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第一章

 【一】

「よさぬか紅葉っ。白亜の二の舞になるぞ!」
「二の舞になんてならないわ!」
 鋭く止めようとした伽羅に、紅葉もまた鋭く返した。
 吹き荒れる暴風の中。互いの声は負けずに互いの耳を打つ。
 そして紅葉は部屋を眺めて笑う。
 そういうことだったのかと。
 そして――渡された、黒い宝石を握り締める。
「だって私は未来を知っている……夜人を助けられるっ」
「紅葉!」
 伸ばされた伽羅の手は届かない。
 宝石を握り締めた紅葉は、その手を胸に引き寄せて強く願った。
 夜人を助けたい。
 夜人が死んでしまう、こんな状況に陥らないために、夜人と私との関係を全て断ち切ってしまえばいい。
 そのために。
 紅葉は自分の周囲で荒れ狂う風を感じていた。
 伽羅が前に起こした暴風のようだと思う。
 これは『私』を刻のなかに誘うもの。
 掌中に封じた宝石が鳴動する。細かな刻の砂が巡り巡って零れ落ちる。
「紅葉!」
 伽羅の声が遠ざかる。
 紅葉は瞳を閉ざしたまま、伽羅が遠くなっていくことを感じた。次いで頭の奥が痺れるような感覚に陥った。立っているのに倒れる。足元から地面の感覚が失われる。体の奥から強い何かが湧き上がり、まるで体が弾けてしまいそうな錯覚を覚える。体が膨張している。
 恐怖に攫われそうになりながら、それでも紅葉は強く願い続ける。
 暗闇だった瞼裏が光に染まった。
 痺れていた頭の奥に痛みが宿った。鋭い刃で斬り付けられたかのようだ。
 それでも紅葉は抱いた宝石を強く握り締める。目を開けて自分の状態を確かめることなどしない。胎内に戻ろうかとするように両腕を曲げて宝石を胸に抱く。
 一瞬だけ走った胸の痛みすら気に留めず、ただただ祈り――響いた一つの発砲音に体を震わせた。
 硝煙の匂いがした。同時に濃い血臭が鼻を刺す。耳を叩くのは幾つもの銃音。
 たまらず目を開けた紅葉は強い立ち眩みを覚えた。両足に力を入れて踏みとどまる。視線を逸らすことなく目の前のものを見つめる。
 紅葉の瞳に映っていたのは、赤茶色の建物だった。薄汚れた建物が立ち並ぶ裏通りだ。紅葉は先ほどまでとは一変したその状況を、戸惑いもせずに受け入れる。
 見覚えのある町だ。
 そう思った直後、再び銃音が響き渡る。紅葉は表情を強張らせて素早く周囲を確認した。

『二の舞になるぞ』

 伽羅の言葉が脳裏を過ぎる。
 紅葉は強く否定した。
「二の舞になんてならないわ」
 ポツリと小さく呟いた。
 私はこれから、私を助けに行くの。夜人が殺されてしまわないように。
 紅葉は静かに決意を固めて歩き出した。
 路地裏に漂う匂いは硝煙だけではない。今では、何かが焼けるような、焦げた匂いも漂ってきていた。遠くの空が赤い光を湛えているのを見て、匂いが何であるのか理解する。街が燃えているのだ。
 遠くとは言っても火の勢いは強い。
 建物は石造りだが、目的の人物を見つけるまで、無事でいられる保証はない。
「はやく、ここから引き剥がさないと……」
 蓮夜に見つけられる前に。何度も見た悪夢を繰り返さないために。
 紅葉は夢の中で見ていた路地裏をひた走った。
 ここは、六歳のとき、蓮夜に攫われた街。紅葉が生まれ育った街。
 完成されたメビウスは静かな音をたてて巡り続ける。

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