前へ目次次へ

第二章

 【二】

 今は一体いつだろう。
 紅葉はまだ組織にいるだろうか。夜人はまだ紅葉から離れていないだろうか。
 蓮夜に連れられて組織を出て、惨劇のビルへと案内された。その道筋を今度は逆に辿る。
 組織までは長い。同じような建物ばかりで直ぐに迷ってしまいそうだ。
 なぜこんな閑散とした場所に組織があるのだろう。閑散としているからこそ都合がいいのだろうか。子どもを捨てるに未練も残らないのだろうか。
 重い足を引きずるように前へ運ぶ。壁に手をついて体を支えながら前に進む。
 どこにいるのか――また分からなくなった。
 白亜は一度立ち止まり、見覚えのある建物を必死に見分け、時には戻りながら進み続ける。組織からビルまで、結構な距離を歩いたと記憶している。車に乗せられなくて良かった、と今なら思う。
 紅葉として誘拐されたときは車で組織に連れて来られた。だが、この時代に車はとても貴重だ。車自体の製造はさほど難しくないが、燃料が圧倒的に不足している。
 両親と暮らしていた頃も、車の音など聞いたことがなかった。母が読み聞かせる本にてわずかばかり知識を得たのみだ。
「……痛い……」
 地下室で目覚めたときから体調は悪化の一途を辿っている。誰かが白亜の全身を押さえつけ、上から押し潰そうとしているようだ。体が重たく、立っていることさえ困難だった。足を踏み出しているのに踏み出した感覚がない。視界が揺れることも一度や二度ではない。壁に手をついて体を支え、なんとか前に進む。
 ときおり鈍い痛みが体を襲う。これは一体なんだろうか。
 白亜はしばらく記憶を頼りに進んでいく。そうすると徐々に風景が変わりだした。同じような造りの建物しかなかった地帯から抜け、整然とした道路が姿を現す。
 建物が立ち並ぶことは変わらないが、ランダムに建てられていた地域とは明らかに違う。そしてそれは白亜に明るさを取り戻させた。
 整然とした道の向こう側に大きな建物が佇んでいる。周囲より一層高くそびえるその建物は塀で囲われていた。白亜には見覚えがあった。
 組織の建物だ。
「あと、少し」
 今度は見えている建物を目印に行けばいいのだから、道のりは短いはずだ。
 あと少しで夜人に会えると思えば苦痛も忘れることができた。
 走り出したい衝動を抑えながら、体に負担がかからないよう着実に進む。進みながら、まだ手にしたままだった宝石を首にかけた。
 伽羅から奪ったときに紐は切れていたが、首にかけて再び結びなおす。宝石が外に出てこないよう、慎重に服の下へ隠しこんだ。
 組織には紅葉がいる。それと同時に伽羅もいる。きっと私を捜している。けれど、見つかる訳にはいかない。紅葉を組織から連れ出すまで、彼女には会えない。
『妾は白亜が好きなのじゃよ、紅葉』
 そんな声が蘇ってかぶりを振った。
  今でも彼女がそう思っているかは分からない。白亜は終わりなきメビウスの道を進んでいる。以前は好きでいてくれた伽羅も、白亜が別の道を模索することで感情を変えるかもしれない。
  後悔はしていないが、罪悪感は常に胸の奥でうごめいている。
  ――伽羅が私を嫌っていれば、メビウスの要素が一つ欠けたことになるのかしら。
 取り留めもないことを考えてしまう。
 それでも、まだ足りない。
 夜人を助けるために、もっと決定的な何かを刻み込まなければ。
 白亜は固く唇を引き結びながら、組織の門前に辿り着いた。


 :::::::::::::::


