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第五章

 【七】

 ズキズキと、体の奥底から湧いてくる痛み。
 白亜は漠然とした恐怖を感じながらその痛みを受け止めて、細く息を吐き出した。
 目に映るものすべてが柔らかく感じられ、刻が動かないこの部屋にいてさえ誰かとの関わりを感じていられる。
 自分で自分を抱きしめるようにしながら白亜は口許に笑みを刷き、鈍く体の奥に湧く痛みを享受しながら寝台に横たわった。
 昨夜夜人と話をして、何も迷うことはないのだと知った。私は夜人を助けることだけを考えればいい。この体を包む暖かなものがある限り、私はどこまでも歩いていける。たとえそれが未来でも過去でも同じだ。
 ねじれたメビウスを私はまだ歩き続けているけれど、きっといつか、それを変えよう。
 別れ際にまた夜人の馬鹿を聞かされたせいで精神的に酷い脱力を感じていたけれど、その分を差し引いても幸せな気持ちが残っている。真実を告げようとしたけれど出来なくて。
 寝台に横になり、天井を見上げながら白亜はぼんやりと腕を上げて額に落とした。
 ――痛みが、ある。
 首にかけている黒い宝石。
 紐を手繰り寄せて服の下から取り出す。眼前に掲げると無機質にきらめいた。
 今白亜がこの場所にいられるのはこの宝石のお陰。どのような仕組みになっているのかや、どんな力が働いているのか。宝石は呑み込まれそうなほど黒く虚ろな闇を見せている。白亜はそれをジッと眺めていた。
 眺めている間は体を襲う鈍い痛みを忘れていられる。
 一体いつからだろう、このような痛みが体内に留まるようになってしまったのは。疲れている、というのとは少し違う。体の底から、波の様に痛みが押し寄せてくるのだ。それが強まっていくたび、自分はここで死ぬのではないだろうかと強い不安に襲われる。
 いくら休んでもその痛みは完全に治らない。体のどこかで常に痛みを感じている。
 心臓をつかまれひねり潰されそうな痛みを感じたこともある。
 白亜はしばらく宝石を見つめていたが、それを再び服の下にしまいこんで横に打ち伏せた。
 部屋自体は広いが、環境は紅葉の部屋と大して変わらない。愛着の湧くものなど存在しない。壁はコンクリートとなり、そこから夜人が入ってくることもない。
 蓮夜に与えられた部屋だ。少し視線を動かせば大きな窓があるけれど、そこは今赤黒く染まっているような錯覚さえ見せていて、とても開ける気にはなれなかった。
 沈み出す気持ちを感じながら白亜は軽く瞳を閉じて、昨夜の夜人を思い出す。
 やっぱり特別なのだ、彼は。
 思い出すだけで重い気持ちが軽く舞いあがる。泣きたいほどに嬉しい言葉ももらえた。結局自分が紅葉だということはまだ誤解したままなのだろうが――それでもいい。
 舌打ちし、それすら夜人らしくて笑ってしまう。
 眉を寄せるが結局口許は緩んでいた。
「私の記憶が正しければ――紅葉は今朝、蓮夜に訓練のことを言ったはずよね」
 いつまでも幸せ気分に浸ってはいられない。体を起こし、白亜は遠い過去を振り返る。
 蓮夜に銃を持たせてと言いった。彼が驚いたように聞き返してくるのが少し滑稽だった。『今』の紅葉は、さて何と言って蓮夜に訓練させるよう促したのだろうかと、考えるだけで頼もしく笑みが零れてくるのだ。
 だって、『あの』紅葉は私とは違う存在だから。
 いくら時をやり直そうと、きっとその度に生まれてくる『紅葉』は違うものだ。『今』の紅葉は私よりずっと頼もしい。彼女ならば、きっと――
 そう思って白亜は立ち上がった。
 いつまでもこの部屋にいても埒があかないし暇すぎる。もう組織のために仕事をするのだって覚悟していたというのに、その関係の仕事話はサッパリ耳に入ってこない。食事は紅葉のときと同じように蓮夜が運んできてくれるか、彼に連れられて食べに行くか、どちらかだ。組織専用の食堂は閑散としていて、人はまばらだった。味は、紅葉に運ばれていた食事とまったく変わらなかった。
 蓮夜に会うたび胸を鈍い痛みが過ぎるのだが、それには目を瞑る。
 余計なことを考えている余裕などない。
「さてと」
 自分を奮い立たせるように掛け声をかけ、白亜は外へ行こうと廊下に向かう。  扉に触れた瞬間だ。
 白亜はまるで静電気でも走ったかのように勢いよくその手を離した。
 先ほどまで血色良く桜色に染まっていた頬は、今では死人のように蒼白なものへと変化しており双眸は限界一杯まで見開かれている。
 ――触れた瞬間に見えた、伽羅の影。
 穏やかな微笑みを浮かべながら紡がれる声が、耳の奥に反響するかのようだった。
 そろそろと這い上がってきた悪寒に体を震わせ、やや開いていた口から慎重に吐息を洩らす。まるで、少しでも音を出したら気付かれてしまうとでも言うように。
 全身金縛りにあったかのように硬直しながら、白亜は無意識的に宝石へと手を伸ばした。玲瓏とした冷たさを湛えるそれを包むと暖かいものが広がっていく。本来の持ち主である『伽羅』の意思とは正反対に、略奪者である『白亜』を包み守ろうとするかのような、暖かな気配。それはすべてこの小さな宝石から伝わってくるものなのだと、白亜はぼんやりそう思った。
 伽羅が直ぐ傍にいる。
 何の確証もなくそう思った。同時に胸の宝石が熱を帯び、まるで伽羅の来訪を待ち望むかのように輝きだした。
 白亜は勢いに任せて扉を押し開く。自分でも何をこんなに切迫しているのか分からぬまま外へと飛び出す。息を乱し、駆け足で石廊を走り抜ける。
 よどむ空気に吐き気がする。換気がされていないようなこの廊下には、同じ空気がずっと停滞していて息苦しい。まるで鉱山の中にいるかのようだ。
 死の匂いを漂わせ、生気の欠片も見出せず。息を止めていたのではないのに、太陽光が降り注ぐ外に出ただけで大きな解放感と新鮮な空気に安堵する。ようやく息がつけるようだった。
 咳き込み、振り返ると内部へと続く廊下が暗く闇を宿しているように見えて、白亜は慌てて視線を逸らせた。
 周囲を眺めれば、今白亜がいる場所から箱庭までそれほど離れていない。
 どうやらまた自分でも知らない経路を走ってきたようだ。いい加減組織内の通路を把握したいものだが。
 白亜はため息を零してから箱庭へと足を向け、紅葉に会おうとぼんやり思う。
 今の紅葉は蓮夜に何と言ったのか。『蓮夜』の名に胸を掠める痛みがあったが、無理矢理脳裏から締め出した。
 少し山になった芝生を越えると直ぐに教会が目に入った。近づき、白亜はためらうことなく扉を押し開ける。

