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第三章

 【二】

 廊下は恐ろしいほど静かで誰の気配もない。夜人を助けようと走ったときのことを思い出させる。
 白亜は眦を険しくさせた。
 あの時と今とは違う。まだあの『時』は来ていない。
 強く言葉にする。忘れないように何度も繰り返して心に刻む。
 『あの時』と『今』とは違う。
 恐れなのか別の感情によるものなのか、白亜は体を震わせて唇を引き結んだ。
 扉を後ろ手に閉めると、響いていた水音は消えた。静寂が意志を持つ生き物のように白亜を襲う。
 白亜は周囲を窺いながら歩き始めた。
 服も靴も擦り切れ酷い有様だ。髪は血で固まって臭気を漂わせている。染み付いた匂いは裏路地の埃と火の匂いを連想させた。
 この居住区を抜けて外へ出れば、井戸がある。子どもたちのために掘られた井戸だ。子どもたちは遊びに夢中で、その井戸が実際に使われたのは数えるほどしかない。だが場所は覚えている。いつも遊んでいる丘よりも、もっと組織の建物に近い場所。周りを樹に囲まれていた。体を洗うには都合がいいだろう。
 もっとも――この組織の建物から外へ抜け出すことができれば、の話になるのだが。
 白亜は心細さを抱えながら進んでいたが、ときおり追い越していく風の唸り声に振り返った。蓮夜と歩いた道を正確に戻っているつもりだ。教会に出れば牧師がいるが、なんとかなるだろう。把握している建物や丘、教会などは組織のほんの一端で、その裏にはまだまだ広大な領地が広がっているのだろう。
 廊下は驚くほど静かだった。蓮夜の部屋を出てからというもの、別の部屋に続く扉も見かけない。
 白亜は血がしみこんで斑模様になった服を見下ろし、自嘲した。
 ――私にできることなど、本当に少しだけだ。


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 わずかに湾曲しているようだが、ほぼ一直線の廊下をひたすら進む。果てがないかのようなその行路にうんざりとし、蓮夜と共に歩いた距離はこれほど長かっただろうかと首を傾げたときだ。
 白亜は背後から腕をひねりあげられて悲鳴をあげた。
 もう少し緊張感を持って進んだ方が良かったかと後悔したが後の祭りだ。このまま暴れて逃げ出そうと思って振り返り、そこにあった顔に、再び息を呑んだ。
 白亜を捕らえていたのは蓮夜だった。
 もしかして追いかけて来たのだろうか。蓮夜は射るように鋭い視線を白亜に向け、白亜の腕をつかんだまま来た道を戻ろうとし始めた。白亜は引きずられかけて悲鳴をあげる。
「なにするのっ?」
「用事を思い出した」
 蓮夜の瞳は白亜を映さない。ただ前だけを見て足早に進む。
 白亜は敵わない悔しさに唇を引き結んで見上げた。蓮夜の表情は分からない。見上げても、彼の顎の線しか目に映らない。そのことが却って薄ら寒さを感じさせた。彼の赤い髪も、気持ちを鬱々とさせる原因だ。
 白亜はそっと呼吸を繰り返した。先ほどから妙に息苦しく体が重たい。
 そうして白亜は、あっと言う間に部屋まで戻された。
 かなりの距離を歩いたはずだったのに、なぜこんなに簡単に戻されてしまったのか。気付いて愕然とする。主観はまるでアテにならないのだと、奇妙な錯覚に陥った。
 一体どういうことだろうと思った瞬間、心臓が絞られるような痛みに襲われて膝を着いた。
「っ?」
 蓮夜が扉をあけたところで白亜はうずくまった。
 静寂しかなかった場所に音が生まれた。だがそれは単なる耳鳴りだと知る。頭の奥で誰かが甲高く悲鳴を上げている。音に圧迫される。
 倒れた白亜に気付いて蓮夜が振り返った。繋いでいた腕を強く引く。
「なにをしている?」
「な、にって……」
 一瞬にして呼吸困難に陥った。
 唐突な痛みが信じられなくて双眸を瞠らせたが、それでどうにかなる訳ではない。心臓に手を強く押し当てて硬直する。だが痛みは一向に治まる気配を見せなかった。手足の末端から消されていくような錯覚に襲われる。その恐怖と絶望に悲鳴が喉をせりあがる。
「嫌だ!!」
 白亜は蓮夜の手を振り解いてしゃがみこんだ。
 すべてが視界から消えた。
 暗闇の中に放られたことを知った。
 脳裏に過ぎったのは、夜人の部屋から現れた白亜が同じように苦しげな様子を見せたこと。自分もあのようになってしまったのだろうかと虚ろな気持ちで考える。
 なに一つ判然としない闇の中。ぼんやりと浮かび上がった女性の姿に息をのんだ。
 闇の中から白亜を見つめていたのは伽羅だった。
 白亜は顎を引く。
 まだ、もう少し。と、そう強く思って唇を噛み締め、必死で逃げようとした。
 単なる幻なのかもしれなくても、白亜は伽羅から逃げようと意識を向ける。
 蓮夜の部屋の前で。廊下にしゃがみこんでいる自分を確かに感じているのに、それとはまた別の場所で伽羅と対峙している自分の存在を感じる。
 すべてを繋ぐのは黒い宝石。
 無意識につかんだ宝石は鳴動していた。
 白亜はかたく瞳を閉ざして荒い呼吸を繰り返す。手放せばすべての苦しみから解放されると本能で知っていたけれど、それはできない。白亜にはそれに縋る方法しか知らない。それしか、夜人を助ける方法がないのだから。
「夜人……」
 胸中で呟いたのか、声に出していたのか、分からない。
 ただ、目的を見失わないために強く名前を刻んだ。
 目頭が熱くなって涙が滲む。
 意識をこちら側に戻そうと、白亜は強く拳を握り締めた。

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