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第四章

 【四】

 目覚めた白亜は恐怖に縛られて動けなかった。
 見上げている天井は高く、包まれている布団はこの上なく柔らかい。極上の物だ。けれどその柔らかさは白亜を飲み込んで埋もれさせるような錯覚を与えるもので、想像上の息苦しさに襲われていた。
 昨夜はその寝心地の悪さにためらっていたというのに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。図太い神経なのかもしれない。
 天井にポツポツと宿る染みが、まるで、誰かが流した鮮血のようだった。
 白亜は双眸を見開いたまま微動だにできない。荒い呼吸を繰り返し、忙しく周囲に視線を配り、自分が汗をかいていることに気付く。全身が強張っていて、意識しないと起き上がることができなかった。
 白亜は恐る恐る両手に力を込めて起き上がる。壁伝いに視線を移していくと大きな窓が目に入った。その瞬間、食道を競りあがる熱いものを感じて、白亜は慌てて視線を逸らした。瞳を閉じる。
 窓の向こうには誰もいない。私は何も見なかった。
 そう唱えて忘れようと努める。思い出したくないのに甦り、窓向こうの景色と重なり、恐らく夢にまで及んだのだろう。起き抜けが悪いのはいつも夢のせいだ。
「誰か……」
 体が震える。声が潰れる。涙が溢れて止まらない。
 幼い頃、蓮夜に攫われてきたときよりも強い恐怖を感じた。自分にはまったく関係ない人たちが死んでいくことを、なぜこんなに悲しまなければいけないのか分からない。なぜこんなにも恐ろしく思うのか。
 白亜は静かに涙を零しながら震え続けた。
「夜人……っ」
 悪夢を見た朝は必ず彼が傍にいてくれた。白亜となった今は誰もいない。それが酷く悲しい。
 しばらく泣き続け、やがて体の震えもおさまってきた。白亜はようやく寝台から下りる。
 素足に石床が気持ち良い。体が火照って落ち着かない。まるで熱を出しているかのようだ。白亜は夢遊病者のように足取りを定めないまま歩き出した。胸元に手を当てるととても熱い。伽羅から強引に奪い取った宝石が熱を放っている。あの悪夢にはこの罪悪感も関係しているのかもしれない。
 扉を開いた白亜は、着替えることも忘れたまま廊下を徘徊する。唯一覚えた外への道順を辿り出す。
 ――人に、会いたい。
 生きている人間に。
『妾たちはこの世界が好きなのじゃよ白亜』
 唐突に、伽羅の言葉が蘇った。
 彼女の声と言葉に白亜は瞳を熱くさせる。どんな気持ちで言ったのだろうか。彼女の心を覗くことはできないが、今なら想像できるような気がした。
 こんな風に恐ろしく、弱気になっているとき、自分に変化を与えてくれるこの世界が欲しい。自分が生きている限り与えられる変化。それは、自分と同じ人間によってもたらされるものだ。決して失いたくないと思う。
 自分にとってそれは夜人だ。限りなく、自分に変化を与えてくれる人間。
 決して失いたくない。
「私も、好きだよ、伽羅」
 ポツリと呟いた。
「大好きだから.失いたくない」
 重たい体を引きずるようにして、白亜は外に抜け出した。組織の者が普段着としている麻の服を身にまとい、裸足のままで芝を踏む。汗をかいたままで、風が心地よかった。漆黒の髪を撫でていく。
 白亜は重く垂れ込めている空を見上げて大きな深呼吸を繰り返した。
 いま、自分が生きていることが嬉しい。
「私も、この世界が好きだよ、伽羅」
 夜人がいるから。麻奈がいるから。母がいて、子どもたちがいて、自分という存在を受け入れてくれる誰かがいる。そう思えば、殺意を向けられることすら何とも思わない。それは自分がここにいるという証だから。
「よしっ」
 白亜は脇をしめて拳を握った。両手を空に透かしてみた。
 昇り始めた太陽の光が眩しくて瞳を細める。今は夜空など想像もつかないけれど、いつだったか夜人に、満天の夜空を見せてもらった。誰もが眠っているだろうときを見計らって建物を脱走した。
 初めて見る夜空に寒さも忘れて魅入り、光を数えていた紅葉に、夜人は嬉しそうに教えてくれた。星の瞬きは太陽に紛れて昼間は見えないけれど、消えたわけではない。空の向こうには確かに、百億という光たちが潜んでいるのだと。
 白亜は笑みを浮かべた。腹の底から活力が湧いてくる。ゆっくりと瞬きを繰り返す。
 白亜はそのまま、右手にそびえ立つ教会の塀を伝って歩き出した。


