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第三章

 【一】

 白亜の腕をつかむ力は強い。決して逃げられない。一歩踏み出すたびに揺れる蓮夜の髪を、白亜は戸惑いながら見つめていた。長い髪は一つに束ねられている。赤を宿して揺れる様は、白亜の心に不安を落とす。
「……どういうつもりなの」
 箱庭に出た夜人と違い、蓮夜と白亜は別の廊下を歩いていた。炎を抱く燭台が幾つも壁際にかけられ、石畳は柔らかな闇に沈んでいる。
 教会は基点だ。組織内部に続く道が、教会を基点としていくつも伸びている。苦手意識があった白亜は教会の詳細を見たことがない。直接外へ繋がる扉しかないと思っていた。蓮夜が白亜を連れて入ったのも、そのうちの一つだった。
 いつも教会が薄暗いのと、牧師が離れないのは、すべての道が教会に繋がっているからだ。
 白亜は見落としてなるものかと周囲の様子を凝視する。教会の音が聞こえてこなくなるにつれて落ち着きを取り戻していた。廊下に入ってしばらくは燭台がかけられていたが、それらも進むうちに姿を消していった。代わりに蛍光灯が姿を現す。蝋燭とは違う無感動な光が白亜の足元を照らしている。
 蓮夜に腕をつかまれたまま、どこまで行けばいいのか。
 顔を上げた白亜だが、彼の表情は分からない。蛍光灯の明かりが蓮夜に深い影を落としている。
「……どういうつもりなの」
 連れて行かれたのは蓮夜の部屋だった。夜人の部屋と同じほどの広さを備えた部屋に連れ込まれ、白亜は強い訝りと共に訊ねた。
「言っただろう。ただの酔狂だと」
 直ぐにも暴力が来るのかと構えた白亜だが、それは杞憂だった。
 部屋に入ると白亜は解放された。長くつかまれていたため違和感の残る腕を胸に抱き、白亜は蓮夜の様子を窺いながら後退した。
 蓮夜はそんな白亜を一瞥しただけだった。無頓着に上着を脱ぐと寝台に投げ捨てる。
 蓮夜の些細な行動すべてが悪意の賜物に思えて、白亜は緊張したまま壁に背中をつけていた。
 蓮夜は何も言わずに部屋の奥へ消える。
 その一瞬前、蓮夜は浮かべた笑みを白亜に見せた。
「好きにすればいい。十年前に俺が酔狂を起こした奴も、今はここで腐っているけどな」
 蓮夜の声はどこか反響して聞こえてきた。錯覚ではない。そういう部屋に入っただけなのだろう。ほどなく奥からは水を激しく叩きつけるような音が響いてきた。血を洗い流しているらしい。白亜は脱力して座り込む。
 ――蓮夜が言ったのは、間違いなく紅葉のことだ。夜人を助けたいなら今すぐこの部屋を出て行動を起こした方がいい。
 それは分かっていた。だが脳裏に、冷たい夜人の表情が思い浮かぶ。教会で向けられたような、誰とも知れぬ他者に向ける冷ややかな眼差し。その表情を思い出しただけで白亜の足は震えてしまうのだ。夜人からあのような視線を向けられるなど、考えたこともなかった。
 なぜこんなことになってしまったのだろう。
 埒もない考えを延々と巡らせる。
 喉を鳴らし、白亜は日付を確かめようと部屋を一巡した。だが元々の日付を覚えていなかったため、見てもどうせ分からないと思い直す。
 組織に攫われてから、夜人は毎日のように紅葉の部屋を訪れた。勉強を教えてくれた。夜人は習ったことを復習する意味で紅葉に教えていたのだろう。紅葉の部屋を訪れるときの夜人は心底嬉しそうにしており、紅葉も素直に心を開いた。だが、夜人の背後関係を思えばいつまでも素直さを見せていられない。いつ裏切られるのか。いつ突き放されるのか。毎日を戦々恐々として過ごして来た。
 夜人から与えられる知識は底がない。知らないことを知るのはとても楽しかった。けれどいつの頃からか夜人から血の匂いがするようになり、紅葉は夜人を拒絶した。積極的に夜人から知識を吸収することをやめた。夜人から与えられる知識は、結局は組織が夜人に与えている物だと気付いたからだ。それを習うことは、間接的に組織からの教育を受けていることになる。
 勉強を放棄した紅葉に夜人は何も言わなかった。
 紅葉は結局、簡単な読み書きができるほどの力しか身につけられなかった。
 白亜は胸に手を当てる。服の下に隠した宝石の形が伝わってくる。
 静かな冷気を放つような宝石は、白亜の心臓の真上に。一瞬、息がつまった白亜は双眸を瞠らせた。恐る恐る息を吐き、噛み締めるように深呼吸する。心臓を鷲づかみにされたような、奇妙な錯覚。今まで健康そのものだった白亜にとって、それは初めての感覚だ。視界に映る蓮夜の部屋が、今まで以上に虚無感を伴って恐ろしく思えた。
 白亜は両肩に力を込めて腰を屈めた。両手を胸の上で組んで硬直する。視線を床に落として「まだ死ねない」と強く思う。
 夜人に好かれるために助けようと思ったわけではない。夜人の自由を奪ってしまったと思ったから、助けようと思ったのだ。きっと夜人は、銃を向けるのが紅葉ではなかったら、生き延びた。嫌われても構わない。やはり、助けたい。
 白亜は鈍い痛みを訴える体を起こして踵を返した。
 部屋の奥からはまだ水音が響いている。蓮夜の様子を音で確かめながら廊下に向かう。
 ――狭い部屋に閉じ込められていた紅葉には信じられないような贅沢。彼が、この組織で大きな力を有する権力者だから。
 白亜は細い息を吐き出した。
 ――蓮夜は紅葉に夜人を殺させた。蓮夜は牧師から白亜を救いあげた。
 感謝など、しない。
 白亜は部屋の扉に手をかけた。

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