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第二章

 【四】

 冷たく閉ざされた教会の扉。
 白亜はそれを絶望的な気持ちで見やりながら、静かに涙を流し続けた。
 腕をつかんでいた牧師が離れる。
 そして……空気を切る音が聞こえ、白亜は瞳を閉ざした。
 自分がいなければ紅葉が辿る道は変わらない。メビウスの道は限りなく続いていくだけだ。それなのに、どうしてこんなに心が重いのだろう。
 牧師の攻撃から逃れることも忘れ、呆然と立ち尽くしたまま攻撃を待った。
「お前……?」
 牧師の声ではない、別の声。直ぐ近くで舌打ちが聞こえた。
 ゆるりと視線を巡らせると、今しも白亜に攻撃を仕掛けようとしていた牧師が嫌そうに振り返っていた。その視線を白亜も辿る。こちらに歩いて来る誰かの姿を見つける。
 新たに外から入ってきたのは蓮夜だった。もしかしたら夜人と共に出かけていたのかもしれない。
 白亜は彼の姿を見た瞬間、消えかけていた激情が再燃するのを感じた。体に芯が通ったようだ。素早く向き直り、両足に力を入れる。唇を引き結んで睨みつける。敵わないと知りながら、育つ憎しみを消すことはできない。
 蓮夜は驚きに双眸を瞠りながら白亜に近づいてきた。
「よくよく邪魔の入る娘だ」
 白亜は牧師を一瞥した。
 もう少し蓮夜が近づけば飛びかかり、首を絞めて殺してやると思っていたが、気を削がれた。
 牧師は不快そうに呟いていた。
 白亜に続いて蓮夜も牧師に視線を向ける。腕を振り、牧師を白亜から離した。そうしてから改めて白亜に近づいてくる。
「知り合いか、蓮夜。この娘は夜人とも知り合いらしいが」
「夜人と?」
 あと一歩。そうすればこの手が届く。
 交わされる二人の会話を意識外に置き、込み上げる憎悪に動悸を激しくする。二人の視線が突き刺さろうと、その意味も何も、白亜にとってはどうでも良かった。
 蓮夜は紅葉を裏切った。夜人を殺すための道具に使った。それが最大のダメージになると計算したのだろう。憎んでも憎み足りない。確かにあのとき夜人は反撃も回避もためらった。そのとき彼のなかに浮かんだ感情はどんなものだったのか、推し量ることもできない。
 夜人が助かるためには蓮夜を消せばいい。そうすれば紅葉が夜人を殺すこともなくなる。
「十年前に大規模な仕事があっただろう。そこで、見かけたな」
 交錯する白亜と蓮夜の視線。深紅を宿す彼の瞳は濃い血の色を連想させる。同時に白亜は、血の海に沈む夜人の姿を思い出して顔を背けた。
「人違いだろうがな」
 冷笑する蓮夜の声に、改めて白亜は顔を向ける。
 幼い頃から蓮夜の瞳が恐ろしかった。絵本で読んだ緋色の悪魔のようだと思っていた。彼が自分付きの世話係だと知ったときは、今度こそ日の当たらぬ場所へ連れて行かれてしまうと思って泣いた。
 蓮夜が素早く動いた。容赦ない力で白亜の顎をつかむ。そのまま上向かせた。
 白亜はその痛みに顔をしかめる。
「放せっ!」
 蓮夜の腕を振り解き、突き飛ばそうとしたのだが腕を取られた。後ろ手にひねりあげられる。次いで足払いをかけられ床に叩き付けられた。頭を打ち付けることだけは免れたものの、強打した肩が鋭い痛みを訴える。状況を理解できぬまま、その上から蓮夜に体重をかけられ、腕が折れそうなほどに軋む。
 このまま殺されるのかもしれない。
 込み上げる憎悪を払拭するほどの恐怖に白亜は悲鳴をあげた。つかまれていない反対の手を顔まで引き寄せ、拳を作る。冷たい石畳に頬を擦る。
「なんの目的でここに入った。殺された身内の復讐か?」
「なに言ってるのよ……っ」
 脂汗が浮かぶ。苦しい呼吸の中で叫ぶ。意味が分からないでいると、体重を更にかけられて胸が圧迫される。奥歯が砕けそうなほど固く歯を食いしばった。
「夜人と知り合いだというのは」
「蓮夜、どけ。そのような尋問は無意味だろう。私はまだるっこしいことが嫌いだ」
 朦朧とする意識の片隅で空気がうなる音を聞いた。白亜が倒れている間近の床が軽く抉られる。
 ふと、頭上で笑うような気配がした。体を圧迫する力と、腕を圧迫する痛みが少しだけ遠のいたのが分かった。痛みから解放された意識は朦朧としたままだ。
「蓮夜?」
「相変わらず短気な奴だ。よくガキどもの前で辛抱強く耐えていられるものだと感心していたが、やはり見せかけか」
「当たり前だろう。それに……耐えていれば、その分の見返りは大きい」
 嫌な笑いだった。
 牧師の笑いに合わせて蓮夜も低く鼻で笑う。そのまま白亜から離れた。
 牧師が楽しそうに腕を振るう。
 起き上がった視線の先でそれを見た白亜は青褪めた。恐怖に顔を強張らせ、胸にかけていた宝石をとっさに握り締めようとした。
「――待て」
 目の前を蓮夜の腕が過ぎった。
「そろそろガキ共が戻る頃だろう。ここで殺すのは不味い」
「構わんさ。見た者は殺せばいい」
 牧師は笑顔のまま言い切った。蓮夜は苦笑し、それでも、と遮る。白亜の腕をつかんで引き上げる。無理に立たされた白亜は腕の痛みに小さな悲鳴を上げた。
 牧師の訝る視線が蓮夜に刺さる。強い疑念。蓮夜はそれを受け止めながら、白亜を見下ろした。
「俺の管理下に置かせて貰おう」
「……蓮夜?」
 真意をはかろうと牧師の瞳が蓮夜を覗く。白亜も同じ想いで、蓮夜を見上げた。
「紅葉という例外もあることだし、構わんだろう」
「しかしあれは」
「単なる酔狂だ」
 十年前、紅葉を攫ってきたときのように、蓮夜はどこか自虐的に笑う。牧師は何も言わずに眉を寄せる。その表情は不満そうだった。
 白亜は呆然としたまま、引きずられるようにして組織の建物に向かった。

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