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第一章

 【四】

 体中を巡る痛みに正気を失いかけ、それでもまだ意識を保っていた。
 あとはもう死ぬだけだ。
 そんなことを悟ってしまえるほど、自分の状態は危険だ。尋常ではない寒気がする。
 白亜は指一本動かせないまま薄汚れた街に転がっていた。滅びいく街の運命に自分の運命も寄り添うように。
 喉をヒューヒューと空気が通り過ぎている。吸っているのか吐いているのか分からない。新たに撃ち抜かれた上腕は動脈が傷つけられており、一呼吸するたびに勢いよく血が流れ出していく。
 急速に暗くなっていく視界を感じながらも白亜は、まだ死ぬことはできない、と強く思う。紅葉は蓮夜の手中に落ちた。紅葉は夜人に出会うだろう。そして組織で年を重ねる。流れを変えられるのは自分しかないのだ。まだ死ぬわけにはいかない。
 そう思いながら白亜は蓮夜に意識を向けた。
 なぜ彼は一思いに殺していかなかったのだろう。あのような至近距離で外すなど考えられない。もともと致命傷を負ってはいるが、死を覚悟していただけに、今の時間は予想外だ。ほどなく死んでしまうと分かっているから、蓮夜は手を抜いたのだろうか。
 ――あの蓮夜が情けをくれたとでも言うつもり?
 力が入らずに冷たい体。気休めのような呼吸を繰り返しながらゆっくりと歯を食いしばる。そんな動作をするだけで、白亜の体力は底をつく。
「ここもまた酷い有様じゃの」
 聞こえた声は幻聴かと思った。
「最近はどこも荒れ果ててしまいおってからに」
 声が近づいてきた。優しい影が白亜に落ちる。ぼんやり開いたままだった白亜の視界に、女性の姿が映し出される。
 異国情緒を漂わせる奇妙な服装。
 色の判別もできないほど視力を失っていたが、それでも間違えるわけがない。
 組織で出会った女性。
 伽羅。
「……哀れな」
 伽羅は白亜のそばに立つと痛ましそうに瞳を細めた。ゆっくりと屈んで腕を伸ばす。頬に触れた手は不思議に優しくて、激痛がほんの少しだけ和らいだ気がした。
 伽羅は白亜を眺めたのち立ち上がる。そのまま白亜のそばを去ろうとした。
 ――待って。行かないで。私はまだ死んでいない。
 白亜は必死に呼びかけようとした。しかし声にならない。滲む視界から伽羅が消える。助けはもう来ない。ここで伽羅が去ってしまったら、あとは死を迎えるだけだ。
 白亜は必死で呼びかける。
 全身全霊を込めて唇を動かした。
「……ら……」
 自分の耳にも届かないほど小さな声。既に遠く去ってしまったであろう伽羅に届くとは思えない。
 それでも。
「……か……」
 心臓の音がうるさい。乾いた血が頬で固まって気持ち悪い。
 そんな気持ちを押し込め、必死に呼びかける。組織の一員ではなかった不思議な女性に。
「まだ息があったとはの。驚いたわ」
 永遠にも思えた主観ののち届いた声。
 白亜の視界に再び伽羅の姿が映った。
 伽羅は軽く瞳を見開かせて白亜のそばに腰を屈めた。
「時間の問題か……」
 伽羅はどこか思案するような顔となり、白亜に手を伸ばす。先ほどと同じ仕草で頬に触れ、柔らかな空気を届けてくれる。
 このまま眠ってしまっても良かった。この安らぎを抱いたまま瞳を閉ざし、伽羅に任せてしまいたい衝動が湧き上がる。
 けれど、私はまだ死ねないのだ。
「人の生死に関わること、妾には許されておらぬのじゃ……」
 いつだったか聞いたことを、伽羅はもう一度告げた。
 労わるように頬に触れる手は温かい。この体温を失ってしまうなど考えられない。まだ、死ぬことはできない。
 伽羅が少しだけ表情を変えた。撫でる手を止め、白亜を凝視する。
 一対の不思議な翡翠の双眸。
 白亜は、ただ見つめられているだけだというのに、その視線に貫かれるような気がした。
 やがて伽羅が唇を動かした。
「お主……不思議な気配をしておるな。じゃから妾を呼んだのか?」
 伽羅が瞳を閉じたことで、呪縛から逃れられた白亜は止めていた息を吐き出した。この呼吸をあと何回か繰り返したら私は死ぬのだろうと思う。
 伽羅が再び手を伸ばしてきた。
 今度のそれは、ただ白亜の心を慰めるものではない。
 傷口に直接触れる。
 白亜の体を何かが走った。胸の奥が熱くなる。何かが引き出されていくような感覚に瞳を固く瞑り、瞳を閉じられることに、気付いた。
「あ……?」
 驚いて双眸を瞠り、思わず声を洩らす。先ほどまでそれがどんなにか困難だったというのに、簡単に声が出ることに気がついた。
 呼吸がずいぶんと楽になっている。頭の奥を刺激する痛みも和らいでいる。鈍痛は残るものの、死を予感させる痛みは消えていた。
「妾は伽羅じゃ。お主は何者ぞ?」
 体を起こした先で伽羅が見つめていた。
 彼女の双眸を見ながら白亜は告げた。
「私は白亜」
 白亜は視線を少しだけずらす。
 伽羅の胸元には美しい宝石があった。それは静かに白亜の顔を映しこんできらめいていた。

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