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第五章

 【四】

 結局いつもの部屋に戻ってきた。誰にも咎められることはなく、蓮夜と共に廊下を歩いた。
 戻った先に伽羅はいなかった。白亜もいない。まるで蓮夜を避けているかのようだ。
 紅葉は落ち着かなくて視線をさまよわせた。
 扉の側には蓮夜がいる。椅子に座って何かの文庫本を広げている。唇の端には少しだけ、面白そうに笑みが刻まれている。何を話すでもなく、ただ静かに紅葉の側に存在していた。
 重たい雰囲気。
 夜人を助けることで同調したものの、今まで憎み続けてきた相手だ。そう簡単には気を許せない。ただ圧迫する雰囲気に紅葉の肩身は狭くなる。
「……ねぇ。夜人は今、どこにいるの」
 迎合するつもりはないが、沈黙が辛い。紅葉は眉を寄せながら話しかけた。
 蓮夜の顔が上がり、深紅の瞳が紅葉を捉える。本に注がれていた視線はしっかりと紅葉を射抜いた。その冷たさに紅葉は顎を引き、思わず視線を逸らしてしまう。冷気が背中を這い上がってくる気がした。
「夜人は今、組織の特別な部屋に拘束されている」
 話しかけておきながら引いた紅葉を嘲ったのだろうか。鼻を鳴らして蓮夜が答える。
「拘束って……ご飯とか、ちゃんと……」
「そんな心配はする必要ない。お前が組織下に加われば直ぐに解放される」
 会話が途切れるのが恐ろしくて紡いだ言葉は冷たく遮られた。
 紅葉は床を見ながら唇を噛む。
 直ぐに沈黙が落ちるが、何かを思い出したように蓮夜がそれを破った。微かな笑い声が紅葉の耳を打つ。
「夜人の拘束が解かれればお前は献上される。そっちの心配でもしてたらどうだ」
「献上……?」
「正式に組織下に加わるんだ。お前に対する夜人の執着は半端ではなかったし、夜人も当然、遠慮などしないだろうな」
 何を言われているのか唐突に理解した紅葉は紅潮した。
 そのような未来を想像しなかった訳ではない。けれど横たわる現実とはあまりにかけ離れていて、考えるだけ無駄だと思っていた。組織に入ることを了承した今であれば、想像が現実となる日は近いだろう。余計なことを考えられるほど余裕がある訳ではないが、紅葉は意識をそちらに引っ張られて憮然とした。
「どうだっていいでしょう、そんなこと!」
 紅葉は怒鳴りつけた。染まった顔を隠すように、寝台に横になる。背後で笑う気配がするが、その気配はいつまでも消えない。いつまで紅葉の部屋に居続けるのだろうか。
 紅葉は居心地の悪さを覚えると同時に、安堵していた。一人でいるよりは空気が軽い。沈黙は辛いけれど、人が側にいるということが紅葉の勇気になる。
 夜人を案ずる者が、一人でも多ければ。
 ――夜人を助けることがどういう意味なのか、紅葉はあえて考えないようにしながら吐息を洩らした。閉ざされた瞼裏に熱を感じる。胸の奥が引き絞られるように切なかった。

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 どこかで声がする。
 瞼を開ければ薄暗い中に座り込んでいた。
 紅葉は何も考えないまま周囲を見渡した。
 部屋で眠っていたのに、いつの間にか見知らぬ空間に投げ出されている。けれど焦る気持ちは浮かばない。純粋に疑問だけが浮かぶ。
 ――ここはどこだろう。
 麻痺したように、それだけが疑問として浮かぶ。他には何も考えない。
 紅葉は立ち上がった。
 薄暗い空間は仄かな燐光で満たされている。どうやら石畳に立っているらしい。裸足のまま歩くと足裏にざらついた感触を覚える。
 光の発生源に視線を向けると、石畳に描かれた何かの紋様が見えた。意味のある言葉なのだろうが、学のない紅葉に意味は分からない。どうやらその紋様が光を放っているらしい。
 薄ら寒い青にも、危険信号の赤にも、白く濁った色で明滅を繰り返す。
 紅葉は正常に頭を働かせないまま、吸い込まれるように光に近づいた。
 光の中に何かが見える。形を揺るがせ浮かばせる、朧な幻。つかもうと手を伸ばせば眩暈がする。
「ほう」
 どこかで聞いた女の声が響いた。
「ここまで来るかえ」
「伽羅……?」
 闇の中で笑う気配が感じられたが、彼女の姿は見えなかった。
 光の中の幻が微かに揺らめく。伽羅の笑い声に反応したように思えた。
 紅葉はふと、伽羅が以前見せた宝石の幻を思い出していた。この光の中に、あの宝石があるのだろうかと思った。
 探していると言った伽羅の寂しげな笑みを思い出す。ならば取り返してあげようと、光に手を伸ばす。しかし違和感が胸を掠める。明滅を繰り返す光に浮かんだのは宝石ではなかった。映像として脳裏に映る、何かの形。
 円陣に沿うようにして描かれる紋様。

