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第四章

 【五】

 ひとたび静寂に包まれると封じ込めていた様々な想いが過ぎていった。浮かんでは消え、浮かんでは消える。忘れるなと囁かれる。現状に満足するような“白亜”は要らないのだと、湧き上がってくる誰かの意志。
 そう感じて妙な気分に陥った。
 “私”という中に“誰”の意志が入り込めるというのだろう。メビウスのなか、何度も過ぎていった“白亜”という名の残滓なのかもしれない。夜人を失う痛みをもう一度味わいたくなどない。だから、そんな残滓は掻き消して。
 夜人の未来を繋げるために。
 体が重たい。頭部が圧迫されているような感覚。
 それまで独特の音しかなかった教会内に、別の音が混じったことに気がついた。大きな両開きの扉が開かれ、外からの空気を招き入れる。むき出しだった肌に触れる風はとても優しい。
 白亜は瞳を開き、ゆっくりと振り返った。
 ――さぁ。最後のメビウスを巡らせよう。
「紅葉?」
 小さな存在に問いかける。
「白亜、さん」
 ですよね?
 白亜の問いに頷きながら、紅葉も問いかけてくる。自分と同じ存在に白亜は小さく頷いた。紅葉の目頭が潤んでいることに気付き、自分も同じだと思う。佇む紅葉は想像していたよりも幼く見えた。それが更に白亜の胸を抉る。夜人を殺す幼さなど消えてしまえばいい。
 いつの間に戻っていたのか、視界の端には牧師がいた。麻奈と囁き交わしている。そんな麻奈には昨夜泣いていた名残は見られない。それだけが今の白亜の救いだ。
「紅葉を連れて行くわ。いいでしょう?」
 ――牧師は私たちを殺せない。
 夜人と蓮夜と、二人に縛られ、さぞかし歯軋りしたいだろう。
 そう思えば牧師の存在も哀れに思えて白亜は奥歯を噛み締めた。この組織にいる者たちは皆そういう者たちばかりなのだ。何かの理由で切り捨てられ、組織でしか生きていけなくなった。すっかり秩序を失い混沌のただなかにある、荒れ果てた世界。
 “プロテスタント――反抗する者”
 唐突に蓮夜の声が甦った。
「敷地内から出ないで下されば構いませんよ」
 牧師の言葉に我に返る。彼は表面上、穏やかな仮面を被ったままでいる。帽子の奥から白亜を睨みつけていた。白亜も同じく彼を見つめる。
 なぜ彼が“牧師”なのか。白亜の思いはそんなところにまで及んでいた。昔、夜人に教わった知識の一部を甦らせる。内部分裂により二つに分かたれた、一つの宗教事情。神父ではなく牧師を選んだのは、もしかしたら、内なる反抗のあらわれなのかもしれない。
 紅葉に手を引かれて我に返った。
「明日またね?」
 驚く麻奈に手を振って、紅葉は白亜を引きながら外へ出た。
 外に出る一瞬。白亜には、麻奈が睨むように見つめていたのが心に刺さった。


