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第五章

 【二】

「知らないのか海斗? また蓮夜が引き込んだと有名な女だ」
 男の体に阻まれて分からなかったがどこからか声が飛ぶ。悪意的に飛ばされた声に白亜は何も言えない。海斗と呼ばれた男は白亜に視線を戻すと微かに笑った。
 まともに焦点も合わせられないほど酒に溺れた男の唇。そこから吐き出される臭気に眉を寄せて瞳を細める。
「なるほど。今回は殺されずに気に入られたという訳か」
 ガシリと肩をつかまれ逃れることも出来ない。
「蓮夜のお気に入りがこんな所に一人でやってくるとはなぁ?」
 海斗の笑い声に、周囲の者たち数人の笑いが重なった。
 入口近くの一角で沸いた趣味の悪い喝采に、無視を決め込んでいた者たちも振り返る。
 ある者は鼻で笑い、ある者は睥睨し、ある者はにやついた笑みを浮かべる。一瞥しただけで興味を惹かれず再び無視を決め込んだ者もいた。
 好感が持てるとは言いがたい周囲の反応に白亜は顔を強張らせる。強く腕を握り込まれて悲鳴を上げた。
「何をするのっ?」
 睨みつけたけれど海斗は放さずゲラゲラと笑い出した。耳に残る、嫌な笑いだ。
「おい聞いたか『何をするのっ?』だとよっ」
 ことさらに大声で叫ばれ、白亜の顔は紅潮していく。殺意には何度も立ち会ってきたが、このような悪意を向けられるのは初めてだ。どうしたらいいのか分からない。慣れるはずもなく、ここの空気は吐き気がするほど自分に合わない。
「色っぽい姉ちゃんはさすが、言うことも違うねぇ」
「違いねぇや」
 男たちは再び笑う。白亜は悔しさに顔を歪ませた。
 この状況下で少しでも負担を和らげるために『私って色っぽかったんだ』と内心で驚いてみたりするが、真に受ける訳もない。彼らの言葉がこちらを貶めるような響きを含んでいるのは明らかである。
「あの機械人形の相手をしてなお生かされてるくらいだ。さぞかし具合がいいんだろうなぁ?」
 何の話をされているのか訝しく見上げ、白亜は肩に食い込む指の痛みに眉を寄せた。荒く息をつく。粗野な態度と言葉に、これ以上ここにいるのは無駄ならぬ不愉快にしかならないと悟って立ち上がろうとして。
「新入りは先輩の相手をしてもらわんとなっ」
 振り解こうとした白亜は反対に力を加えられて大きくよろけ、再び椅子へと逆戻りする。
 乱暴な仕草に一瞬、紅葉を捜しに行った町での出来事が蘇った。
 肩を撃ち抜かれ、頭を壁に殴打され、死を間近で感じたあの瞬間。今とそれとは全く違う状況なのだけれど、白亜にとっては重なる事実。
「いや……っ」
「こんな細い腕でどこに逃げようっていうんだ?」
 臭気が頬にかかる。生理的な嫌悪に吐き気がする。逃げられない。
 椅子の上から圧し掛かるように覗き込んでくる海斗。
 白亜は逃れようと必死で腕を突っ張ったが、容易くつかみ取られて悲鳴が喉までせり上がる。
 ――夜人がいなければ、自分など何の意味も持たない。
 硝煙に霞む町並み。轟音と共に赤く飲み込まれていく故郷。こちらに銃口を向け、物を見るような視線を寄越した男たち。
 冷静に見極めていれば白亜でも海斗ていどの男は軽くあしらえただろう。けれど初めての経験に白亜は冷静さを失っていた。
 今この場にいる男たちの笑い声と、記憶の中に残る男たちの笑い声が重なった。
 記憶がフラッシュバックすると共に新たな恐怖が上書きされる。極限まで追い詰められていくような恐怖に目の前が暗闇となった気がして、白亜は訳が分からないまま衝動に従った。
 ズドンと、腹に響く低い音が聞こえた。
 一瞬が過ぎ去ると我に返る。ガタガタと体が震えるのが分かり、闇だった視界が徐々に開けていくのが分かる。それと同時に、被さろうとしていた男が勢いを失って尻餅をついた。周囲が静まり返る。
「この、アマ……ッ」
 震えながら白亜は、自分が銃を構えているのを理解した。発砲済みであることを示すように硝煙が立ち昇っている。
 無意識だったのだろうか。銃を取り出して撃ったのは。
 狙ったのかどうかも分からず、ただ、白亜が撃ちだした弾は天井を穿っていた。海斗は驚いて尻餅をついただけだ。
 銃声に緊迫した雰囲気の中、海斗は怒気を募らせ白亜につかみかかろうとする。
「いやっ」
 その手から必死で逃げたが、滲む視界に映るのは人の壁ばかりで逃げ場がない。無関心を決め込んでいた者たちとは別に、最初に声を掛けてきた海斗の仲間と思しき数人が立ち上がって取り囲んでいた。白亜は髪をつかまれ引き倒される。
「ここでは強者には絶対服従だ、覚えておけっ」
 白亜を仰向けに引き倒した海斗は怒りのままにそう吐き捨て、恐怖と混乱に悲鳴を上げた白亜に馬乗りとなった。白亜の視界に入る者は男たちの顔ばかりで救いはない。
 さきほど緊迫した様子を見せた者たちも、慣れた様子で思い思いに寛ぎ出す。
 ここにいる者に助け合いの精神なんてあるわけがない。白亜だけが取り残され違和感を拭えない。
 海斗の腕に比べれば格段に細い腕を、二つ重ねて頭上で組まれる。折れそうなほどきつくつかみ上げられて涙が出てきた。
「放せっ!」
「偉そうなことをっ」
 銃が取り落とされ、暴れる白亜に弾かれて床を転がっていく。
 馬乗りとなった男は白亜の攻撃を受け流し、怒りが収まらないように服に手をかけると破り裂いた。
 服の下からは漆黒の宝石が転がり出たが、海斗は注意を留めない。彼が興味を持ったのは、そんな小さな宝石よりも白亜が纏う薄い下着。
 狂った情欲と支配欲。組織の中で育てられた獰猛な嗜虐心を瞳に宿らせ、白亜を眺め下ろす。
 白亜はドクドクと脈打つ心臓を感じながら荒い息を吐き出した。海斗の視線に貫かれるような気さえして、唇が震えて悲鳴も出ない。手が伸びてくるのをゆっくりと感じていた。
 周囲は沢山の敵ばかり。何を考えているのか分からない能面のような表情で見下ろしている。
 晒し者のように、大勢の目がある中で好きにされるのか。
 今まで必死に守ってきたものが脅かされ、壊されようとしている。
 盛り上がる涙に気付かないふりで白亜は瞳を閉じ、顔を逸らした。

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