 錆び付いた扉を開くことができるのは、きっとこの世界でタダ一人、私だけ。


 耳障りな音を響かせながら、教会の扉を押し開けた。
 ここに来るまでに養護施設を通り抜けた。子どもたちは箱庭で遊んでいる時間帯なので、養護施設からは何の声も聞こえなかった。管理人の姿も見えなかった。
 組織の中から常に監視を受け持つ者たちの視線が突き刺さっただけだ。しかし教会の中に入ってしまえば、そんな視線も気にならない。
 白亜は入った途端に薄ら寒さに襲われて、小さく体を震わせた。太陽の光はここにない。この場に漂うのは、年中変わらぬ、清浄化された空気だけ。旧時代の遺物と化した機械が、この教会ではまだ稼動しているのだという。
 空気は一定の密度に保たれている。息苦しくて肺が圧迫される。
 足を踏み入れた白亜はぐるりと内壁を見渡した。自分の真向かいにあたるステンドグラスに視線を奪われた。
 巨大な十字架にはりつけられた、見も知らぬ偉人。巨大なオブジェが掲げられている。
 白亜は幼い自分を思い出しながら十字架を見つめた。瞳を細めて吐息を洩らす。はりつけにされ、ここから逃げられないのだと、示唆されていた。現状はそんなに変わらない。似たようなものだ。白亜はここから逃げられない。けれど、昨日までとは気持ちが確かに違う。自ら進んで紅葉に会い、そして彼女と共にここを逃げ出す。出会わずに過去を変えるのは不可能なような気がした。それこそ、ただ現実から逃げているだけのように思えた。
 独特の旋律で紡がれ続ける賛美歌。
 誰が歌っているのか分からない。これも機械によるものなのかもしれない。小さな子どもたちが純粋な声で歌っているようだ。教会内に響き渡る。
 カツンと響く、それまで聞こえていた音とは異なる、異質な音に気付いた。
 白亜が顔を向けると牧師の姿が見出せた。彼はわずかな光が差し込む場所に佇み、帽子を目深く被っていた。青い礼服を身にまとい、やはり難しげな書物を胸に抱いている。
 言葉は何もない。けれど彼がいつもより剣呑な雰囲気を漂わせているようで、白亜は視線を牧師に固定したまま近づくのを黙って見ていた。
 そして彼が一定の距離まで近づいたときだ。
「私に戦い方を教えて」
 何の気負いもなく、白亜はそう口を開いていた。
 牧師の足がピタリと止まる。
 顔を上げ、帽子の奥に隠れていた双眸が白亜を捉える。
「なんだと?」
 低く押し殺された声がもれ聞こえた。
 向けられた視線は凍てつくように鋭く冷たいものだ。白亜は全身の血が一気に下がっていくのを感じる。けれど動揺は浮かばない。次の瞬間にも殺されるかもしれないと思ったものの、なぜか心臓は静かなままで、白亜は牧師に挑み続けた。
 牧師は探るように白亜を見つめる。しかし何の他意もない言葉には、探られて困るようなものなど入っていない。
 ――疑心暗鬼と殺戮のみに囚われて。
 哀れだと、そんな感情が湧いたのかもしれない。白亜の瞳がわずかに違う光を宿したことに、敏感に気付いた牧師は射殺すような視線を向けた。
「組織の結束を脅かすような要素など認められん。いますぐに出て行け」
 分厚い聖書を脇の机に静かに置く。牧師の声も静かだった。白亜は思わず笑みを零す。
「殊勝な言葉が出たものね。今まで私を殺そうと疼いていたのは貴方じゃないの。それとも、もう私を殺そうという気はなくなったの」
「黙れ。小娘が」
 白亜の声を消そうとするかのような、強い声。同時に、白亜が立つ付近の床が抉れた。細かい破片が飛んでくる。
 白亜は素早く視線だけで被害を確認した。自分には何の害もないようだ。再び視線は牧師に戻る。沈黙が下りた。
 本当は直ぐにも殺したいのだろう。牧師の手に力が入っていることが分かる。
 ――けれど、殺せない……?
 蓮夜と牧師が親しげに会話していたことを思い出す。養護施設の管理人も脳裏に浮かんだ。
 危うい均衡のなか、きっと私はまだ生かされている。
「何が目的だ」
「言ったでしょう。私は組織に入りに来たの」
 胸が軽くなったような気さえして、白亜は微笑みを浮かべた。
 牧師が憎らしげに舌打ちする。ゆったりした袖に手を隠し、クルリと白亜に背中を向ける。置いていた聖書を持って、歩き出す。
「どこに」
「人が来た。お前にかかずらっている暇などない。腕を磨きたければ仕事をこなすことだ。実戦を生き残れば腕は勝手に磨かれていく」
 帽子を深く被りなおした牧師は、そのまま白亜の横を通り抜けた。彼の言葉は鋭い針だ。耳を深く抉られる。
 白亜は遠ざかる彼の姿を見つめながら拳を握り締めた。
(なんだって、するもの)
 固く誓う。
 少し歩いてステンドグラスの真下に入り、見上げる。
 はりつけられた、偉人。
 白亜は瞳を閉ざした。

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