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 教会から出ると眩しい日差しが瞳に突き刺さった。ずいぶんと長いこと教会にいたらしい。外を巡る風も穏やかだ。何もかも造られた教会内とはまったく違う雰囲気。
 同じことを考えているのか、隣で紅葉が伸びをした。おかしくて笑う。
「あ、ごめんなさい。あの、私、あのときお礼も言えなくて」
 どこかで聞いたような台詞に白亜は硬直して「そうだ」と思い返した。
 ここに来たのは同じことを繰り返させないため。なのにどうして同じことを繰り返してしまうのか。紅葉に会おうと決めたのは、繰り返そうとする彼女を止めようと思ったからだ。
 白亜は表情を強張らせたまま紅葉の言葉を遮った。
「覚えているわ。紅葉」
 そう。何もかも覚えていることと同じ。紅葉が次に言おうとしていることも知っている。
「あの……せっかく助けようとしてくれたのに、私捕まっちゃって……」
 ほら、と白亜は薄く笑みを浮かべた。すべてが記憶のままに再現されようとしている。そのことに奥歯を噛み締める。申し訳なく思っているようだが、過去の失敗として笑う紅葉に嫌悪感を抱いた。
「まったくだわ」
 冷ややかな声音は記憶と同じ。これではいけないと分かっているのに、出てくる言葉は白亜の記憶通りに進んでしまう。
「お母さんのところに帰りたい?」
「か、帰りたいっ。帰りたいよっ?」
 身を乗り出して大きく頷く紅葉の瞳には望郷が宿っていた。それは白亜の中にも小さく疼いている。昔、自分はこんな顔をして白亜の言葉に反応していたのだと、客観的に紅葉を観察しながら思わず笑みが零れた。
 顔が歪む。
 家族か夜人か。あのとき白亜は夜人を選んだ。紅葉はただひたすら、家族のもとへ帰ることを願っているのに、この必死さも後ほど変わってしまうのだろう。自分が薄情者のような気がした。
「帰りたいなら――なぜ逃げないの」
 紅葉は驚いたような顔をする。
「それは……、だって牧師が……」
 悔しそうに握り締められる拳。俯いた紅葉の脳裏には、牧師による殺戮が再現されているはずだ。恐怖に駆られている。
 “これ”は自分の過去の幻影。何を考え、どう動き、どんな言葉を放つのか、手に取るように分かる。
「貴方には必死さが足りないのよ紅葉。何かをしようと決めたなら、遣り通しなさ……」
 白亜は自分の言葉に目を瞠る。言いながら言葉は弱くなっていく。
 紅葉に告げた言葉は過去の記憶とは違うものだ。けれどそれは、自分には言う資格がないような気がした。意志薄弱なのは自分だって同じだ。
 強く唇を噛み締める。
「……やり通すよ。私はお母さんのところに帰るんだ」
 横から平坦な声が聞こえた。不意を突かれて振り返ると紅葉が佇んでいる。静かな瞳で白亜を見上げていた。先ほどとは雲泥の差だ。彼女の瞳には焦燥も気負いもない。
 ――自分はこんな瞳をしていたのだろうか。今もそれを私は持っているのだろうか。
 目の前にいるのは過去の自分だというのに、それはまるで異質なもののように感じられた。このように静かで強い力を持った瞳など知らない。過去が変わったのかもしれない。
「絶対、帰るんだから。だから、利用できるものは何でも利用するの」
 視線を逸らせずにいると、紅葉は不意に笑って続けた。
「もちろん、白亜も。私に協力させるの。ね?」
 少し砕けた口調で紅葉は白亜の腕を取った。覗き込むその表情は明るい。
「教えてよ白亜。私がお母さんのところに帰るにはどうしたらいい?」
「訓練を……」
 この女は誰だろう。
 心の片隅でそう思いながら、白亜はそれだけを絞り出す。紅葉は小さく首を傾げた。
「どうして白亜は……私を助けようと思ったの?」
 やや茫然自失の状態で紅葉を見ていた白亜は瞳を瞬かせた。何を聞かれているのか分からない。それでも滑り出てくる言葉は、まるで決められていた呪文のようだ。
「なにか、一つくらい……組織に逆らいたいから。私と貴方は同じ――境遇だから」
 貴方は私なのよと告げることはできない。目の前で『母のところへ帰りたい』と訴える紅葉がまるで本当の自分ではないような気がした。親近感が唐突に消えた。
 口の中がカラカラに乾いていくのを感じながら、白亜は「手伝ってくれるのでしょう?」という言葉に微笑んだ。右手を差し出して握手する。
「ええ。今度は失敗しないようにね」
 この紅葉ならば。私とはまったく違う、この紅葉ならば大丈夫。
 そう確信して、白亜は微笑んだ。

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