 これは、道。
 紅葉が立つこの場所から伸びる、未来への影。
 明滅を繰り返す光と共に濃淡を変える、不確かな未来。

 脳裏に浮かぶ感覚的な映像に眩暈を起こし、紅葉はその場に座り込んだ。鋭い刃物で側頭部を切られたかのような感覚を覚えた。溢れた血が熱くて、切られた箇所が痛くて、のぼせてしまいそう。実際には紅葉に怪我などないが、紅葉はそんな痛みのなかで目を凝らした。光の奥に何かが見えそうな、その奥にすべてが詰まっているような、もどかしい感覚だ。腕を伸ばしても届かない。走ってもつかまえることは出来ないのだろう。
 足元から伸びる道を視線で追って、紅葉は顔をしかめた。
 途中でひねられそのまま走り、やがて背後に辿り着く影。平らな道。背後に辿り着いて、終結されている。
 終結、とは違うのかもしれない。

 どこまでも終わりのないねじれた輪。
 果てのないメビウスの道。
 この足元から伸びる確かな未来。

「そろそろ、あの宝玉を取り戻さねばならぬゆえ」
 暗闇から伽羅の声が響いた。彼女の姿は見えない。
 紅葉はただ周囲を見回して首を傾げた。
 ――どうして、こんなところにいるのだろう。
 それだけが不思議だった。
 そして再び伽羅の声が響き渡る。
 切なく、苦しそうな声音で、紅葉に言い聞かせるように。
「変わらぬ未来に何の意味があるというのじゃ」
 紅葉の意識が覚醒した。


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 いつの間にか眠っていたようだ。重たい頭を起こすと背後で声がした。
「ずいぶんと深く眠っていたな」
 その声に驚いて息をのむ。振り返ると蓮夜がいた。
 なぜ彼がここに、と思うと同時に思い出した。夜人を救う話をしていたのだ。
 蓮夜が昨夜と同じ椅子に腰掛けていた。動いた形跡はない。眠っていた紅葉はまだ騒いでいる心臓に焦りながら蓮夜を見つめた。彼はずっと傍にいたのだろうか。
「朝……?」
「ああ。食事も運んできている」
 蓮夜の言葉に嘘はない。棚には確かに食事が用意されていた。
 紅葉の世話は蓮夜に一任されているため、この食事も彼が運んできたのだろう。紅葉がその気配に気付かなかっただけだ。夜人が殺されるかもしれないのに緊張感がないな、と紅葉は苦く思いながら蓮夜を見つめた。
「蓮夜は食べたの?」
「とっくに済ませた」
 まるで答えるのが面倒だという口振りだ。蓮夜は視線で紅葉を促す。
 急かされるような気分を覚えながら紅葉は食事を寝台に運んだ。そこに腰掛けて食べ始める。夜人がいない以外は、まったくいつもと変わらない。
 蓮夜の手にはもう本はない。読了したのだろうか。蓮夜は椅子の上に片足で胡坐をかきながら、紅葉の様子をただ見ていた。
「食事が終わったら訓練場に行く。短銃を撃つ練習くらいはして貰おう」
 紅葉の心臓が高く飛び跳ねた。嫌な汗が背中を流れ落ちて喉を鳴らす。
「その後は外に出る。正式な仕事だ」
「今日っ?」
 蓮夜は片眉を上げて肯定した。紅葉を見る瞳には苛立ちが込められている。
「夜人のためには早い方がいいだろう」
「そりゃ、そうだけど……」
 途端に食欲を失った紅葉は食器を置いた。とても食べられない。
「一人だけだ。簡単だろう。早い方がいい。やってしまえば組織も寛容になるし、お前も気が楽だろう。夜人も解放される」
 蓮夜は何ということもない口調だが、紅葉は頷けない。気が楽になるとはとても思えなかった。それとも、組織に入ればそんな気持ちも変化するのだろうか。そうなったら今の紅葉はどこに行くのだろうか、と紅葉はぼんやりと思った。
 ――どうか。

 夜人のために。

 視線を上げて、紅葉は蓮夜を見た。

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