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第五章

 【六】

「俺はどうすればいい?」
 しばらく沈黙が下りた後に夜人の声が響く。
 視線を上げれば少しだけ困惑したような表情の夜人がこちらを見つめていた。
 紅葉は俺が守るから――だから、白亜が紅葉を守ろうとする必要はないのだと。
 瞬間的に熱くなった目頭からは溜まった涙が溢れ出し、頬を滑って珠を結んで落ちていく。それを感じながら白亜は微動だに出来ず、大きく瞳を瞠らせたまま夜人を見つめていた。
 ――違うのに。
 夜人の言葉を否定する。
 私が守りたいのは、紅葉ではなくて――
「俺は紅葉を守ることで精一杯だから――お前にまで手が回らない」
 夜人までの距離にはまるで見えない壁があるように感じる。透明な壁の向こう側で夜人は、こちらに踏み入ろうとすることもなく佇んでいる。
 沈鬱な表情を乗せて「それでも」と言葉を紡ぐ。
「俺は、お前に何をしてやれる?」
 瞳を見開かせたまま、ボロボロと泣き出した。自分らしくないと思うけれど止まらないのだ。
 まるで、取り込みきれなかった優しい何かがそのまま外へと押し出されて涙となったみたいで。目の奥が痛くなり、反論よりも先に顔が歪んだ。
 張り詰めていた糸が切れたように、静かだった表情は明らかな泣き顔となる。
 空気を求めて口を開け、今胸の中にある想いすべてを吐き出してしまおうとした。白亜の答えを待ち続けている夜人へとしぼり出すように告げた。
「――抱きしめて、ほしい」
 以前のように、何の裏もない安らぎが欲しい。
 苛立ちより罵倒より、先に出てきたのはそんな言葉。
 自分がそんな風に素直な言葉を出せるなんて思ってもいなくて、口にした白亜本人も驚いていた。自分の言葉を耳にし、夜人が瞳を大きくするのを見て白亜は耳まで真っ赤に染まる。恥ずかしさに軽い混乱へと陥りかけたがその前に夜人が動いた。
 見えない壁を突き破り手を伸ばしてくれる。強く抱きしめられて、胸の奥から熱いものが溢れてくる。
 今だったら何でも出来そうな、優しく強い何かが湧いてくる。
 不思議な安らぎは体から強張りを解いていく。白亜は夜人の背中に腕を回した。
 ――絶対、守ろう。
 瞳を閉じてそう思う。
 ――私は絶対、夜人を死なせない。絶対に守りきるんだ。私に安らぎをくれる、唯一の人だから。
「どうして夜人は、紅葉を守ろうとするの」
 涙でのぼせそうに頭を熱くさせながらそう訊ねた。
 ずっと聞いてみたかった。幼い頃に「嫁にしてやる」とは言われたものの、紅葉にしてみれば組織になんて入りたくないから拒否し続けてきた。それなのに夜人は今まで紅葉に向ける感情を弱くさせることもなく、更には命をかけてまで守ろうとするのだ。
 一体どうしてそこまでして紅葉を守ろうとするのか。
 組織での教育を受けているであろうに、彼は紅葉を邪険にすることもない。
 夜人の熱に触れて満たされていくような気持ちになりながら訊ねると、夜人は白亜を解放した。
 眉間には皺。困惑したように首を傾げ、何を言うべきか迷うように見つめてくる。
「……帰る場所を持つ紅葉が、羨ましい」
 少しだけ重たい口調で続けた夜人に目を瞠った。
「俺にはもう帰る場所なんてない。俺が育った養護施設は燃やされた。俺の目の前で、そこにいた人間もろとも焼き尽くされた。そうして俺を後継者として選び出した父はこう告げた。『お前が帰る場所は組織、一つのみ。泣くな、怯えるな、勇気を養い裏切るな』と」
 初めて聞く事実に白亜は瞬きも忘れて夜人を見つめた。夜人の瞳は翳りを増していく。
 自分が組織に連れてこられて泣いていたあの時が、夜人も初めて組織に連れてこられた時だと聞いてはいた。ではあの日、夜人は馴染んだ施設を目の前で燃やされていたのだ。それなのに、母と引き離されて泣いていた紅葉を慰め、笑いかけてくれた。
 白亜の視界が再び滲み出した。
「ここに来たら紅葉がいた。その時紅葉は笑ってくれたから――守ろうと思った。人を殺していくたびに心が冷えていくのが分かったけど、ここに戻ったら紅葉が変わらないで反応を返してくれるから、だから絶対、失いたくないと思ったんだ。絶対、愛そうと決めていた」
 ふと思い出した。
 組織に連れてこられたばかりの頃、隣だった夜人の部屋からはときおり何かが壊れるような大きな音が響いたり、気が狂ったような絶叫が響いていたり。そんな後に訪ねてくる夜人の表情はすべて沈鬱なもので、泣きそうな顔で抱きついてくる夜人をあやしながら眠ったことも、一度や二度ではない。
 一体いつからそんなことがなくなっていたのか、あまりにも昔過ぎて忘れていた。
 助けられていたのは夜人も一緒だったということだろうか。
「……ずっと昔、俺がいた養護施設で大人たちが話してくれた。嘲られたら沈黙を覚える。批判されれば非難を覚える。けど、褒められたら自分を信じることができるし、安心を経験すれば信頼することもできる。抱きしめられれば愛を知ることも出来るって。ずっと昔に有名な人が残した言葉らしい。子ども心にも、それがかなり強烈に残ってたんだ」
 抱きしめ、抱きしめられて。
 それでも人を殺し続け、誰かが言う『愛』という物が次第に分からなくなっていき、何のために自分が生きているのか分からなくなっていって。
 ――力があれば、何でも解決する気になっていた。
 けれどそれでは紅葉は怒るから。
「力じゃない方法で紅葉が笑ってくれれば、俺は嬉しい」
 微笑みをそっと浮かべながら涙を拭い、夜人から少し離れて彼を見上げた。
 今以上に夜人の事を想ったことはないだろう。
 白亜に見つめられ、紅葉に対する告白をした夜人は照れたように少し視線を逸らして頬を掻いた。そうして。
「だから、紅葉は俺が絶対に死なせないから――お前は安心して成仏しろよな、白亜」
「……は?」
 予想だにしていなかった言葉に白亜は笑顔のまま固まった。感動も何もかもを一瞬で失った気がした。夜人は気付かず「妹のことは俺に任せろ」と更に墓穴を掘り続ける。
 わずかに赤く染まった顔で、笑顔で告げ続ける夜人に白亜は拳を握り締める。
 言葉が耳に入ってこない。奴の笑顔が今こんなにも憎たらしいとは。
 腕が振り上げられたのは、その直後。

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