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第四章

 【二】

 白亜は組織のなかを歩いていた。
 惨劇から生きて戻り、すべての穢れを洗い落としたけれど、記憶までは流せない。いつの間にか与えられていた白亜専用の部屋はまるで独房のようだ。白亜はひとりの時間に恐怖を覚え、いつの間にか徘徊していた。
 蓮夜も夜人もいない。たった一人だ。
 護身銃のように馴染んできてしまった銃を、不備がないか念入りに点検する。そうして再び懐に忍ばせる。
 瞳を閉じれば、先日の暗澹が牙を向きながら甦ってくる。とてもではないが眠れない。今はいったいいつなのだろう。いつまであのようなことをしていなければいけないのだろう。
 心は急くが体が動かない。
 中庭まで歩いてきた白亜はぼんやりと空を見上げた。
 壁に囲まれたこの中庭は、紅葉として遊んでいた箱庭よりも空が狭い。それでも瞬く星のきらめきは同じだ。見上げていると涙が浮かんできた。
 空を赤く染めた炎。吐き気を催す強烈な死臭。耳の奥で響き続ける様々な銃殺音。
 賑やかに歓談していた人々が豹変する様は、いま思い出しても恐ろしい。生きようと必死になる様子が瞳に焼きついている。白亜はその様子を思い出し、更に視界が滲むのを感じた。
 どうにもならないのだ。きっと自分は大きな流れの中にいて、いくら泣き騒いだって何も変わらない。
「変えたいなら、変えようとしなくちゃ……」
 いつだったか、伽羅に向けた言葉をもう一度声に出した。
 あの日は遠い過去のようだ。伽羅の笑顔すら霞んでしまう。
「夜人……っ」
 名前を呟くだけで熱いものが競りあがる。
 白亜は拳を握った。鼻の奥が痛みを訴えてくる。
 今の夜人は白亜を紅葉だと認識していない。当たり前だ。侮蔑も露に睥睨され、組織の人間という、ただの塊としてしか見ていない。気付かれては困るわけだが、やはり好きな人に冷たくされるのは哀しい。夜人が大切にするのは紅葉だけだ。その紅葉は自分なのだからいいじゃないかと理性で納得しようとするのだが、感情は別物らしい。夜人の後姿を見るだけで胸が苦しくなる。
「……ふっ……」
 空を見上げていても思い出すのは夜人ばかり。
 自分らしくないと嘲ってみるのだが、衝動は強まってくる。
 紅葉ばかりを追いかけ、白亜には気付きもしない夜人。悔しくて哀しくて、唇を噛んだけれど嗚咽が洩れた。過去に自分に嫉妬してしまう。それが本当に奇妙で悲しい。
 白亜は空を仰いでいた顔を俯けた。静かに涙を流した。
 無理に堪えようとすれば息が苦しくなって、胸も苦しくなる。涙を止めようと擦ったら跡が残ってしまう。だから、流れるままに、ただ静かに流し続ける。
 俯いていると地面に落ちていく自分の涙が見える。それを眺めていると次第に熱が引いていき、涙も自然に止まってくる。
 すべて、ここで流しきれてしまえばいいのに。
 紅葉や夜人を見るたびにまた衝動に駆られるのだろうなと、自嘲気味に思った。
「夜人……」
 泣いたためか、熱くなった吐息を洩らして。
 痛みが、あった。夜人が殺されたあの場所に現れたときからずっと、波のように潜んでいた痛み。引いた波が再び寄せてきたのだ。不安に駆られたのも一瞬で、白亜は鋭くなった痛みに目を瞠った。
 双眸を大きく見開いて、意味なく周囲を見渡し、心臓に手を当てて息を殺す。
「……かっ」
 息ができない。体が千々に引き裂かれていく。自分という存在が消えていく。
 拳を強く胸に押し当てると、その下で何かが存在を主張した。白亜は痛みで虚ろになりながらも無意識で手繰った。眼前にそれを翳す。
 伽羅から奪った漆黒の宝石がそこにあった。
 炎のなかにあるかのように曖昧に色を反射させ、形を崩れさせて。その中には小さな小さな石の欠片たちが封じ込められている。サラサラと音を立てて流れる砂は、瞬間ごとに色を変えてきらめいている。
 白亜の命をそのまま写し取ったかのようだ。丸い珠に封じられた無数の砂は、珠の内側を絶えず巡っている。
「伽羅……」
 喉を過ぎ去っていく自分の吐息をうるさく感じながらその宝石を握り締めた。
