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第六章

 【一】

 組織の石門を通り抜けるとき、凄まじい視線の束が突き刺さるのを感じた。
 肌を刺すような痛み。抜け出そうとする白亜を牽制しているのか。
 けれど白亜は近づき来る伽羅から逃れるため、ためらうことなく踏み出していた。もしかしたらここで射殺されていたのかもしれないと、後で思い返して白亜はぞっとするのだったが、今はそんなことを考えている余裕もなくて必死だった。
 幸い白亜は誰にも邪魔される事なく石門を潜り抜けられた。いつか蓮夜と共に通り抜けた路地を横目で確認しながらでたらめに角を曲がり走る。
 伽羅から逃げたいと強く願えば、胸に掛かる宝石が自分の『時』を早めてくれるような気分だった。視界に流れる景色は軽快であり息切れもしない。体が軽く、どこまでも走っていける――
 白亜は自分がどこを走っているのか分からないまま、ただ伽羅から逃げたい一心で走り続けた。
 やがて、もう伽羅からは大分離れたであろうと思う距離を走った頃だ。
 無人を窺わせる雑居ビル。元は何の営業がされていたのか、ずいぶん古臭い看板が壊れかけて掲げられている。それらが立ち並ぶ、廃墟と呼んでも差し支えないような状況の中でふと足を止めた。
 軽い倦怠感と高揚する気持ち。伽羅の気配はもう感じない。ここは何処だろうと思った時だ。
 ゴボリと鳴った自分の喉に、白亜は目を瞠って息を詰まらせた。
 埃にまみれた石畳に落ちていく、色滑らかな紅《くれない》。『血』だと認識した瞬間に体を襲う、痛烈な無力感と絶望感。自分という存在が内側から消されていくようだった。
「い……や、やだっ」
 瞳の裏側に潜む、昏い虚無に怯えてかぶりを振る。迫る『死』を必死に遠ざけようとして、白亜はしぼり出すように悲鳴を上げた。
 まだ何もしていない、と。
 願うより強く息を吐き出して。
 その場で膝を折り、うずくまるように小さくなった白亜はしばらくそうして耐えていると体が安らいでいくのを感じた。破損した細胞が再生していくように、静かに痛みが引いていく。
 やがてしばらくをかけてすべての痛みが引いていく。白亜は全身の強張りを解いて、長く小さな安堵の息を吐き出した。
 ――大丈夫、なのだろうか。
 恐る恐る立ち上がってみるが、体に痛みは感じなかった。腰をひねって背後を窺ってみても変わらない。どこにも異常はないようだ。先ほどまであれほどの絶望感に襲われていながら、まるで白昼夢でも見ていたかのように。
 ――まだ、死ねないから。
 拳を握り締めて、ふと気付く。
 先ほど吐き出した血は、古ぼけた石畳に留まることなく消えていた。染み込んでしまったのだろうかとも思ったが違うようだ。まるでそこに最初からなかったかのように消えていた。


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 帰り道が分からなくなってしまった。
 黄昏に染まる無人ビル群の中で、白亜は一人で途方に暮れていた。
 組織に戻らなければいけないのに道が分からない。自分がどこを通って逃げてきたのかサッパリだ。この辺りには誰の姿も見つけることが出来ず、寂れた空虚さをひしひしと感じるだけ。
 屋上から眺めれば……分かるだろうか。
 周囲に乱立するビルたちを見上げ、白亜は足を踏み入れた。ビル入り口のコンクリートに手をかけると脆く壁が砂を落とし、その力のなさに不安を煽られる。屋上へ出るのはいいが、こんな何十年も使われていないような古いビルに入って無事に辿り着けるのか。途中で階段が崩れたらどうしよう。
 紅葉の脳裏に母親の言葉が甦る。古くなったビルたちがあちこちで自然倒壊を始め、それに巻き込まれた人々はあっけなく潰されていくのがこの世界の現状だ。たとえ倒壊に巻き込まれなかったとしても、倒壊したビルが巻き上げる埃に呑まれてしまえば簡単に窒息死する。
 白亜は一抹の不安を抱きながら、それでも現状打破のためには仕方ないかとため息をついて階段に足をかけた。先ほどまで痛みに苛まれていた体を案ずるように、その動作はユックリと。
 階段途中には何の部屋もあらず、この階段はただ屋上へ続くのみのようだった。
 もしかしてこのビルの本当の目的は展望台なのだろうかと、馬鹿らしいことを考えながら登って行く。ときおり壁に空けられた窓からは外が見え、そこから覗くたびに遠ざかっていく地面に眉を寄せた。
「人口低下、大気汚染、水面上昇、えーと……あとはなんだっけ」
 どれもが幼い頃に聞かされたことだ。
 組織の中は快適に造られていたけれど、一歩外へ出ればそんな世界が広がっているのだと。あれは誰が教えてくれたのだったろうか。
「て言っても、そんなの限られてるけどさ」
 段々足が辛くなってきた。減らず口でも叩いていないと挫けそうだ。痛みの『波』が再び襲ってきそうで、立ち止まることなど出来なかった。
 そのとき耳に触れた、小さな異音。湧きあがる違和感。金属音。
 白亜は目を瞠ると共に素早く銃を手にしてそちらへ放った。相手の顔を視界に入れることもなく、感覚だけで撃ち放つ。
 視界に入ったのは鮮やかな血を吹き上げながら倒れていく、誰かの姿だった。
 丁度階段から下りてきたところに白亜を見つけたのだろうか。倒れようとするその人物は、恨みの声を上げることもなく階段から落ちていく。
 螺旋階段となっていたため最下層までは落ちずに壁に激突する。そしてそのまま動かなくなった。
 ――あまりにも突然で緊張する暇もない。白亜の鼓動は静かなままで、黙したまま自分が撃った人物が落ちていくのを見ていた。銃を構えたままで、息を乱しもしない。
 そしてその人物が壁に激突した音を聞いた瞬間、我に返る。
 急激に恐怖が襲ってきて、直ぐさまこの場から逃げ出したくて、白亜は急いで階段を駆け上がった。目測もせずに撃ったため、どこに命中したのかも分からないが。落ちていく時に、相手は肩を押さえていたので多分そういうことだろう。壁に激突し、軽くうめいた声を聞いたが駆け寄ることもせずに白亜はただ逃げた。
 殺伐とした世界。モノクロだらけの瞳に映る鮮やかな色は何色か。
 もしかしたら他にも誰かがいるのかもしれないとの思いが脳裏を掠めたが、気にしても仕方がない。手にした銃を固く握り締めて、屋上まで駆け上がった。
 こんなにも簡単に人の命が消えていくことが恐ろしかった。

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