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第一章

 【二】

 十三番通り。十二番通り。
 標識を読み上げた紅葉は視線を落とした。
 幼い頃は読めなかったことを思い出した。
 紅葉は顔を上げ、記憶を掘り起こすように二つの路地を見比べた。幼い私はどちらへ向かっただろう。
 印象的な部分はとてもよく覚えているが、詳細は忘れている。思い出してもあまり楽しくない記憶のため、意図的に忘れようとしていたのだ。いま思えば腹立たしい。このような状況に陥ると分かっていれば、決して忘れはしなかった。
 紅葉はどちらに行こうかと迷い、来た道を振り返った。
 硝煙の匂いが立ち込めてはいるものの、それほど荒らされていない街。
 ――私の家はどこだっただろう。
 紅葉は踏み出しかけた足を慌てて戻し、かぶりを振る。感傷に流されている場合ではない。早く幼い紅葉を連れ戻さなければいけない。
 紅葉はもう一度標識を見上げて唇を曲げた。幾ら見続けていても正解が導き出される訳ではない。こうなったら勘に任せて行くしかない。
 そう決めて何気なく十二番通りと示された路地に向かいかけた紅葉は、人の声を聞き分けて目を瞠った。
 遠くからか細く聞こえてくるのは女性の声だった。
 彼女は呼んでいる。紅葉、と、懐かしい声で。
 紅葉はその声を聞いた瞬間、涙が浮かんでくるのを止められなかった。
 ずっとずっと、帰りたかった場所。求めていた人が私を呼んでいる。
「お母さん……」
 紅葉は振り返り、声が聞こえる方へと走った。
 会いたい。
 その衝動を抑えることはできない。
「お母さん!」
 声が聞こえる方へ進むにつれて、周囲の様子は凄惨さを増していく。一度炎に巻かれたのか、建物は黒く崩れかけている。少しの震動を与えただけでも崩れそうだ。
 紅葉は建物の下敷きになる恐ろしさを抱きながら、母の声を頼りに走っていく。
 弓なりに曲がった路地を抜ければ、勢いを衰えさせない炎が間近に迫っていた。
 あと二つ三つ、路地を越えれば炎が辿り着くだろう。街の者は逃げたのか誰の姿もない。そちらの方がいい。下手に死体が転がっていたりなどしたら、恐怖で一歩も進めないだろう。
「お母さん……どこ……っ?」
 熱気が迫る。おかしい。夢の中で、私がいた場所はこんなに炎が近かっただろうか。それともあまりに辛い記憶だったために忘れていたのか。
 紅葉は額に汗を浮かべながら辺りを窺った。
 母の声はときおり止みながらまだ続いている。けれどそれは炎に消され、徐々に遠ざかってくようにも思える。
「お母さん……っ」
 必死に呼びかける。
 こちらの声は聞こえるだろうか。聞こえていたら出てきて欲しい。ここは危険なのだ。紅葉に地獄を見せた、組織の者が徘徊している。もしも見つかったらどんな目に遭わされることか。
「お母さんっ!」
 漂ってきた煙に咳き込んだ紅葉は目を細め、体を折り曲げるようにしながら絶叫した。けれど『紅葉』と呼ぶ声は変わらない。気付いてくれない。最初に聞いた声の位置から大体の距離を推測していたのだが、気付けばその距離も変わっていないような気がした。
 なぜだろう。この声は幻聴なのだろうか。
 胸が痛くて呼吸が荒い。
 心臓がつかみ取られるような感覚に、紅葉はその場に崩れた。
「……なん……で……?」
 嫌な汗をびっしりと浮かべていた。石畳に膝をつきながら必死で呼吸を整える。息をしているのに酸素が肺まで届いていないような、奇妙な感覚。まるで体が見えない力でひねられたようだ。健康だという実感すら失われている。
 煙のせいか視界が霞む。
 顔を上げた紅葉は、建物と建物の隙間から向こう側の路地を見た。そこを、小さな子どもが泣きながら通り過ぎていくのを見た。
 ドクンと心臓が高鳴った。
 喉の奥がカラカラに乾く。自分で見たものが信じられないような気さえする。
「いた……!」
 紅葉だ。
 幼い紅葉が泣きながら母を呼び、さまよっている。
 紅葉は体調の不良も忘れ、石畳に両手をついて必死で立ち上がった。彼女を早くここから引き剥がさなければいけない。母親も近くにいる。弟を車に置いて、戻ってきてくれたのだろう。幸せは直ぐそばにあるのだ。
 蓮夜に見つかる前に、彼女を一刻も早く……!
 建物と建物の隙間。
 そこは、大きくなった紅葉には狭い通路だったが、なんとか通り抜けることができた。住人たちが出したゴミ袋を飛び越え、小さな紅葉が通り過ぎた路地に急ぎ向かう。そしてついに幼い紅葉に追いついた紅葉は息を呑んだ。
 小さな小さな紅葉がしゃくりあげ、泣きながら母を呼び、歩いていた。
「紅葉!」
 大声で呼びかけると小さな紅葉は直ぐに振り返った。その顔が嬉しそうに綻んでいるのは、母が来てくれたと思ったからだ。しかしその表情は直ぐに曇る。目の前にいたのは母ではなく、紅葉だったから。
 紅葉は幼い自分の心境を思い出して複雑な笑みを浮かべた。
「そちらに行っては駄目よ」
 お願いだから行かないで。蓮夜に見つかる前に、貴方をここから連れ出さなければいけないのだから。
 紅葉はうるさく高鳴る心臓を手で押さえながら、幼い自分に警告した。小さな紅葉は怯えたように後退する。大きな瞳は不安に揺れている。
 こちらは急いでいるというのに、なんて行動が鈍いのだろう。
「お姉ちゃん、誰……?」
 訊ねる小さな自分に精一杯の笑顔を浮かべた。少しでも信用されなければいけない。
「私の名前は」
 紅葉はそこで言葉を区切った。
 自己紹介。
 それはなんて厄介なものなのだろう。
 紅葉は一つ息を吸い込み、震えそうになる体を制する。少しでも気を緩めたら涙が溢れてしまいそうだ。不思議そうに見上げてくる小さな紅葉に、紅葉はゆっくりと笑みを浮かべて告げた。
「私の名前は、白亜よ、紅葉。さぁ……お母さんの所に行きましょう」
 小さな顔に喜色が浮かんだ。
 この人がお母さんの所に連れて行ってくれる――紅葉はそう思い、白亜に全幅の信頼を預けた。過去の紅葉が何度もそうしたように。
「さぁ……」
 笑顔で両手を伸ばしてくる紅葉に、安心させるように笑顔を見せ、しっかりと小さな手を包み込んだ。
「私の名前は、白亜よ……紅葉」
 そうして。
 白亜はメビウスの輪を巡り始めた。

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