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第五章

 【一】

 あの紅葉ならば大丈夫。あれは私とは違うモノ。違う強い考えを持ったモノ。どうしてあのように強い目が持てるのだろう。私はあんなに強くはなれない。それとも、自分では気付いていないだけなのだろうか。それとも、時を巡るほどに違う紅葉が育つのだろうか。
 巡り巡るメビウスリング――私の代で終わらせてやる。
 あの紅葉と私なら、きっとそれが出来る。それでもまだ足りない。メビウスを壊す決定的な歪みを与えるために、まだ何かをひずませなければいけない。きっと、夜人のそばにいればそれができる。すべてを知る私が彼のそばにいれば、彼に最悪の選択をさせることはない。
 白亜は唇を噛み締めて手を組んだ。一人になるとどうしようもない焦燥が育っていく。昼間に紅葉が見せた一途な強さは自分にはないらしい。どうすればあのような紅葉になれるのだろう。
 過去の自分を羨むのは間違っているような気がしたが、本当に羨ましいのだから仕方がない。部屋に戻れば不安が押し寄せる。押し潰されてしまいそうになる。せめて一目――会うことができたら、この焦燥は消えるかもしれない。彼が護る対象から“白亜”が外れていても、遠目から見るだけなら許されるだろう。
 我ながらずいぶん女々しいなと思ったものの、その希望に縋るように白亜は部屋を出た。
 横も上も石造りの廊下。不規則な幅と高さで、ときおり圧迫感が尋常ではない箇所も多くある。
 そんな廊下をひたすら歩く。十字路では直感に頼って曲がり、見たこともない奥深くまで迷い込む。いつの間にか自分が迷子になっていることに気付いた。いつまでも目的の場所に辿り着けない。
「ああもう。なんでこんなに覚えにくいのよここは! 同じ風景が続いてたら迷うに決まってるじゃないのよ馬鹿っ。目印に違う絵でも掛けてみなさいよって言いたいわ」
 人と会わないのをいいことに、白亜の声は音量を上げていく。苛立ちをおさえきれぬよう壁を蹴る。怒りに身を任せていくと気持ちが大きくなっていくような気がした。白亜は怒りを抑えようともせず、大股で廊下を闊歩する。
 それでも今まで燻っていた苛立ちから解放されたかのように感じて顔を上げる。大声がストレス発散になったのかもしれない。心が軽くなり、表情も明るい。
「そうよね。私は未来知ってるし、とりあえずあの場面にさえ……行かなきゃ、いいんだから……」
 思い出したらまた心が沈んでいく。慌ててかぶりを振って拳を握り締めた。
 深呼吸して強く願う。
 思う未来を強く脳裏に刻む。
「夜人が助かるためなら何だってするもの……」
 だから、いくら夜人に邪険にされようとまとわりつく。彼が助かるならそれくらい何でもないことだ。
 小さく呟いたときだ。
「あ」
 足を止めて声を上げた。
 今まで歩いてきた道と、目の前に広がる道を見比べる。複雑に分岐しているようだ。しかし、どこかで見たことのある光景だった。
「覚えてる、かも」
 良く脱走をしていた幼い頃。たしかにこの道を通ったことがある。
 そう思い出し、白亜は記憶を必死で掘り返した。
 誰もいない廊下。自分自身が小さかったため、狭い廊下の圧迫感は大したことには思えなかった。ただ、どこに行けばいいのか分からなくなり、声を出さずに泣き出した。
「確か、あのとき行ったのはこっち」
 もしかして訓練場と同じように、途中で道に細工をされているかもしれないと思ったが、見た限りでは記憶通りの道が続いていた。白亜は周囲を眺め、そして自分がこの組織内を自由に歩くのは今となっては禁忌でも何でもないと開き直って道探しに専念する。
 誰とも会わないことが非常に不思議だ。
 白亜となり、この建物で組織の一員として働くようになってから数日が経った。その間、今まで知らなかったメンバーに会ったのは数えるほどしかない。つい先日行われた大規模な殺戮現場では、あれほどの人数がいたのかと驚いたものだ。
 蓮夜と夜人以外の者には、大きな舞台のとき以外には会えない。こうして廊下を歩いていても誰一人としてすれ違わない。もしかして紅葉であったときに逃げ出していても、誰にも会わずに普通に脱出できたのでないかと思えるほどだ。実際には、逃げ出すとどこからともなく現われた大勢に押さえつけられ、紅葉は戻ることを余儀なくされていたのだが。
