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第二章

 【三】

 ――ようやく会えた。
 危機的状況における緊張感も、牧師に対する警戒心も、すべて忘れて白亜は夜人を見た。ここに至るまでの長い道のりが脳裏を過ぎる。疲弊した心は夜人を見ただけで弾んでしまう。これはもうどうしようもない。
 夜人は牧師と白亜を見比べて微かに眉を寄せる。
 白亜が最後に見た夜人は、血にまみれた姿。忘れようとしても忘れられない。だから、たとえ夜人が怪訝な表情で白亜を見たとしても、喜びは抑えきれない。
「夜人……!」
 涙さえ浮かべて名前を呼ぶ。
 牧師が訝るように白亜を振り返った。
 だが白亜は夜人に会えたことで胸を熱くさせ、他のことは目に入らない。黙したまま歩き出す夜人に駆け寄る。
 けれど。
「触るな」
 手を伸ばした瞬間、白亜は他ならぬ夜人自身によって振り払われた。
 喉の奥に詰まったような、低く硬い声音だった。幾度も紅葉を抱き締めた腕はいま、拒絶を宿して振るわれる。大した力は入っていないが、驚いた白亜はそのまま床に倒れ込んだ。
 何が起こったのか分からなかった。
 白亜は瞠目し、床に倒れたまま呆然と夜人を見上げる。向けられていたのは冷ややかな視線。夜人は白亜を一瞥するとそのまま教会の出口に向かった。振り返ることはない。
 紅葉には一度も向けられたことのない表情だ。一度だけ、伽羅に見せた表情に似ている。けれどそれよりもずっと冷たい。そう感じるのは自分に向けられたからだろうか。信じられずに夜人の後姿を見送っていた白亜だが、放たれた言葉が胸に染みこむと涙を滲ませた。
「夜人っ?」
 精一杯の悲鳴を上げて立ち上がる。
 哀しみよりも腹立だしい感覚で夜人をつかもうとしたが避けられた。勢い余って教会の壁に両手を着く。夜人を振り返り、唇を引き結んで睨みつけた。
「そりゃあ私のせいだけど……! 無視することはないでしょうっ?」
「なんの話をしている?」
 夜人は眉を寄せるだけだ。
 白亜の言葉に足は止めたが、冷たい視線が変わることはない。
 滲んだ視界が悔しい。
 白亜は乱暴に涙を拭うと声を荒げた。
「私の話よ!」
「見も知らぬ奴に付き合う道理はない」
 不愉快そうに言い捨てる夜人の言葉に、白亜は双眸を瞠らせた。自分の両手に視線を落とす。黙ったまま自分の体をかえり見る。
 薄汚れた衣装。死にかけたため、乾いた血が張りついた肌。髪はほつれて絡まっている。確かに酷い格好をしていると、自分でも思う。それでも、分からない、などということがあるのだろうか。相手はあの夜人だ。こちらがうんざりするくらいの執着を見せていたのに、別人を見るように態度を豹変させるなどあるのだろうか。
 説明しようとした白亜の耳に鋭い音が響いた。
 牧師が腕を振るった音だった。
「あ……っ?」
 走った痛みに眉を寄せ、白亜は打たれた腕を見た。
 裂かれた肌からは鮮やかな赤が流れ出す。見る見るうちに服を染めていく。夜人からは相変わらず何の反応もない。いつもなら、少しの切り傷を作っただけで大げさに騒ぎ立てて面倒を見る夜人だったのに。
 白亜は喉の奥に何か詰まったような呻きを洩らした。傷口に手を当てて視線を落とす。再び牧師の腕が振るわれようとしたが、逃れようとはもう考えられなかった。
 ――私が助けようとしている夜人はこのような人物だっただろうか。
 助ける意味を見失いかけ、牧師の武器が正確に首へ振り下ろされることを感じながら。
「俺の前で血を流すな」
 夜人の静かな制止の声。
 白亜はわずかな希望に顔を上げた。だが夜人は何の興味もないように淡々と牧師の行動を止めていた。足止めをされて不愉快そうな気配は変わらない。
「血臭がつくと紅葉がうるさい」
 夜人が視線で牧師に合図を送ると、白亜は腕を取られて押さえつけられた。
 尋常ではない力が腕に食い込む。だが白亜はそれ以上に、夜人の言葉に気を取られた。痛みなど忘れる。
 夜人はようやく足止めから逃れられ、満足そうに体を翻す。彼が教会の扉を開けると、外から流れてきた風が微かな硝煙の匂いを白亜に知らせた。夜人は仕事の帰りだったらしい。
 それまで呆然とされるがままになっていた白亜は、ようやく怒りを湧かせた。沸々と湧き上がる苛立ちは簡単に頂点に達する。
「この……っ。お前なんか大っ嫌いだ馬鹿夜人ー!」
 振り返る夜人だったが、その表情はそれまでと変わらない。迷惑そうに白亜を見やるだけだ。
 教会の扉は閉ざされた。

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