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第一章

 【三】

「はくあ……?」
 手を繋いだ紅葉が不思議そうな顔で見上げてくる。その響きに慣れないように、首を傾げて。
「そう、白亜。私は白亜」
 まるで自分に言い聞かせているようだった。
 私は白亜。夜人を助けるためにここまで来た。二の舞になんてならない。ここから紅葉を連れ出せば、紅葉は夜人と出会わない。別の人生を歩んでいく。夜人が裏切りを犯すことはない。夜人が死ぬことはあり得ない。
 紅葉はまだ不思議そうな顔をしていた。しかし、母のところへ連れて行くという言葉は何にも代えがたいもので、白亜を信用して逃げ出すことはしない。
 白亜はそのことに安堵しながらも、あっけなく未来を変えられることに奇妙な落胆を覚えた。
 たった一つ。誰かの言葉が違うだけで。誰かがいないだけで。未来はどこまでも変わっていく。
「お母さんはどこにいるの?」
 紅葉の手を握り締め、黙ったまま先ほどの狭い路地に戻る。路地を通る直前に紅葉が不安そうな顔で問いかけてきた。
「向こうの路地で、貴方を捜していたわ」
 紅葉は疑いもなく信用する。笑顔を見せた彼女に白亜も笑みを見せようとしたが、表情は強張った。言い様のない不安が込み上げる。
 ここで紅葉を母のもとへ導けば夜人は助かる。紅葉と夜人は出会わないのだから。けれどそうしたら、この場にいる『白亜』はどうなってしまうのだろう。夜人が助かるのなら白亜は要らない。消えるのだろうか。この世界から。けれどそうすれば紅葉をこの場から連れ出す者がいなくなり、紅葉は再び夜人と出会う。
 奇妙にねじれたメビウスリング。果てのない未来は過去に繋がり、どこにも辿り着けない。
 酷く、胸が痛んだ気がした。
「痛いっ」
 小さな悲鳴に我を取り戻す。
 視線を向けると紅葉が怯えていた。いつの間にか彼女は不審も露な顔で、白亜を見上げている。
 なぜ?
 彼女をつかむ手に、必要以上の力が入っていたからだと納得する。
 力を緩めようとした刹那、白亜は痛烈に手を振り払われた。
「うそつき!」
 白亜は目を瞠る。
「お母さんがいるなんてうそだ! お母さんが言ってた。外に出たら私は連れて行かれてしまうから、出ちゃいけないって。私、一人で捜すからいい!」
 紅葉は怒った顔をして白亜を睨みつけるが、その裏にあるのは恐怖だった。
 呆然とした白亜は、そういえば確かに母からそのような注意を受けていたと思い出す。小学校に上がる前に攫われたのだ。好奇心旺盛な子どもは見知らぬ人でも簡単について行ってしまうに違いない。先ほど白亜が直ぐに信用されたように。
 この街は治安が悪かったのだろう。同い年の友人を作ることもできない。紅葉の世界は酷く狭かった。
「紅葉」
 手を伸ばした白亜は避けられた。小さな紅葉は後退し、頼りない肩を震わせて、じりじりと白亜から遠ざかろうとする。
「紅葉、待って」
 その刹那。
 裏路地に反響した小さな音。
 驚いて振り返ろうとした白亜だが、体が自由にならなかった。目の前が赤く染まったことを知る。
「なんだ。まだ生き残りがいやがるぜ」
 いつの間に現れたのか、数人の男が意外そうに白亜を見つめていた。
 彼らの手には拳銃が握られている。
 動こうとした白亜は脳天まで走った激痛に呻いた。倒れるように背後の壁に背中をつける。視界の端では逃げることも忘れた紅葉が足を震わせている。
「……逃げなさい」
 白亜は押し殺した声で告げる。
 肩を撃たれていた。弾は貫通したのか分からないが、痛みよりも今は熱さの方が強い。体が痛みに支配されるのも時間の問題だろう。
 男たちが近づいてくるのを見ながら白亜は奥歯を噛み締める。
 動こうとしない紅葉に怒りが込み上げる。
 ――貴方がここで逃げなければ、夜人は助からないというのに。
 白亜は息を吸い込んだ。
「逃げなさい紅葉! もたもたしている暇なんてない!」
 紅葉は白亜の叫び声に大きな目を限界まで見開かせた。近づいてくる男たちを網膜に焼きつけ、そして弾かれたように逃げ出した。どこへ行くのか分からないまま小さな足で必死に走る。白亜は彼女の背中を見送った。
「おーおー、俺らから逃げられるとでも思ってるのか? 可愛いねぇ」
 男たちが口々にはやし立て、手にした銃を構える。照準は紅葉に向けられる。
 肩を押さえていた白亜はとっさにつかみかかった。
「うわ、なんだこの女っ」
 今しも引き金を引こうとしていた男が慌てて白亜を振り解く。傷口に男の肘が当たり、白亜は悲鳴を上げて石畳に転がった。
