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第三章

 【四】

「助ける価値があるものなんて、どこにもない」
 ずいぶんと長い沈黙のあとに届いた蓮夜の声。深い絶望と共に吐き出された言葉は白亜のなかで重たく渦巻く。
 蓮夜の深紅はいらぬ記憶を呼び起こす。
 部屋にこもる濃厚な血臭と、倒れた体。
 それを変えるために私は今ここにいる。ねじれたメビウスを正して本来の道に戻すために。それ以外に白亜の存在理由はない。
「価値は――」
 なにを言えばいいのか。分からなかったけれど、ここで黙り込んでしまってはいけないような気がして口を開いた。
「価値なら私の中にある。意味だって――ないものなんて、一つもない」
 たとえ単なる酔狂で助けられ、気紛れに摘み取られてしまうような命であっても、あの時に助けられた事実は揺るがない。
「貴方が助けた命は必ずどこかで何かを変える」
 生きているという事実こそが、今の白亜の真実だ。
 もしも彼が酔狂を起こさなければ、今この場所に、この考えを持った白亜は存在していないのだから。


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 鮮やかな光を振り仰いで腕を翳した。
 胸を圧迫するかのように濃い酸素。深く浅く、調整しながら呼吸を繰り返す。
「ぼんやりしている暇などない」
 カツカツと規則的に石畳を鳴らしていく靴。
 硬い音を聞きながら、白亜は腕を下ろして振り返った。
 いつも以上に険しい顔の蓮夜が近づいてくる。彼はそのまま白亜を通り過ぎて背中を向ける。振り返ることも、歩みが止まることもない。
 白亜が今いる場所は、紅葉たちが遊ぶ箱庭とは全く異なる場所だった。子どもたちの姿を見ることはない。教会の外側に位置しているため、教会内部を通って牧師を顔を合わせることもない。このような抜け道があったのだと嬉しい発見だった。
「不備はないな?」
 黒光りするリヴォルバーの銃身を指して蓮夜が口を開く。訊ねるよりは確認に近い。恐らくここで白亜が否を告げても蓮夜は待つことなどしない。容赦なく置いていくだろう。
 白亜は緊張した面持ちで頷いた。
 新たに与えられた武器は白亜の懐に収められている。蓮夜がなにを考えているのか分からないが、それでも武器を与えられて安堵した。射撃の腕が周囲に遠く及ばないとしても、なにも持たずに敵陣のなかで過ごすよりはいい。そして気付かされるのだ。すべてを夜人に頼って生きてきたのだと。夜人がいない今は、自分ですべてを守りきらなければならない。
「邪魔だと感じたら容赦なく撃つ」
 本気でそう思っているだろうことが感じられて、白亜は蓮夜の背中を追いかけたまま小さく頷いた。誰が殺されてやるものかと視線でぶつけてみる。彼が振り返ることはなかったのだけれど。
 ――組織の居住区に蓮夜の部屋はあった。
 居住区とはどこからどこまでを指して呼ぶのかは分からないが、蓮夜の部屋はその居住区の最端にあった。彼が所有する部屋数は多く、その辺りには誰も寄り付かない。この組織では馴れ合う者の方が稀らしい。
 白亜は周囲を観察しながら眉を寄せた。見慣れぬ渡り廊下を抜けると強烈な光が差し込んできた。常に薄暗い部屋で過ごしてきた白亜には痛いほどの眩しさだ。やはり腕を翳さずにはいられない。
 途中から廊下を外れて草花が咲き乱れている庭を横断した。いくつもの角を曲がり、高い塀を見上げ、さてここはどこだろうと脳内地図が役に立たなくなってきた頃。どこかで見たような風景が目の前に広がった。
 昼の強い陽射しの中、廃墟と呼んでも頷ける建物が前方に見えた。
 右手にはどこまでも高い塀がそびえている。左手にも、それには及ばないまでも高い塀がそびえている。塀は廃墟と繋がっているようだった。一定間隔で細かい装飾がされている。
 見たことのある細工だった。
 どこで見ただろうと首を傾げ、戦慄と共に思い出す。
 教会に施されていた装飾と同じだ。では、あの廃墟のような建物は教会なのか。いつも箱庭から見上げたことしかなかったから、反対側から見た教会が廃墟に見えたのか。では、この道は、養護施設へ向かうために通った道なのか。
 目まぐるしく白亜の脳裏に地図が展開される。
 太陽は天頂にあったので影は短い。もし黎明と黄昏の時間帯なら、塀によって飲み込まれるほど濃く長い影ができていたであろう。
 ふと――なぜか胸が騒いで落ち着かなくなって、白亜は辺りを見回した。
 前を進んでいた蓮夜が笑う。純粋な笑みではなく、どこか揶揄交じりな笑いだ。喉が鳴る。
「あまり不審な行動は取らないことだ。平常ならばともかく、今はでかい仕事の前だ。いつ撃ち抜かれるか分からないぞ」
 そんな一言に白亜は双眸を瞠って唇を噛み締めた。
 大勢の視線に晒されているような不快感。それは比喩ではなく現実のものだ。
 肌が粟立ち、視線を前に固定した。巡らせてしまいそうになる首を、意識して元に戻す。
「この組織にいる限り、常に監視と制限がつきまとう」
 そこで牧師の瞳を思い浮かべてしまったのは無意識下での反発なのか。
「なら、蓮夜はどうして言いなりになっているの。そんな危険を背負ってまで、助けたのはどうして」
「俺たちに行く場所などないだろう」
「どうして紅葉を助けたの! 殺されもせず、ただ閉じ込めて……!」
 蓮夜が紅葉を攫わなければ、このような場所を知ることはなかった。夜人を知ることもなかった。
 母とはぐれて撃ち殺されるはずだった紅葉。
 男たちによって嬲り殺されるはずだった白亜。
 蓮夜は知らず一つの命を守り続けていることになる。そのことが、紅葉と白亜を繋ぐメビウスを維持するとは知らないまま。
 ――蓮夜を殺せば、このメビウスを壊すことができる。
 これまで何度か思ったことが、再びここで浮上した。
 白亜は蓮夜の背中を見つめる。
 以前の白亜はどうしただろう。やはり同じように考えたのだろうか。それならば今このように考えてしまうのも、定められたことなのだろうか。もう一度過去に跳べば、或いは変わるのだろうか。
「なぜお前が紅葉のことを知っている?」
 服の下で沈黙を続ける至高の宝石に手を伸ばしかけていた白亜は息を呑んだ。
 いつの間にか養護施設を通り過ぎ、目の前には教会があった。その前で蓮夜が振り返っている。彼の瞳は昏い光を宿していた。
 返答もできぬまま、白亜はただただ圧倒された。

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