 石門をくぐった後、周囲を確認する余裕もないまま教会に走った。
 取っ手をひねると簡単に開く。
 見覚えのある教会に懐かしさが込み上げる。
 あれほど逃げたいと思っていたのに、まさか自らここへ戻ってくるなど、皮肉なものねと笑みを刻む。牧師がいなければいいなと願いながらもそんなことは有り得ないと知っていた。
 開いた扉から流れ込む重たい空気。
 絶えず流れる賛美歌。
 どこから流れてくる音楽なのか、教会にくるたび疑問に思う。
 教会に足を踏み入れてほどなくして。
「子どもたちはこちらにはいませんよ」
 白亜の間近に、彼は立っていた。
 穏やかな笑顔を浮かべたまま。難しげなタイトルの本を胸に抱いて。
 白亜はあまりの近さに目を瞠り、慌てて後退した。牧師は一歩進む。扉の前に立ちはだかる。初対面の者から緊張を解く微笑みを浮かべていた。けれどそれは仮面。その下に潜む、こちらへの確信。白亜がすでに子ども以外の目的で組織に侵入しようとしていることを知っているのだろうか。白亜は扉から引き離された。
 白亜は迂闊な自分の行動を悔やみながら牧師を見た。早鐘を打つ心臓を必死で宥め、牧師を睨む。
 沈黙。
 たった数秒の睨み合いの後、牧師は笑みを湛えていた瞳を開いた。
 笑顔を払拭する。
 何度も見てきた殺人鬼へと気配を違える。
「表の客ではないらしい」
 鮮やかな青い瞳が白亜を見据えた。
 青錆びた牧師の服。ゆったりした袖口から引き出される何か。
 白亜は本能のまましゃがみこんでいた。
 頭の直ぐ真上で空気を切る音がする。何かが壊される音が響く。それらを理解する間もなく白亜はその場から飛び退く。ただ、そうしなければいけないと悟っていた。
 果たして、白亜がしゃがみこんでいた場所は次の刹那にも抉り取られる。白亜は素早く椅子の陰に回りこんでいた。牧師の視界から消え、瞠目して荒い呼吸を繰り返す。逃れられたことが奇蹟に思えた。
 腕が震える。足が震える。腰が抜けたように椅子の陰に座り込んでいた白亜は、教会の硬い床を歩く牧師の足音を聞いた。
 優位を確信した者の、ゆったりとした動き。
 彼は再び笑みを浮かべているのだろう。
 白亜は床に着いた両手を固く握り締めた。息遣いは更に荒くなる。殺されるという予感ばかりが高まっていく。反撃方法など思いつかない。
「なんの目的で忍び込んだかは知らないが、消させてもらおう」
 白亜は両足に力を込めて立ち上がる。
 手を伸ばせば届く距離に牧師はいた。彼の腕が再び揮われようとしている。
 ――今までの自分が全て否定される想いで、白亜は唇を開いた。
「組織に入りに来た」
 牧師が動きを止める。瞳を細めて白亜を見つめる。緊張する白亜を見つめ、やがて彼は瞳に笑みを宿した。嘲笑だ。
 紅葉ではない白亜は、もうその言葉になんの意味も持たないのか。
 白亜は改めて絶望した。
「どこから聞き及んだのか――けれど真実を知る者には、死、あるのみ」
 牧師が告げた瞬間、空気を切るような音がした。
 白亜の首を狙って放たれた何か。
 白亜は息を呑んで体を仰け反らせた。悲鳴を喉に張り付かせたまま倒れ込む。なんとか避けられたようだと悟る。
 まだ、生きている。
 固い床に倒れ込んで咳き込む。喉に手を当てたが、どこも切れていない。安堵に座り込みたくなったがそうもいかず、白亜は再び立ち上がった。きっと二度目の奇蹟はない。荒い呼吸音が木霊する。
「勧誘など行っていない。外の者は裏切るからな。ここで育った者にのみ、選ばれる権利は与えられる」
 硬い音がした。
 両腕を下ろし、牧師は高みから見下して嘲笑を浮かべていた。
 白亜の前に牧師が立った。ステンドグラスから入る清らかな光が彼の顔に影を落とす。柔らかな陰影は、彼を酷く優しげに見せた。
 呆然と見つめる白亜の前で、彼は残酷な笑みを浮かべて――腕を揮う、その刹那。
「取り込み中か?」
 割り込んだ声が牧師の動きを止めた。
 白亜は全身を強張らせていたが、なんとか声の主を見ようと、ぎこちなく首を動かす。鼻の奥がツンとした痛みを訴える。
 白亜は追い詰められて壁際に背中をつけていた。外から入ろうとする一人の青年を見出す。
 別れたときと全く変わらぬ背格好で、白亜を見る青年。
「……夜人」
 熱い吐息と共に声が震えた。

前へ目次次へ