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第四章

 【三】

 子どもの体温は高い。しゃくりあげる麻奈を抱きしめているとかなりの熱さだ。
 しかしその体温は白亜を落ち着かせ、この世界での孤独さも和らいでいった。
 腕におさまる小さな存在。胸に湧いたのは母性本能というものなのかもしれない。このまま眠ってしまってもいいような、そんな穏やかな空気が満ちる。
 麻奈と白亜と、次第に落ち着きを取り戻して離れようとしていたときだ。
「麻奈」
 感情を含まない固い声が聞こえた。
 二人は勢いよく振り返る。特に麻奈は慌てて涙を拭った。恐怖心を溜め込んだ瞳をそちらに向ける。傍にいた白亜だからこそ分かる、青褪めていく麻奈の顔。
「ご、ごめんなさい」
 月明かりに照らされながら進み出てくる影があった。そびえる壁の影から現れた人物に白亜も息を呑む。それは、養護施設で出会った女性の管理人だった。
 均整の取れた長身で白亜たちを睥睨する。月明かりのなかで緑青の長い髪は、冷たい光を反射していた。全身が漆黒で固められている。何者の支配も受け付けぬようだ。蓮夜や牧師にもある、その人物だけが持つ存在感に溢れている。
 彼女の瞳が白亜を見咎めた。なぜ貴方がここにいるのだと、不審も露な瞳だ。
 白亜は慌てて立ち上がる。麻奈の視線も振り切って離れようとした。
「待って!」
 麻奈の声に、振り返ることができない。
 ――私がここに存在しているのは夜人のためだと決めた。夜人を助けるため以外の者には関わらない。私は紅葉ではないのだから。
「また会えるっ?」
 必死で縋ろうとする麻奈の声に胸が痛んだ。
「名前教えてっ」
 麻奈はいずれここから出て行く身だ。何も知らない方がいい。
 白亜は耳を塞ぎたい気分になりながら黙っていた。
「明日、教会で待ってるからね!」
 沈黙に恐怖を煽られたようで、麻奈の声は悲鳴のようだった。追いかけないのは管理人が抑止力となっているからだろう。白亜は微かな安堵も含めて足を早める。
 教会になんて行かない。そこには紅葉がいて、メビウスは加速していくのだ。そんな記憶通りの未来はいらないから、教会には行かない。
 伽羅が直ぐ近くにいて、宝石は嬉しそうに力を発揮する。この命が尽きてしまう前に、断ち切ってしまわないといけない。
 麻奈に何も返すことなく、白亜はその場を離れようとした。
「白亜」
 心が冷えた。
 思わず振り返ると、先ほどの位置と変わらぬ場所から黒い影が白亜を射抜いていた。その瞳は蓮夜と同じだ。何の感情も含まないくせに、とても強い力を持っている。白亜の顔色を失くさせるには充分だ。
 麻奈が首を傾げるようにして管理人を見上げていた。
「蓮夜の好意を無駄にしないで」
 麻奈がいる前で何を言うんだと目を瞠るが、女性に白亜の心は伝わらない。
「夜人にはすでに紅葉がいる。自分の立場を考えてみることね」
 声は意外にも女性めいて優しい。しかしそこに含まれているのは警告だった。優位を確信している者の嘲笑だ。
 しばらくそのまま睨み合い、先に視線を逸らしたのは管理人の方だった。彼女は麻奈に視線を戻す。麻奈の体が一瞬怯える。
「皆が麻奈の帰りを待っているわ。左京とは永遠に会えないわけでもない。もう泣くのはやめるのね」
 麻奈に手を伸ばし、小さな手をつかんだ。
 管理人の瞳がそれ以降、白亜に向けられることはない。麻奈をつかんだまま施設へと歩き出す。麻奈が戸惑うように管理人と白亜の姿を見比べていたが、その姿もやがては小さくなって消えていく。
 二人が視界から消えても、白亜はその場から動けなかった。


