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第六章

 【三】

「蓮、夜……どうしてここに」
 階段の闇から姿を現したのは蓮夜だった。
 殺気を放ちながら登り来る彼から距離をとり、白亜は驚きを隠せず呟いていた。蓮夜は不愉快そうに睨みつけてくる。
「B区画で不穏な動きがあると連絡が入っていた。一網打尽といきたかったが、お前が現われたせいで台無しだ」
 何を言われたのか分からなかったけれど、蓮夜が耳に何かをつけているのを見つけて納得した。
 仕事で使われる通信機。ずいぶんと旧時代のものらしいが、物資も満足に配給されないこの世界では貴重なもの。夜人に以前、聞いたことがあった。珍しげに瞳を輝かせた紅葉に、夜人はまるで先生になったかのように楽しく教えてくれた。思えば平和な時間だった。
 今は蓮夜の持ち物を目にしていただけだったのだが、白亜の意識は全く関係ないところまで飛んでいた。
「ここで、何をしていた」
 鋭く問われて意識を戻す。
 細められた真紅の瞳は本気で不機嫌そうだ。
「……蓮夜、一人なの?」
「聞いているのはこちらだ。答えろ」
 答えは返されなかったが一人であろうと見当をつけた。
 白亜として数日、組織の一員として彼と接していて分かったことも沢山ある。蓮夜は他人と迎合しない。妥協もしない。頑なに他者を否定し続け、自分の邪魔をする者があれば容赦なく切り捨てる。
 それは夜人にも当てはまることだった。
 もしかしたら組織の上に立つ者達は、そういう適応性がないのかもしれない。
 他者を信じず、信じるものは己のみ。そういうように教育されているのかもしれない。至極ありえる考えだ。
「何もしてないわ。いつの間にか迷い込んで組織の場所が分からなくなったから、ここから見れば分かるかもしれないと思っただけよ」
 白亜は顔をしかめながら説明した。
 夜空が広がる屋上で、吹き付ける風が徐々に冷たくなっていく。先ほどまで伽羅がいたのだが、今ではその名残もなく、本当に自分は伽羅と会っていたのだろうかと疑問が浮かんだ。もしかして全てが夢だったのではないか。だってほら、蓮夜は何の疑問も持たずにここにいる。伽羅はなぜ突然消えてしまったのだろう。
 視線を蓮夜に戻して息を呑んだ。
 気配もなくスルリと傍に近寄られ、腕をねじ上げられて痛みが走った。悲鳴が喉を圧迫したが放たれる前に石畳へと突き飛ばされた。息を詰めて衝撃に耐える。
「……何もという言葉は正しくない。正確に答えろ。お前はここで何をした」
 ゾクリと肌が粟立つ感覚。
 見下ろされる蓮夜の瞳は赤く鋭く、まるで飢えた獣に睨まれているよう。
 白亜は無意識に後退していた。腰が抜けているかのように、石畳についた手と、震える足。
 この屋上はそれほど大きくない。縦幅は充分に造られているが、横幅は縦幅に対して狭かった。その壁に背中をつけ、これ以上後退できないというのに蓮夜との距離はさほど開かない。
 蓮夜の足がこちらに向けられ反射的に体が跳ねたけれど、白亜は顎に力を入れて睨み返した。無表情の中にあった不機嫌さが少し消え、蓮夜は次にぞっとするような笑みを浮かべる。息をすることすら許されないように潜めて、白亜は戦慄した。何が彼の内面を変えたのか分からないまま見上げ続ける。
「――何もかも、お前にはどうでもいいか」
 嘲るような、皮肉るような、そんな声音。
 蓮夜は足を振り上げ、蹴られると思った白亜は顔を背ける。体が思うように動かなかったので小さくなり、瞳を硬く閉じ、少しでも衝撃に耐えようとする。
 けれど衝撃は来なかった。代わりに殴る音だけが聞こえてくる。そして同時に、背中をつけていた壁がわずかに震動した。
 頬に感じた風に髪が乱されたが、他の衝撃は加えられない。
 恐る恐る瞳を開くと目の前に蓮夜がいた。彼が蹴ったのは白亜の真横にあたる塀で、蓮夜はそのまま体を近づけてきた。何を意図しての行動なのか、まるで分からない。ただ、向けられる感情だけが鋭く強い。白亜は小さく震えながら蓮夜を見上げた。先ほどと同じように、切れ長の赤い瞳が見下ろしている。違うのは自分との距離が縮まったことくらい。
