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第一章

 【五】

 痛みが消えた傷口に手を当てると、乾いてザラザラとした触感が残っていた。
 傷口は赤黒く凝固している。あれほど酷い出血だったというのに、人間の体とはこうも早く治癒するものだったろうか。
「お主からは妾と同じ匂いがしおる」
 伽羅を見上げると視線が絡んで優しく微笑まれた。
 母親が我が子に向けるような笑みだった。
 いつもどこか悲しげな笑みしか見せなかった伽羅のその笑みに、白亜は瞳を瞠る。伽羅が差し出した手をためらいなくつかむ。
「妾と共に来るが良い。そなたには休養が必要じゃ」
 立ち上がっても体が痛むことはなかった。
 見つめてくる翡翠の双眸に瞳を瞬かせ、白亜は自分の酷い格好を眺める。
 今の自分にはどこにも行く場所がない。ここには炎も迫っている。夜人を助けるために行く場所はあるが、どこを通っていけば辿り着けるのか分からない。
 白亜はつかんだ伽羅の手に少しだけ力を込めた。
 伽羅は微笑みを深めて白亜に手を伸ばす。
 瞳に触れる、冷たくて心地良い温度。
 伽羅の手に双眸を塞がれた白亜は、周囲から音が消えたことに気付いた。燃え盛る炎の熱は感じない。埃にまみれた乾燥した空気は潤み、鼻を刺していた町の死臭も消えた。
 伽羅の手が外されると、そこは既に町ではなかった。
 蒼い霧が支配する、何もない空間。霞んでいるため遠くまで見通せない。
 白亜は視線を落とした。溜まった霧の中に足が埋もれている。空を仰げば澄んだ夜空のような黒が広がっていた。しかし本物の夜空ではない。星のきらめきがない。ただただ黒い、深淵の色が広がっている。
 白亜はいつか夜人と二人で見上げた夜空を思い出した。
「こっちじゃ」
 促されて振り返ると、伽羅は歩き出していた。蒼霧に霞んでいく彼女の背中を慌てて追いかける。そして奇妙なこの状況を享受している自分に気付いて驚いた。
 先ほどまで死に掛けて町に転がっていたというのに、傷は癒え、今は全く別のところに来てしまっている。それなのに混乱もせず受け止めてしまうのは、伽羅という存在を以前から知っていたからか。伽羅の存在は全ての不思議を内包しているかのように奇妙なのだ。彼女が側にいれば多少の不思議が霞んでしまう。それほど彼女が持つ雰囲気は柔和で鮮烈だった。
「どこに、行くの?」
 伽羅の後ろをついて歩き、どこまでも変わり映えのしない風景を眺めた。
 二人の動きに合わせて霧が揺れるだけ。他には何の変化もない。永遠に続きそうな行路。
 伽羅が立ち止まった。
 彼女の直ぐ後ろを歩いていた白亜は急な動作についていけず、伽羅にぶつかって鼻を潰す。伽羅が目を瞠って白亜を見下ろし、次いで静かに笑い声を上げた。
 白亜は決まり悪くなって横を向く。
 不意に胸が痛んだ。
 攫われた紅葉。見慣れているよりも若い蓮夜。会えなかったけれど、紅葉を捜していた母の声。
 何もかもに胸が痛む。
 自分が重大な過ちを起こしているようで恐ろしい。だがこのまま進まなければいけないのだと覚悟していた。もう道を引き返すことはできない。夜人を助けるまで、死ぬわけにはいかない。けれどこの場所から夜人の場所まで、それはあまりにも遠く思えた。
「おや。どうやらあやつは留守のようじゃ。都合がよい」
 呟かれた声に視線を向けると、伽羅は悪戯めいた笑みを浮かべながら宙に手を伸ばしていた。
 何をするつもりなのか見守っていると、伽羅は伸ばした手とは反対の手で胸にかけていた宝石を掴み、伸ばしていた腕を軽く振る。それが何の意味を持つのか。答えは直ぐに知れる。
 伽羅が腕を振った途端に周囲の霧は渦を巻き、伽羅の手に吸い込まれるようにして凝縮していく。霧は、蒼い一つの結晶体となって伽羅の手に落ちた。
 多角形に鋭くカットされた紫水晶。アメジスト。
