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第六章

 【二】

「動くなよ」
 鉄錆びた重たい扉を押し開けると冷たい空気が体を包む。高層のため、地上よりいくらか空気が澄んでいる。そんな違いに表情を綻ばせたあとのことだ。声がかけられたのは。
 白亜は聞こえた声とともに銃を突きつけられたことを知り、硬直した。
 待ち伏せされていたのだと悟る。
 体が冷えていく。駆け上がってきたため、かいていた汗は一瞬で引いた。顔を上げなくても気配だけで銃口を向けられていると分かる。
 もしかしたら先ほどの仲間だろうか。
 反撃の糸口はないものかと、握り締めていた銃に力を込めれば鋭い制止の声が飛ぶ。白亜が照準を合わせるよりも、撃たれる方が早い。
「ソフィアの教会から出てきていたな。供もつけずに自由に出歩けるのは限られている。――何をつかんでいる?」
 初めて聞く言葉に白亜は顔を上げた。
 黄昏に染まる夕焼けのなか、銃を向けているのは一人だった。逆光のため顔に影が落ちて表情は読めない。声や格好から男だろうと推測する。
 白亜が黙ったままでいると、男は銃を下ろさぬまま、先ほどよりも声を強めた。
「宇木が様子を見に行ったっきりまだ帰って来ない」
 白亜の双眸が瞠られる。その表情を見取った男が唇を歪めた。少しだけ銃身を揺らし、動揺したようだ。白亜に向ける警戒心の中には新たな憎悪が生まれる。
 ――殺される。
 直感的した。彼が口にした『宇木』という人物は、先ほど白亜が撃った人物だろう。生死は確認していないが、けっこうな重傷のはずだ。なにせ肩を撃たれ、受身も取れずに階段から落ちて壁に激突したのだ。
 ふと白亜の背中に冷たいものが流れ落ちた。
 もしも彼が生きていて、階段を這い上がり、この背後にいたなら――
 そんな考えが浮かび、恐怖心は増大する。押し潰されてしまいそうだ。その恐怖に勝てず、振り返った白亜は仰け反った。
「動くなと言ったはずだな」
 痛みの合間に強い声が響いてくる。白亜の肩から全身にかけて、痛みが走る。
 白亜は、自分を撃った先ほどの男を睨みつけた。
 結局は宇木という人物など背後にいなかったのだが、これでは意味がない。
 奥歯を噛み締めて痛みに耐えた。傷口を直接圧迫して止血を試みる。触れれば脳天にまで激痛が走ったが仕方ない。一転して荒くなった呼吸を宥め、手に込める力を強くする。
 弾は貫通しただろうか。一見しただけでは分からない。確認しようにも目の前の人物がそれを許さない。
 こんな状況だというのに笑いたい衝動が湧き上がり、白亜は息だけを鼻から吐いた。見咎めた男が眉を上げる。
 白亜は傷口を圧迫していた手から力を抜いた。両手を横に下ろす。その瞬間にも血が溢れ、腕を濡らしていく。急激な出血に貧血となる。白亜の視界はぐらついた。そのまま立っていることができずに壁に背中をつける。視界に広がる空は曇天だ。夕焼けも終わり、辺りは薄闇が支配する世界となる。濃厚な血が風に薫る。
 白亜として紅葉に出会ってから、血生臭い情景にばかり遭遇するな、と思う。
 黙ったまま成り行きを窺っていた男が苛立つように再び銃のハンマーを上げた。白亜の視線が戻る。
 心臓が燃えるように熱く、視界が暗い。白亜は知らずに笑みを浮かべる。
 何が起きようとしているのか分からぬまま時を待つ。そのときは、すぐに訪れた。
「その娘は妾と縁を結んだ者じゃ。そのほうらは退がりおれ」
 男の双眸が見開かれた。
 それはそうだ。伽羅はいま、白亜が寄りかかる壁の反対側――もとはこのビルの水源として使われていたであろう貯水タンクの陰から出てきた。男の死角だ。
 男がこの屋上に来る前から隠れていなければ、その貯水タンクの陰から出てくることなど不可能だ。
 男の銃口が伽羅と白亜との間で迷ったように揺れる。