 凍えるように冷たく、燃えるように熱く。
 対極にあるはずの感覚が白亜の手に伝わった。そうして白亜は、蓮夜の部屋の前でも同じ症状に陥ったことを思い出した。
 痛みのせいで頭に靄がかかったようだ。ギリギリと締め付けられるような心臓の痛みに脂汗を流しながら、白亜はその場に倒れこむ。しかし意識はあるのだ。いっそのこと気を失ってしまいたいと思うような激痛に苛まれながら、白亜は必死で宝石を握り締める。それしか縋れるものがなかったからだ。
 蓮夜の部屋の前では、伽羅が近くにいた。
 ではきっと今回も、近くにいるのだ。そうして、宝石を奪った自分を捜しているのだ。怒りを伴いながら。
「まだ、駄目よ、伽羅」
 この宝石は、触れてはいけないものだ。なんとなくそう思う。この痛みは、触れてはいけないものに触れてしまった罪なのだと、ストンと納得できた。
 開けてはいけないパンドラの箱。
 その話は夜人から聞いたのだろうか。
 高くそびえる塀のそばで、白亜は宝石をつかみながら小さく震えた。
 痛みは徐々に引いていく。まだ最期のときではなさそうだ。最期のときは、夜人を助けた後でなければならない。
「どうしたの?」
 体を起こし、伽羅がここへ来る前に離れなければと思っていた白亜に、声がかけられた。きっと二度と聞くことはないと思っていた、幼い声だ。
 白亜は目を瞠る。唇を震わせる。見てはいけないものを見るように、恐る恐る振り返る。
 クルリとした瞳を白亜に向け、不思議そうに、心配そうに、首を傾げて覗き込もうとする少女。里親に貰われていったはずの、麻奈だ。
「痛いの?」
 小さな手が伸びてこようとする。その、何の穢れもない温かな手に、触れられることをためらった。
 勢いよく麻奈の手を叩き払った。
 小さな双眸が驚きに瞠られる。白亜は怯えて後退した。
「伽羅を呼んでいたのは、貴方でしょう?」
 白亜は息を呑んだ。凄まじい勢いで過去の麻奈の甦る。そして、答えを見つける。
 明日、私は紅葉と出会うことになる。私の記憶が正しいのならば。そして、時が、私の記憶通りに進もうとしているならば、きっと私は紅葉と出会う。
「貴方の名前は?」
 白亜がしっかりと立ち上がったことで少し安心したのか、麻奈の疑問は白亜自身に移っていた。名前を聞かれた白亜は、いつも麻奈と話すように気軽に口を開こうとし、気付いて唇を閉ざした。
 記憶の正しさなど求めていない。求めるのは新しい記憶だ。
 白亜はかぶりを振って後退した。麻奈の瞳が訝るような光を帯びる。
「……どうして、こんな夜中に外に出ているの」
 今は夜だ。子どもたちの勝手な行動を、組織が認めているとは思えない。脳裏に管理人の姿が浮かぶ。
 自分自身に対する問いかけを逸らしたくての言葉だったが、麻奈はその一言に顔を強張らせた。麻奈の表情は見る間に歪んでいく。白亜は思わず慰めようと口を開いたが、やはり言葉が出てくることはなかった。
 私は何て薄情なのだろう。
 自分の浅ましさに吐き気がする。
「私は、みんなの中で一番のお姉ちゃんだから」
 顔を俯けて麻奈が呟いた。
「左京がね、ここを出て行ったの。みんなは泣いちゃって凄かったんだけど、私は、お姉ちゃんだから……っ」
 小さな瞳は見る間に潤んで、小さな体が震えだす。みんなのいるところでは泣けないからと思って出てきたのだろうか。大人の目を掻い潜って、外へ。
 白亜は息をつまらせた。
 うなるように泣き出した麻奈を、力いっぱい抱き締めて背中を撫でた。
「偉いね、麻奈は。でもここには誰もいないから。泣いても平気だよ」
 突然抱き締められて驚いたのか、麻奈は硬直していた。しかし白亜がそう囁くと、一度大きく声を詰まらせ、そして大声で泣き出した。すがり付いてくる小さな体を精一杯抱きしめて、白亜もその顔を歪めた。
 どうして、だろう。
 なぜこんなに泣きたくなるのだろう。
 この世界には悲しいことが多すぎる。
 白亜は麻奈の背中を撫でながら瞳を熱くさせた。麻奈の泣き声に紛れるように、小さく哀咽の声を洩らした。

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