜人は助けられない。蓮夜から一歩離れて深呼吸し、逸る気持ちを抑えて呼吸を整える。
「どうすれば夜人を助けられるの?」
 蓮夜は紅葉を眺め、一度瞳を閉ざした。
「……紅葉が組織の一員になれば、夜人が殺される必要はなくなる」
 紅葉は唇を微かに開いた。
「もともとはお前が組織に入るのを拒んでいたからこうなったんだ。夜人が裏切ったのも、処刑されることになったのも、お前のせいだ。紅葉が組織に入るとなれば、夜人の裏切りは追及されないだろう。組織に入りさえすれば、外へ逃げ出そうなどと決して思わないだろうからな」
 組織が恐れているのは情報の流出だ。紅葉が両親の元へ戻り、組織の裏を世間に広めることだ。夜人の裏切りはその危険性を増長させる。ならば紅葉が組織に入れば、情報の流出は止められる。そのあとで夜人が紅葉と両親を引き合わせようと、彼の行動は酔狂でしかなくなる。
 この世界ではすでに組織の裏も表もないような気はするが、それが組織に入るための概要だと言われれば紅葉には納得するしかない。
「組織に、入る……?」
 紅葉はその言葉を呆然と繰り返した。
 蓮夜が言いたいことは理解した。確かに、紅葉が組織を拒んでいたからこそ起きた事件だとも言える。紅葉が折れて組織に入れば、すべてが丸くおさまる。
 ――ほんとうに?
 紅葉は頭の片隅から自問を聞いた。けれど、それしか方法がないように思えた。たった一人で並みいる組織のメンバーを突破して夜人を助けることは不可能だ。他の方法も思いつかない。蓮夜の提案に乗るのが適切なのだろう。
 紅葉はそう納得したが、頷けなかった。
「組織には俺から伝えておこう」
「ま、待って!」
 今にも蓮夜は去りかけ、紅葉は慌てて呼びかけた。
 蓮夜は不審な表情で振り返る。
「夜人を助けたくはないのか?」
「助けたいけど、でも……っ」
 紅葉は言葉を詰まらせる。
 組織に入るには、世間の常識で重罪を犯すことが絶対条件だ。特に紅葉は何度も組織を蹴り飛ばしてきているので、並大抵のことでは信用されないだろう。組織の一員として認められるには人殺しが求められる。一人ならばまだ良いほうだ。しかし大量虐殺を強いられる可能性もある。数の問題ではないが、紅葉は気持ちが沈んでいくのを止められない。
「他に方法があるとでも?」
 迷いを見抜かれた。蓮夜に問いかけられ、紅葉は何も言えない。沈黙したままだ。
 蓮夜が苛立ったようにため息を落とした。
「夜人を助けたいのではないのか」
 これは紅葉にしかできないことだ。
 紅葉が組織に入ることで夜人は安全を約束される。紅葉がその話を蹴れば、夜人は必ず殺されるだろう。
 紅葉は体を強張らせたまま顔を上げた。視線の先にいる蓮夜の瞳が冷たく紅葉を映している。
「夜人を見殺しにして自分だけ逃げるか。自分を殺して夜人を助けるのか。他にはないぞ」
 夜人を見殺しにした場合はお前も殺されるだけだが――と囁きを落とされ、紅葉は拳を握り締めた。
「……私は、夜人を……」
 紅葉は吐息のように呟いた。漆黒の瞳には、何の意味も持たない蓮夜の姿だけが映っている。
「助けたい……」
 組織に入ることを承諾するその言葉に蓮夜は微笑んだ。力強く頷いて紅葉に手を伸ばす。
 無感動のまま、近寄ってくる蓮夜を見つめた紅葉は泣きたい衝動に駆られて瞳を閉じた。
「では、組織にはそう伝えておこう。だが、お前が確実に入るまで、夜人と会わせるわけにはいかない。その辺りは理解できるな?」
 紅葉は無言で頷いた。
「大丈夫だ。紅葉が正式に組織に入れば、皆温かく迎えてくれる。お前は俺たちの同志になるんだ」
 重い言葉がゆっくりと投げ込まれ、心の奥底に沈んで辿り着いたようだった。
「夜人のためにな」
 その言葉だけが紅葉の救いに聞こえた。

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