 伽羅はそれを手にして微笑み、直ぐに興味を失ったようにポイと放り投げた。
 驚いたのは白亜だ。
 慌てて拾おうとしたが、紫水晶は地にぶつかる寸前、輪郭を崩して消え去った。まるで地に吸い込まれたかのように存在は残らない。そんな現象を目の当たりにした白亜はさすがに声を失った。
 伽羅に問いかける前に、次なる違和感に気付く。
 先ほどまで霧で覆われていた地面がはっきりと見えた。建物の床のようだ。紅葉の影が落ちている。影があるということは照らす光があるということだ。見上げると、天井と思しき壁があり、一つの蛍光灯が光を放っていた。
 視線を下げていくと四方は壁に囲まれていると分かる。
 組織にいた頃の部屋と同じくらいの薄暗さだ。部屋の中には机や椅子が置かれており、ここは誰かの部屋なのだろうと納得した。けれど伽羅の部屋だとは思えなかった。机の上に放り投げられた本や書類。そんなものと伽羅とは結び付けられないのだ。
「何をしておる。こっちじゃ、白亜」
 呼ばれて振り返ると、伽羅は扉を開けて招いていた。
 まだどこかへ行くつもりなのだろうか。
 白亜は急かされるままそちらに向かう。
 伽羅に続いて入った隣の部屋に――白亜は声を殺して悲鳴を上げた。
 とても嫌な感覚に飲み込まれた。
 この部屋は嫌だと全身が拒否を訴えているようだ。鳥肌が立ち、白亜は訳もわからず自分を抱き締めた。
「どうかしたかえ?」
 入った部屋はとても暗い部屋だった。
 嫌悪感をどうにか鎮めた白亜は顔を上げる。
 伽羅の向こう側には、燐光を放つ魔法陣が描かれていた。それは微かに明滅を繰り返している。
 この部屋には見覚えがあった。
 夢で一度だけ見た。
 そう。この部屋には伽羅がいたのだ。あれは、夢ではなかったのか。
「白亜?」
 呼ばれて我に返った。
 見れば伽羅は不思議そうに白亜を見ている。まるで全てを見透かしているかのような瞳だ。白亜は底知れぬ恐ろしさに震えた。
 急に、伽羅に対する認識が覆った気がした。私をこの場に連れてきて何をするつもりなのだろうかと警戒心が湧き起こる。
 伽羅の胸元にかかる宝石に視線が動いた。
 白亜が時間を遡るとき、確かに手にしていた宝石はいつの間にか消えていた。根拠はなにもないが、あの宝石がなければ夜人を助けることができないと確信していた。
 『白亜』が手にしていた漆黒の宝石。
 『伽羅』が奪われた至高の宝珠。
 夜人は、助かる。
「クラインじゃ」
 囚われかけた思考に割り込む声に、白亜は息を呑んだ。昏い考えに取り付かれそうになっていたと気付く。慌てて首を振る。
 伽羅が瞳を細めた方向に視線を向け、再び息を呑んだ。
 光を放つ魔法陣。その上に、奇妙にねじれた容器があった。ガラスのようだ。朧に存在を揺らめかせ、明滅を繰り返している。意志を持ち存在を訴えるようなそれを、白亜は慄きながら見つめた。
「クライン……?」
 呟くと、視界の端で伽羅が頷く。その瞳には憐憫が宿っている。
「光輝《こうき》と暗澹《あんたん》。表裏はねじれて終わりは来ぬ。内側を走れば外側を走り、混沌を望めば完結が訪れる。……人はどこまで行けばよい」
 呟きながら向けられた声に白亜は言葉をつまらせた。
 奇妙にねじれたクラインの壺。一度走れば止まらない。表は裏となり、内は外となり、紅葉は白亜と成り代わる。どこまで行けばそれが変わる。否、どこにも辿り着かない。延々と走り続けるだけだ。自分がどこを走っているのかも分からぬままに。
「妾にできることは見守ることのみよ――どこまでも」
 伽羅が前に進み出た。
 中空の円筒を一度ねじり、両側の口を左右逆に張り合わせる。そうして出来た奇妙な壺を前にして、光が弾けた。焦燥を募らせる白亜を灼きつくすかのような光。愚者だと罵る代わりに浄化しようというのか。
「伽羅……っ!?」
 どこまで行けば終わりが来る?