(絶対誰もいないように思えてたんだけどな。どこに潜んでたっていうんだろう)
 それとも、そんなことが出来るのが組織のメンバーなのか。白亜には理解不能だ。
「この角を曲がって、走って、突き当たりにぶつかって」
 幼いころ走った経路をそのまま辿っていく。行き止まりにぶつかると足を返し、また同じく辿り始める。
「戻って走って……こっちを曲がって」
 ドクンと心臓が音を立てた。幾度となく慣らされた発作の前兆かと息を止めたが、それは思い過ごしのようだった。安堵して強張りを解く。けれど、首筋を何かが這っていくような気持ちの悪さが込み上げてきて、体を震わせた。
 落ち着かなくて周囲を見渡す。もしかして伽羅が近くにいるのだろうか。
 そういえば彼女はどうやってこの組織内を徘徊しているのだろう。彼女はすでに紅葉と会ったはずだ。麻奈とも会っている。けれど、常に目を光らせている組織の監視者たちから逃れることは不可能に思える。たとえ伽羅が多少の不思議を操れるのだとしても、監視者の目に留まらないはずがない。彼女が組織の関係者でないことはすでに知っている。彼女がここにいるのは宝石のためだ。
 彼女による騒ぎが起こらないのは、なぜなのだろうか。
 そこまで考えていた白亜は、それまで聞こえなかった異質な音が聞こえてきたことで我に返った。視線を巡らせ、先ほど曲がった角を一つ戻る。
 ひどく不明瞭な音だ。大勢が一緒に喋っているような、喧嘩になっているような、雑然とした喧騒。
 近づくにつれて響く音が大きくなっていく。
「光……」
 暗がりの中で洩れてくる光はとても貴重だ。見る者の心を穏やかにさせるような、優しく淡い橙色の光だ。
 白亜は表情を明るくして歩調を速めた。
 しばらく進むと廊下に直接光が差していた。部屋があるのだと分かる。人の話し声もはっきりと聞こえてくる。かなりの数の人間がその部屋にいるようだ。
 一瞬ためらった白亜だったものの、自暴自棄とはまた違う開き直りと共に足を進めた。
 壁に手を掛けて、ヒョコリと顔を覗かせる。
「うわ……」
 見渡す限りの人、人、人。
 かなり広いと思われる部屋は人で埋め尽くされていた。あまりの熱気に、入ってもいないのに頭が揺れる。酸素が薄くて息切れまで起こしそうだ。
 白亜は軽く首を振って中に入った。
 大丈夫。
 そう暗示をかけて部屋を進む。
 何が大丈夫なのか分からないが、入ったとたん、悪寒に襲われて息を止めた。それでも挫けない。歩調はそのまま進んでいく。
 人々の視線が突き刺さるのが分かった。
 明らかに白亜は浮いている。一歩踏み出すごとに逃げ場がなくなって、追いつめられていくようだ。
 組織の休憩所なのだろうか。
 その部屋には実に多くの人々が集い、談笑していた。老人もいれば子どももいる。自分とさほど変わらないと思われる年頃の人物を見たときは辛くて視線を逸らした。
 なぜこんなに活気溢れる場所なのだろう。ここは人殺しの集う場所ではなかったのか。
 ごく普通の一般人にしか見えない人間たちを観察しながら、白亜は近くの席に腰掛けた。皆が一斉に注目する。流れる緊張感。けれどそれは長くは続かず、やがて人々は白亜から視線を外す。一つ二つと周囲の反応は戻っていく。
 このような場所に夜人がいるとは考えにくかったが、彼がいないだろうかと首を巡らせたときだ。
 ふと、白亜の横に誰かが立った。光が遮られて影が落ちる。
「ガキどもが来るには早ぇし外見が合わねぇな。誰の傘下だ?」
 巨体の男だった。蓮夜や夜人しか見慣れていなかった白亜は息を呑む。そして、あの二人はやはり特別だったのだと悟る。
 間近に迫る男の顔は、お世辞にも整っているとは言いがたかった。ギョロリとした目に分厚い唇。身を乗り出して徐々に迫ろうとする男に眉を寄せて顔をしかめる。彼からは蓮夜や夜人のように、澄んだ強さを感じさせない。汚く濁った汚泥のようだ。白亜でも簡単に組み伏せることができそうだった。
 顔の美醜ではなく、男から漂う臭気に嫌悪感を抱いた。
 思わず周囲に視線を逸らすと、ごく一部の人物たちが粘りつくような笑みを浮かべてこちらを見ているのが分かった。男の行動を咎めるわけでもない。まるで、この後に起こることを待ちわびているかのようだ。
 脳裏に響いた小さな警鐘に、白亜は両手を胸に引き寄せた。

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