 ――死者の蘇りと 来世の生命とを待ち望む――

 扉を開けた途端、空気の密度が違うのではないかと思われる荘厳な雰囲気が白亜を待ち受けていた。
 いつ来ても慣れないこの空気。組織内のかび臭さがないのは嬉しいが、この場所があの牧師の管轄内だというだけで気持ちは暗くなる。ただでさえ、この気が滅入るような音楽を強制的に聴かされているというのに。
 白亜は教会内を見渡した。
 一番に入ってくる十字架と、繋がれた男性。ステンドグラスから入って来る光は淡く、床に陽炎を作って形を変える。
 牧師がいない。
 教会内に入る者たちを穏やかな仮面の笑顔で出迎えるはずなのに、どこへ行ったのだろうか。以前、彼に戦い方を教えろと迫ったことも遠い過去に思えた。
 白亜は自分がまるで遠いどこかへ連れて行かれるような錯覚に陥ってかぶりを振る。気弱になっている場合ではない。
「いないならいないで構わないのよ」
 声に出して自分を鼓舞する。
 胸を張って教会内を通り、箱庭に繋がる扉を押し開けた。その瞬間、再び静電気に似た痛みが指先から全身に走った。白亜は思わず悲鳴を上げて扉から離れる。牧師による攻撃ではない。扉から直に何かが伝わってきたのだ。
 押し開かれた扉が閉まることはない。そこからは箱庭の様子が窺えた。
 白亜は息を呑んだ。
 胸元の宝石が淡い光を帯びた。白亜の耳にしか聞こえない、甲高い音を響かせる。扉の隙間から見えた箱庭には紅葉と、伽羅がいた。
 白亜は息ができなくなるほど胸がしめつけられ、慌てて扉を閉めた。閉める直前、紅葉に笑顔を向けていた伽羅が振り返った気がして、衝動のままに逃げ出した。
 いまはいつなのだろうか? なぜここに伽羅が現われるのだろう。隣に麻奈はいなかった。麻奈と喧嘩したのはいったいいつ?
 息を乱しながら目まぐるしく考える。白亜は混乱したまま元の道を引き返す。
 牧師はいない。蓮夜も姿を見せない。さらには夜人もいない。もしここで伽羅につかまったら、自分は二度とここに戻ることはできないだろう。
 白亜は組織内には戻らず、いつか蓮夜に連れられて出た石門をくぐった。
 自分でもどこに行こうとしているのか分からない。伽羅から遠く離れなければと、それだけを思って、組織を飛び出した。

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