 白亜の二の舞を繰り返す。
 どこまでも走り続ける。
 終わりなど来ない。
「妾たちはこの世界が好きなのじゃよ白亜。そなたをここへ招いたのは、そなたの怒りが妾の怒りと重なりおったからよ。繰り返す業を背負うそなたを、妾は助けたかった」
 過去形で告げる声。
 光が消えたとき、魔法陣に出現していたのはメビウスだった。
 一枚のテープを上下逆に張り合わせて出来たねじれた道。
 クラインからメビウスへ。三次元から二次元へ。
 せめて悲しみが広がらぬように。
 気がつけば白亜はメビウスを凝視していた。激しい呼吸を繰り返し、自身に起きたことを確かめるように瞳を瞬かせる。伽羅は消えた訳でもなく、先ほどと同じように白亜の隣に佇んでいた。
 痛みを含む伽羅の瞳が振り返った。
「伽羅は……何を知っているの……?」
 伽羅は小さく首を傾げる。何を問われているのか分からないようだ。先ほど光のなかで告げた伽羅とは別人のようで、白亜もまた不可解さに眉を寄せる。黙ったままでいると伽羅は視線を魔法陣に戻した。
「妾が知りうることなどこれのみよ」
 伽羅はメビウスを示して微かに笑う。
「……繰り返さない」
 眦に力を入れた白亜は、まるで憎むように伽羅を見つめながら近づいた。伽羅は驚いたように双眸を軽く見開かせて白亜を見つめる。相対するように体の向きを変える。
 白亜は、伽羅の胸元にかけられている漆黒の珠を見つめた。
 刻を繰る宝石。
「知っているなら繰り返さない。自分がどこにいるか分かっているなら私は別の場所を走ってみせる。見守るだけの伽羅に何ができるっていうの。変えたいなら変えようとしないと駄目なんだよ。繰り返すなんて、そんなの、私は絶対認めないから」
 双眸を瞠る伽羅に手を伸ばした。まるで逃げるように後退しようとする伽羅を睨み付ける。
「伽羅は変えたじゃない。クラインからメビウスに」
 それが何の意味を持つのか白亜には分からない。
 けれど、後退しようとしていた伽羅の足が止まった。
 メビウスの帯は三次元的にひねらないとできあがらない。クラインの壺は四次元的にひねらないとできあがらない。両者共に論理は同じ。けれど与えられた力は同じではない。
「私は、夜人を、助けるよ。未来を知っていれば……私がどこにいるのか知っていれば、私は絶対に二の舞なんて演じない。演じて、たまるもんか」
「白亜!」
 瞬きすら忘れていた伽羅が叫んだ。彼女の胸元からは宝石が奪われていた。
 魔法陣が静かに座するこの空間で、奪った白亜はそれを握り締める。
 触れた瞬間にも、メビウスに強く引き寄せられた気がした。魔法陣が大きさを増して白亜に迫る。
 メビウスの中にもう一人の自分がいた。
 外側からメビウスを客観的に見ている自分と、メビウスの内側から客観的に見ている自分を知る。
 それは不思議な感覚だった。
 先ほどまでただの部屋でしかなかったその場は途端に様相を変える。見えないものまでも詳細に視る。与えられる情報量に自我すら奪われそうな錯覚。『世界』を客観的に見ているのだと誰かが囁く。もっと知りたいかと誘惑する手を取りかける。
 白亜は自分を失わないために『夜人』と名前を謳った。
 願いを強く、言葉にした刹那だ。
「白亜!」
 烈風が巻き起こった。
 伽羅は腕を翳し、耐えて叫んだが、既にそのとき、白亜はその場を離れていた。
 夜人を助けるために奪った宝石。
 紅葉に夜人を殺させないために。既に未来へと跳んでいた。
 伽羅はそのことを確認するなり拳を握り締め、苦りきった顔で魔法陣を見つめた。そこにはメビウスがただ浮かんでいる。
「クラインもメビウスも……中央から切り離そうとすれば、それは数を増しおるのじゃよ白亜……」
 歪みは大きく。
 止める者は誰もいない。
「妾にできるのは、見守ることのみよ」
 伽羅は息をつまらせる。
「宝玉を取り戻さねば……あれは世界の至宝ゆえ」
 白亜、と小さく名前を呼んで。伽羅はかぶりを振った。

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