「なにやってんだよ」
「うるせぇな」
 緊張感のない笑い声が響き、からかわれた男は不愉快そうに鼻を鳴らした。
 そんな声たちも、肩から脳に響く激痛にかき消されて、白亜には良く聞き取れなかった。痛みにうめく。石畳を這うようにし、なんとか体勢を整えようとする。
「どこ行こうってんだよ」
 容赦ない力で蹴られて白亜はうめく。
 男の足が白亜の左手を踏み潰した。動きを止め、白亜の背中に膝を乗せて髪をつかむ。
 強引に髪を引かれた白亜は痛みに息を止めた。固く瞑った目尻に涙が滲む。
 紅葉は逃げた。夜人は助かる。
 それだけが今の白亜の救いだった。
「お前のせいでガキに逃げられちまった」
「そりゃお前がとろいからだろ」
「うるせー」
 まぜっかえす仲間たちに声をあげ、男の視線が再び白亜に落ちる。
 白亜は睨みつける。気持ちだけは負けたくなかった。男の顔が楽しげに歪むのを間近で見る。見なければ良かったと、後悔するほどに卑しい笑い。
「ちったぁ責任取って貰わねぇとな」
「お前も物好きだなぁ」
「そんな薄汚れた女一匹、話の種にもなりゃしねぇよ」
 男たちの会話から、この後に待つ地獄を悟った白亜は青褪める。
 表情の変化を間近で目にした男は実に嫌な笑いを浮かべた。乱暴に白亜の腕をひねりあげる。
「……っ」
 抑えきれない悲鳴が洩れる。息をつめて瞳を固く瞑る。
 背中を圧迫する男の足が消えた。少しでも痛みから逃れようと体をひねった白亜だが、無理やり立たされた。突き飛ばされて壁に頭をぶつける。そのまま石畳に崩れ落ちる。鈍い痛みに立ち上がる気力も失われ、声すら出せずに白亜は細い呼吸を繰り返す。男たちの笑い声が遠くに聞こえた。
 再び加えられる暴力。白亜は髪をつかまれてもう一度立たされ、今度は狭い路地に連れ込まれる。
 視界が暗くなっていくのが分かる。
 額を伝って目に入ったものを拭うと、それは血だと分かった。壁にぶつかった時に切れたのだろう。痛みがまんべんなく全身を支配しているため、いまさら痛みに敏感にはなれない。
「早目に終わらせて来いよ。火から逃げ遅れたって、助けねぇからなー」
 遠くから飛ぶ野次に、白亜の腕をつかんだ男は小さな舌打ちをしたような気がした。白亜の意識は既に朦朧としており、現実か夢かも判然としない。ただ、ぼんやりと、自分はこのままここで死んでしまうんだろうなと悟っていた。
 男が白亜の服に力を入れようとしたその時。
「あ、やべぇっ」
 余裕だった男たちの声が豹変した。
 今まさに白亜を手にかけようとしていた男も、何事かと離れていく。
 白亜はぼんやりと男の姿を見送った。
 狭い路地裏に転がされたまま動けない。ゴミ袋をクッションがわりにされて上半身を起こしていたが、首に力が入らないため白亜の視界には空しか映らない。どす黒い空だった。
 何発かの銃声が響いた。
 男たちの悲鳴が途切れ、代わりに複数の足音が聞こえてきた。短い間隔で響く足音から、どうやら走りながらこちらに近づいてくるようだと知る。
「ふん。俺ら以外にも雇っていたのか。運がなかったな」
 耳慣れた声に白亜は目を瞠った。
 頭を動かすことができないでいると、視界にその男の姿が入ってきた。そして、彼の腕に抱えられている子どもを見つけ、驚愕した。
「紅葉……!」
 先ほど白亜を襲おうとしていた男たちは地面に倒れていた。男たちを中心として血溜まりが広がっていたから、つまりはそういうことなのだろう。
 白亜は痛む体を無理やり起こした。荒い息を繰り返しながら、現れた男を見据えた。
 先ほど逃げたはずの紅葉を腕に抱え、起き上がった白亜を驚いたように見ていたのは、蓮夜だった。
「……まだ息があったのか」
 蓮夜はわずかに逡巡する様子を見せた。
 控えていた別の男に紅葉を渡し、落とすなよと忠告までして白亜に近づいた。
 紅葉は気絶させられているようだ。男の腕の中で、起きる気配はない。
 白亜は立ち上がろうとしたが出来なかった。なぜだか足に力が入らない。頭を少し動かすだけでも鈍痛が響く。それでも睨むことだけは自由にできたので、精一杯の力で睨みつけた。
 蓮夜は手にした銃の弾薬を確かめながら白亜の前に立つ。
「生き残りは始末しておかなければ厄介なんだ。恨むなら俺らを雇った奴を恨むんだな」
 白亜の傷口を眺めた蓮夜は銃口を向けた。
 引き金に指がかかる。互いの視線が交錯する。
 荒らされて滅びを迎える街に、追い討ちをかける銃声が一発、響いた。

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