 白亜は男の迷いを悟って銃を定めた。一瞬遅れて白亜に狙い定めた男が引き金を引くが、白亜が倒れることはなかった。男の銃口が白い光を帯びた瞬間にも白亜はしゃがみこんで避ける。そのままの体勢で男に撃ち込む。
 ためらう余裕はない。何を犠牲にしても、あの『場所』まで生き延びなければいけないのだから。
 残りの弾は三発だ。すべてを使い切った白亜は、男の顔が悲痛に歪むのを見た。その表情は重たく強く、白亜の胸に刻まれる。
 撃たれた男はその衝撃のまま仰け反った。彼の背後には低い塀がある。古いビルには安全対策の柵も設けられていない。男は長い悲鳴を響かせながら、そのまま落ちていった。
 白亜は呼吸を激しく繰り返しながら座り込んでいた。階段で男を撃ったときとは違う。腕が震えている。銃を握り締めた指は、一本一本反対の手で開かなければいけなくなるほど力を入れていた。
「むごいことをしおる」
「伽羅は……死神?」
 淡々と呟いた伽羅を振り返って、白亜はぎこちない笑みを浮かべた。肩から突き抜けるような痛みが響く。話でもしていなければ意識が遠のいていく。
 伽羅は言葉のわりに大した動揺も見せない。ただ観察するように男が落ちた方向を見つめていた。そんな問いかけに、伽羅は不愉快そうに眉を寄せて白亜を振り返った。
「妾は妾以外の者になったりはせぬ。そなたが紅葉であるのと同じことじゃ。白亜、そなたは真の人間であるか?」
 不機嫌そうに顔をしかめていた伽羅だが、何を思ったのか途中からは楽しげに切り返した。先ほどの伽羅と同じように、今度は白亜が眉を寄せる。
「私は私よ。それ以外は関係ないわ」
 結局、言葉は先ほどの伽羅と同じだ。何と言い表せばいいのか分からない。適当な言葉が見つからない。
 純粋な人間であると言い切るには不思議な体験をしてきた。それでも人間以外のものになった覚えはない。答えに困る質問だ。
 突きつけた質問が同じ難易度を保ったまま返ってきて、言葉もない白亜に伽羅は笑う。男たちのことなど忘れた楽しげな笑い声だ。
 白亜は彼女の笑い声を聞きながら、痛みで朦朧とする頭を振った。瞳を瞬かせる。壁に背中をつけて深呼吸する。そうして一度息をついてから、再び伽羅に視線を向けた。どうしてだろうか。逃げる、という選択肢が浮かばないのは。
「なら……私を殺しに来たの」
 奪った私が憎いだろう。怯えも浮かばず事実の確認をするための質問だったが、伽羅は今度も形の良い眉を寄せた。笑い声もピタリと止まって「やれやれ」とでも言いたげにかぶりを振られる。
 心外じゃ、と小さな呟きが聞こえた気がしたが、気のせいだったのかもしれない。
 伽羅の手がスッと向けられ、白亜は思わず身構える。反射的にとはいえ、伽羅に銃を向けてしまって驚いた。たとえ銃弾が入っていなくても同じ意味だ。伽羅が不愉快そうに眉を寄せる。
 今までで一番不愉快そうだった。
「そのような無粋なものを妾に向けるでない」
 放たれる声も刺々しい。白い手が振られた瞬間、銃は容易く遠くに転がった。
 伽羅が直接叩き払ったのではない。何の力も加えられたようには思えなかった。けれども、彼女が手を振った瞬間、銃は白亜の手から離れていた。
 以前、夜人に加えられた力と同じだろうか。
 白亜は唇を噛み締めた。
 胸元で沈黙を保ち続ける宝石。これは一つの砦だ。これがなくなれば生きる意味を見失う。白亜がここに生きるのは、近い未来、起きるできごとを止めることなのだから。
「ほんに強情な娘じゃ。そなたの覚悟は立派じゃが、力なくばただの無謀ぞ」
 苦笑した伽羅が再び手を伸ばす。
 今度こそ逃げられない、と硬直した白亜だったが、今回も違ったようだ。肩を竦めて怯えていると、優しい風が頬を撫でた。痛みが消える。
 不思議に思って瞳をあければ出血が止まっている。わずかだが頭に響く痛みも和らいでいる。それはまるで、裏路地で強く、死にたくないと願ったときと同じようだ。
 ――伽羅は私を憎んでいると思っていたのに。
 傷が塞がった喜びよりも訝りの念が強く、白亜は伽羅を見た。