 蓮夜は耳にかけていた小さな通信機をむしり取って放り投げた。カラカラと軽い音を立てて転がるそれを白亜は目で追う。気のせいかもしれないが、通信機の向こう側から夜人の声が聞こえていたような気がした。そして。
「その瞳」
 蓮夜の吐息が耳にかかったような気がして、視線を戻した白亜は目を瞠って息を止めた。
 一体何を考えているのか。
 壁に押し付けられ、白亜には到底敵わない力を見せ付けて。白亜は蓮夜に口付けられていた。
 何が蓮夜の激情を煽ったのか分からない。
「んんぅ……っ!」
 ただ驚いていた白亜は口腔まで入ってきたものに顔をしかめて抵抗した。
 殴って離れようと拳を振り上げれば、気付いた蓮夜につかまれ、叩きつけるように壁へと押し付けられた。
 圧倒的な力の前にただ怯える。
「――何もかも、満たされないんだ」
 白亜の抵抗が止むほど長い時間、力で押さえつけていた蓮夜はそう呟いた。
 荒い息を繰り返しながら白亜はそれを間近で聞く。
 まだ衝撃が抜けていない。つかまれたままの手首は震え、歪む視界は酷く滲んでいる。俯くと零れてしまいそうで、唇を引き結んで顔を上げた。目の前にあった真紅の双眸を睨みつける。
「飢餓感、焦燥、絶望、虚無……何もかもが揃わない、満たされない」
 迫る双眸は真摯に切なくて、つかまれている手首よりも胸の奥が痛かった。
「ソフィアが叶えば俺たちも満たされると、そう思ってきていたと言うのに、なぜ……」
「や……」
 髪を一房、引っ張るようにつかまれて悲鳴を上げる。痛みに顔をそらせ、熱い物が首筋を舐める感覚に涙が零れた。
 寒さとは違うモノが背筋を駆けた気がし、足が震えて力が入らない。寄せられた蓮夜の体を押し返そうとするのだが力が足りない。泣くような彼の声に拳を握り締める。
 紅葉を陥れた蓮夜に、なぜこんな想いを抱かなければいけないのかと。そのことが夜人に対する酷い裏切りのように思えた。
 ここに逃げ場はない。退路は蓮夜に断たれ、この腕から抜け出すことも叶わない。唯一の道は背後だが、先ほど落ちた男と同じ末路を辿る訳にはいかなかった。それでも、蓮夜から逃げるにはそれしかないのだ。そうしてまでも逃げなければと、過ぎらせた白亜は瞳を開いた。真紅の双眸が見つめている。
「お前だと、思った」
 つかんだ髪の一房に口付けるようにしながら蓮夜は囁く。
「これでやっと、解放されるんだと……」
 これは誰だろう。
 白亜はぼんやりと思う。
 今まで紅葉に向けてきた冷たさを微塵も感じさせない視線を、蓮夜は白亜に向けている。一筋の固さもない、まるで神聖なものを崇めるような瞳。
「今度こそ、俺のものになれ。白亜」
 さぁっと血の気が引くようだった。その意味が染み込むまでに大分時間がかかり、信じられなくて蓮夜を見上げるとそこには切なげな瞳がある。
 苦しみながら絞り出した言葉の一つ一つが蘇り、白亜はツと涙を零す。
 ストンと胸に何かが落ちた気がした。
 親という存在を知らず、人がもたらす体温を知らず、闇雲に体を重ねるほど彼の苦しみは募っていく。生まれてから一度も人の手に触れない者が生きていけるだろうか。同じようなモノを、彼らは与えられて来なかった。
 彼がときおり外から子どもを入れるのは、自身が望むものを持つ者たちを手に入れたいからという無意識の欲求なのかもしれない。そのようなことをしても、何も手に入らないのに。
 組織で育つということは本当に――なんて残酷なことなのだろう。
 つい先ほどまで無理矢理強行されていたにも関わらず、目の前でこれほど強く純粋に激情を向けてくる蓮夜を、白亜は憎いとは思わなくなっていた。
 彼の中に夜人の姿が見えた気がして、白亜は蓮夜の頬に手を伸ばす。
 哀れみなどではなくて、彼らをこのように育てた環境に涙が出てきた。応えられないことにも涙が出てきた。
 白亜が紅葉である限り、白亜は蓮夜に応えられない。

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