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 白亜に用意されていたのは、紅葉に用意された部屋よりも格段に大きな部屋だった。それは快適さを約束されていたが、狭い部屋に慣れてしまった白亜にとっては寂しさをもたらすだけの部屋だった。
 無駄に大きなダブルベッドに転がってため息を零す。体が沈むほど柔らかいこのベッドは体に合わない。どこまでも沈んでいきそうで、息が詰まる。朝になったら窒息してそうだ。
 体は疲れているというのに神経が冴えていた。研ぎ澄まされて、覚醒を訴えてくる。
 このまま黙っていると再び胸の痛みに襲われそうで、白亜は起き上がっていた。理性ではなく感覚が、このまま眠るなと言っているようだ。そんな馬鹿なと一笑しながらも、眠れないのは事実であるため、仕方なく寝台から下りた。
 ――会いたい。
 誰に? 決まっている。
 服の下で存在を主張する宝石を確かめ、白亜は部屋を見渡した。
 広い部屋、広い寝台、手の届く位置につけられた大きな窓。夜だというのに窓の外は明るい。篝火が焚かれているようだ。誰かがいるのかもしれない、と興味半分で窓に近寄り、鍵を開けた。
 窓を開けた白亜は一瞬、その場所が何を行う場所なのか、理解できなかった。
 窓はずいぶんと重たく厚く、防音がしっかりとなされていた。もしかしたら防弾の意味もあったのかもしれない。窓を開けたとたんに様々な音が飛び込んでくる。
 目の前には広場があった。四方は壁で囲まれている。それぞれに窓がつけられているから、白亜と同じような部屋があと三つあるのだろうと思う。それらはピタリと閉じられている。
 開けなければ良かった、と直ぐに後悔した。
 焚かれていた篝火は四つ。広場の隅に一つずつともされている。そして、盛る炎と同じ勢いで消えていくのは、広場の中心に据えられた人々の命。
 窓の向こう側は処刑場だった。
 壁は元の色が何だったのか連想できぬほど染み込んだ血で汚されている。黒々とした飛沫がそのまま残されていた。壁に背中を向け、目隠しをされ、後ろ手に縛り上げられて銃を向けられる。そうして断行される銃殺刑の位置には白骨化もしていない遺体が転がっていた。
 殺された後は埋葬もされず、ただその場所に転がされていくらしい。そして、次に処刑される者の足に踏まれるのだ。近くには何に使われるのか想像もしたくない大きな穴があいていたが、白亜はそれを見ることなく顔を背けた。
 込み上げてくる気持ちの悪さに口を押さえる。耳の奥に刻まれた人々の阿鼻叫喚から顔を背ける。そんなことをしても逃れられるわけはないのだけれど。
 組織で血生臭い知識を養うのには事欠かない。主にそのような知識を与えるのは蓮夜だったが、あれは紅葉に対する戒めもあったのだろうと今更悟った。話には聞いていた処刑場だが、話だけのときと、目で見るときとは、まったく違う。
 力任せに窓を閉める直前、広場を挟んだ向かい側の窓に小さな影が過ぎった気がした。窓に遮られたため影の行動を見ることはできなかったが、向かい側の影は窓を開けただろうかと視線を揺らせる。そしてその影もまた何も知らず、この場所を見るのだろうか。
 何となく、白亜はその小さな影が、箱庭でいつも遊んでいた子どもたちの誰かに重なったような気がして視線を落とした。確かめるために窓を開ける勇気はない。
「なんで……」
 ずるずると床にしゃがみこむ。
 体は重くてだるい。眠ってしまえば楽になると知っていても、神経は冴えたままだ。白亜は顔をしかめながら額に手を当てた。
 無抵抗の人間を、何の感情も持たぬ瞳で見下ろしながら引き金を引くようになるのだろうか。
 誰とも知れぬ処刑人が蓮夜の姿に重なり、白亜は奥歯を噛み締めた。
 きっとここは、組織の裏切り者たちに対する処刑場なのだろう。もし組織外の人間を殺すのなら、わざわざこの建物に連れて来る必要はないはずだ。組織を裏切れば、誰であろうと末路は同じ。そんな戒めを刻むために、組織はこの部屋を与えたに違いない。
 広場に面した部屋にいる者は皆、同じ思いを味わうのだろう。決して逃れられない罪に迷い込んだ仲間たち。
 夜人も――組織に連れて来られた初めの段階は、この部屋で過ごしていたのだろうか。
 白亜は顔を上げて、ふとそう思った。

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