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第五章

 【五】

 夜人とのひと騒動が終わったあとだ。
 白亜の怒声を難なく受け流した夜人はひょうひょうと近くの部屋に促した。
 誰にも使われていない部屋なのだろうか。少し埃っぽいその部屋は暗く広かったが、窓はない。窓など――今となっては欲しいとも思わないが。
「あの場所は直接繋がっているからな。良く声が通る」
 どこに、と尋ねようとしてやめた。夜人の表情はどこか沈鬱で悲しいもの。白亜は黙って振り返った。
「……話することなんて、私にはないわ」
 眠る前に一目会いたいと思っただけだ、などとは言い出せずに白亜はうそぶいた。言葉を交わせることは何よりも嬉しかったが、顔には出せない。口を開けば憎まれ口ばかりが飛び出してくる。
 一度絶望を味わってしまったら、今こうして隣にいる幸せを受け入れることも怖くなる。
「俺にはあるんだ」
 夜人は扉の前に立ち、まるで逃げるなというように白亜を見つめた。
 白亜として組織に入ってから、散々冷徹さを見せ付けられてきた。その夜人にしては珍しく熱を含んだ瞳だ。昔に戻ったような錯覚さえ起こしてしまう。白亜はその瞳を直視できなくて視線を外す。しかし夜人はそんなことなど関係ないように、簡単に口に出す。
「紅葉は俺が守る」
 白亜は夜人を見た。
「だからお前が危険を冒す必要はないだろう」
 何を言われているのか分からない。夜人の赤みがかった黒い瞳は真剣そのものだ。いつもは瞳と言葉が裏腹で、ふざけた言葉しか聞いてこなかった。しかし今の言葉は、瞳と同じく真摯なものだった。
 白亜は黙ったまま夜人を見つめた。彼の瞳が何かを言いたげに揺れているのを悟る。
「――待ってよ」
 唐突に分からなくなった。
 白亜は勝手に顔が笑うのを感じながら右手を頭に当てる。体が知らずに震えだす。
「なにを、言ってるの?」
 だって、その言葉はまるで。
「紅葉を守るのは俺の役目だから、お前がわざわざ紅葉を守る必要はない」
「聞きたいのはそれじゃなくてっ」
 馬鹿正直に同じ言葉を繰り返した夜人を怒鳴りつける。白亜は混乱したまま立ち尽くした。
 夜人がこちらを見る瞳は、今までとは全く違うような気がした。それはまるで、紅葉に向けるような瞳だ。錯覚を起こしてしまいそうなほど、彼の瞳は熱い。
 ――教会で駆け寄ったときには痛烈に跳ね飛ばされた。
 組織での初任務のときにも邪険にされた。
 夜人が白亜に向ける瞳はすべて『近寄るな』という意志が込められたものだった。
「あの建物で、私が殺されかけたのを助けたのは、夜人……?」
 先ほどはただ「関係ない」と切り捨てられた問いを、もう一度訊ねる。
 夜人は少しだけ不本意そうに頷いた。
 白亜の中に答えがストンと落ちる。その途端、湧き上がってきたのは強烈な怒りと悲しみだった。
「分かってたならどうして無視するとかしてたのよっ?」
 白亜は顔を歪めて夜人に詰め寄る。
「どこから分かってたの。私が任務を命じられたときからっ? それとももっと前っ?」
「――最初から」
「最初からっ? 最初ってどこの最初からよ! しっかり私に分かるように説明しなさいよ!」
 怒鳴れば悲しみも大きく育っていく。
 白亜は夜人の服をつかんで揺さぶりながら、いつの間にか泣いていた。
 自分が鼻を啜ったことで泣いていることに気付く。乱暴に腕で涙を拭って睨みつける。そうすると夜人は少しだけ狼狽したような気配を見せた。眉を寄せながら頬を掻く。
「だから、教会で、お前が走って来たときから」
 白亜は絶句した。本当に、白亜が白亜として夜人と出会ったときから気付いていたことになる。
 あらぬ方を見ながら告げた夜人を、白亜は呆然として見上げていた。
 あれだけ悩んで泣いた過去の自分がいっそ滑稽に思える。言葉も浮かんでこない。気まずそうな夜人の姿が徐々に滲んでいくのが分かる。目頭が熱くなった。もう、止めようとは思わない。
「なら……どうして……」
 夜人は白亜が紅葉だと知っている。いま確信した。ならばどうしてわざわざ突き放すような態度を取っていたのだろうか。
 ずいぶんと勝手な考えだと我ながら思う。紅葉として組織にいた頃は、同じように夜人を突き放していた。それでも夜人は変わらぬ想いを抱き続けてくれた。それは簡単には真似できず、嬉しいことなのだと、いまさら強く実感できた。
「蓮夜はずっと白亜を捜していたから――俺が表立って庇うことはできなかった」
「蓮夜、が?」
 唐突といえば唐突な言葉に、涙も忘れて白亜の瞳が丸くなる。思い出したのは先ほど反対方向へ歩いていった蓮夜の姿だ。
 夜人はそんな白亜をどう思ったのか、小さく頷いて固く瞳を閉じる。
「お前が現われるまでは気にしたこともなかった。紅葉を今まで生かしておいたのも、お前が関係していたんだろう。……そんなことになっても俺が殺させないが」
 少しだけ瞳を険しくさせて語尾に付け足す。夜人は視線を床に落とした。掃除はほとんどされていない部屋なのか、埃が薄く積もっている。
 白亜も視線を落としながら、街中で男たちに殺されかけたことを思い出していた。記憶が巻き戻る。若い蓮夜の姿が甦る。
 言い知れぬ感情が胸の底に溜まっていくのを、泣きたいような気分で感じていた。

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