前へ目次次へ

第二章

 【一】

 紅葉は蓮夜を見上げた。
「地下……?」
「お前が殺す相手はそこにいる」
 心臓が早鐘を打ち始める。手の平が汗ばみ、嫌な汗が背中を滑り落ちていくのを感じる。
「抜かるなよ」
 蓮夜は外で待機のようだ。
 紅葉に仕事の段取りは分からなかったが、そういうものなのだろうと納得する。もし中で紅葉が取り逃がした場合、外で待機する仲間が仕留めることになっているのだろうと。
 分かった、と頷いた紅葉は階段を下り始めた。
 地下から這い登ってくる闇に捕らわれてしまうことが恐ろしく、心細くなった紅葉は平静を装って蓮夜を振り返った。彼はちょうど紅葉に背中を向けようという所だった。そこには、ひっそりと笑みが浮かんでいた。
 ――使われなくなったビルが立ち並ぶ地域。
 数十年前に施行された新法律のせいで人口は著しく低下し、治安は悪化した。悪法はほどなく撤廃されたが崩れた国力は戻らない。好経済のさなかに建てられたというこのビルは無人になって久しいという。誰かが隠れ住むにはちょうど良い場所だ。
 緊張のため、階段を下りる足も震える。気配を消すように、足音にも呼吸音にも細心の注意を払っているのだが、果たして上手くいっているのか分からない。ビルの中は誰もいないように静まり返っていた。
 階段を下りると頑丈な扉があった。
 この向こう側に私が殺さなければいけない人間がいる。
 それは誰なのか――聞いていない。聞く必要もないと思っている。
 今このときだけまみえ、離れ、そして直ぐに忘れられていく者。勝手な言い分だけど、貴方の命は夜人に受け継がせてもらう。
 渾身の力を込めて重たい扉を押し開く。鍵はかかっていなかった。
 暗がりの中で揺れる影に気付く。
 隙を見せれば殺されるだけ。
 紅葉はためらうことなく発砲した。
 ――避けられた。
 息を呑み、素早くもう一度照準を合わせる。
 影が――ためらうように動きを止めた。
 訳も分からぬまま、何も考えないまま、紅葉は引き金を引き続けた。反動で腕が痺れるほど何回も。銃弾がなくなり、相手が死ぬまで。
 全ての銃弾を叩き出してもまだ、紅葉は引き金を引き続けた。
 空回りするカチカチという音だけが耳につく。
 震えているのだと自分でも分かった。
 銃を撃つときに散った火花。小さなものだったが、それは暗がりに沈んだ敵の顔を朧気に浮かばせていた。
 一発目では分からなかった。
 銃を使うごとに、怖いほど精度は増していく。
 正確に狙いを定めて撃った二発目のとき。ちょうど放った銃弾が敵に命中したとき。そこには見慣れた男の姿があった。
「くれは」
 囁くように呼ぶ声と、ゴボリと濁る音。
 前のめりに倒れる体。
「おや。貴方が生き残りましたか」
「どういうことなの……」
 紅葉は銃を落として呟いた。
 たった今、自分の手で奪ったものは、守りたいと思っていた人の命だった。
 いつの間にか蓮夜は背後にいた。扉に背中を預けて足を組み、嘲笑を浮かべていた。彼はいつからこの場面を見ていたのだろう。
 蓮夜は急に笑みを消して眦を強くした。
「裏切り者が」
 蓮夜の手には銃が握られていた。銃口は紅葉に向けられる。紅葉は夜人に視線を向ける。
「どうして!」
 紅葉と白亜の叫びが重なった。


 :::::::::::::::


 二度目の時空移動。
 全身の細胞がばらばらに分解され、自分が自分ではなくなりそうな感覚だった。頭のてっぺんに糸を縫いつけて、人形のようにどこかから吊り下げられているような感覚でもあった。
 このままどこかへ連れて行かれそう。
 自分の意志も虚ろになる。どこへ行きたいのか、それは決まっていたけれど方向を定めることは困難で、長い長い時間をたださまよっていたように思う。
 このまま消えていくのかとぼんやり思う。
 伽羅から不思議な宝石を奪い取り、夜人を助けるために手段も選ばなくなってしまった私にはきっと、普通の死すらも許されなくなったのだろう。
 自分を形作っている全てが意志薄弱となり、自分の支配から逃れ、自由にどこかへ行こうとしている。まるでそんな感覚だった。
 胸のとある場所が熱を生んで息苦しい。衝動のまま咳き込むと嫌な音がする。
 ごぼりと、何かが気管につまる音。そうして口腔に錆びた匂いと粘りつくなにかが充満する。たまらず吐き出すと地面が赤く染まったように思えた。それを確認する間もなく再び咳き込む。
 痛くて熱くて、自分の意志ではどうにもならない。
 このまま自分が消えてしまっては夜人を助けられなくなる――と、そんな想いに辿り着いた瞬間、白亜は自分を叱咤して立ち上がった。
 死んではいけない。私はまだ消えたりできない。
 脳裏に強く想いを刻み付ける。いまだ止まらぬ喀血に苦しみながら、白亜は強く暗闇を見据えた。
 伽羅に案内された場所からさほど離れたとも思えない空間の中。直感的に、まだ自分が現れるに相応しい時間にはほど遠いと思った。このまま外へ出てしまっても、きっとそこは自分が夜人を助けるために行動できる場所ではない。
 胸元で力を発揮し続ける宝石を握り締め、手の平に火傷を負ってしまっても。白亜は宝石を握り締めることをやめなかった。そうして自分の意志をはっきり持っていないと、次の瞬間にも自分という存在が消えてしまいそうだった。
 そんなことにはならない。この体がバラバラになっても、この意志が在る限り――私はきっとやり遂げる。
 白亜は荒い呼吸を繰り返す。喉に絡む嫌な呼吸音を聞く。
 ふと、暗闇の中に誰かの輪郭が見えたような気がして目を瞠った。
 伽羅ではない。
「誰……?」
 呼吸がスッと楽になった。
 握り締めていた宝石が光を放つ。
 白亜はふと、この人物はもしかして宝石の精なのだろうかと首を傾げた。
 宝石と同じ漆黒の瞳。同色の長い髪。見惚れるほど凛々しい顔立ちに、浮かぶのは虚無。
 声なき声が脳裏に響いた気がした。
 宝石から染み出た暖かな空気に包まれたようだ。
 呼吸は平常へ戻り、自分のものではなくなっていた感覚も戻ってきた。
 白亜は地面にしっかりと足をつけて、目の前で輪郭を朧にさせる人物を見つめる。
 かの人物が何事かを告げるように唇を開いたが、白亜が聞き取れたのは言葉ではなく、胸を衝く叫び出したいほどの哀しみ。一瞬後に闇は光へ塗り替えられた。
 白亜は息を潜めて硬直する。激しい眩暈に襲われ体が揺れる。気圧に変化でも起きていたのか、聴覚に違和感を覚え――意識を取り戻したのはしばらく経ってからで、気付けば白亜は床に足を投げ出して座り込んでいた。
 そこは地下室だった。
 手には宝石がある。
 白亜は握り締めて視線を上げた。虚ろな感覚で部屋を眺める。夜人を撃ち殺すことになった地下室だ。静かに呼吸を整える。
 ここには白亜しかいない。まだ誰も死んでいない。
 手にした宝石が妖しく煌いた。

前へ目次次へ