「何かを為すためには力が必要じゃ。そしてやり通す意志が。大きな土台が必要なのじゃ」
 真摯な瞳には悲痛な色が揺れていた。
「妾はこの世界が好きなのじゃよ、白亜。この世界に生きるそなたたちを愛しく思う。その妾がなぜそなたたちを傷つけようと思うのか」
「でも……私は、伽羅が大切にしている宝石を奪ったわ」
 胸元の宝石を、癒えたばかりの腕を動かして包む。震えるように伽羅を見つめる。
「憎くはないの。そんな考え、私には分からない」
 自分からすべてを奪った者たちが憎い。もし彼らが街を襲撃しなければ、母と逸れることもなく、弟とも一緒に遊べた。夜人と出会うことはなくても、夜人が死ぬことはなかった。すべては組織の思惑の内。憎くて悔しくて、何度も組織に怒りを向けた。自分をこのような境遇に陥れた世界を憎んだ。
 やり場のない怒りは蓮夜に向かった。最初のうち、組織内で言葉を交わすことができたのは、彼と夜人だけだったから。
「伽羅には不思議な力があるじゃない。それを使えばこの宝石を取り上げることなんて簡単なのに、どうしてそうしないの?」
 言いよどんでいた伽羅に、白亜は畳み掛けるように問いかけた。伽羅は一瞬だけ時が止まったように硬直したが、一瞬が過ぎればため息をつくように答えた。
「それは妾の持ち物ではない。妾は預かっているのみじゃ。妾のモノではないから無理に取り上げたりなどできぬ。じゃから」
 伽羅の手が白亜に伸びた。その手で直接、宝石を取り戻そうとするのか。その意図に気付いた白亜は宝石を握り締めて、一歩後退した。
「……白亜。このまま歩んでもメビウスは止まらぬ。それがなぜ分からぬか」
「分からなくなんて、ないわ」
 伽羅は逃げる白亜を追いかけることなく、留まりながら訴えかける。そのことに複雑な想いを抱きながら白亜は反論していた。ここで肯定してしまえば白亜が生きる意味がなくなってしまう。紅葉として見た結末は知っていても、白亜としての結末はまだ迎えていない。知らないまま諦めたくない。
「伽羅の、その考え方こそ逃げだわ。私は諦めたりなんてしないもの。もし結果が見えてるなら、変えようと努力、するもの……っ」
 顔を歪めて叫ぶ。
 ふと、伽羅の気配が一変したような気がした。
「ならば……白亜」
 途端に吹き荒れた烈風が白亜に叩き付けられる。乱れた髪に視界が遮られ、慌てて払う。
 伽羅は柔らかなショールや髪をわずかに揺らせるだけだ。この暴風のなか、平然と立っていた。白亜はその様を凝視する。
「妾は本気でそなたを止めねばならぬ」
 脆く、崩れやすくなったビルの屋上。
 恐らく伽羅が起こしているだろう暴風に、屋上の床がえぐり取られて宙に舞った。細かな砂塵に頬を叩かれて唇を引き結ぶ。
「時の流れを人の身で扱うことまかりならぬ」
 一歩、伽羅が白亜に向けて足を踏み出した。
 このままではいけないと警鐘が鳴る。しかし白亜は動けなかった。この暴風のなか、一歩でも動いたら風に攫われてしまいそうだ。必死で宝石を握りしめながら、近づこうとする伽羅との距離を測るだけ。
 強い意志を感じてはいても、それでもどこか許されている大きな何かを感じる。
 白亜は戸惑った。
 そうしながらジリジリと後退を始める。伽羅が辿り着くよりも先に階段に足をかける。ためらう余裕などないと理解しながら、伽羅に背を向けることがためらわれた。
 その瞬間だ。
 伽羅は消えた。
「……え?」
 伽羅の姿が消えると同時に風も止んだ。
 もしかして自分の分からぬ視界に飛んだのかと見渡したが、屋上に伽羅の姿はなかった。
 その代わりに。
「命令のない外出は厳罰だ。俺までもが巻き込まれた外出の理由を話してもらおうか、白亜」
 苛立つ感情をわざと押さえ込んだような低い声が響いた。
 白亜は振り返る。
 そこには、蓮夜の姿があった。

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